第13話 未来知識だけでは政治はできない
未来を知っている。
それは、とても便利なことだ。
少なくとも。
俺はそう思っていた。
アヘン戦争が起きる。
清は負ける。
やがて黒船が来る。
幕府は揺れる。
井伊直弼が大老になる。
安政の大獄。
桜田門外の変。
薩長同盟。
大政奉還。
鳥羽・伏見。
戊辰戦争。
江戸幕府滅亡。
俺は知っている。
結末を。
だから。
間違えないと思っていた。
それが。
最初の間違いだった。
◇
「違う」
俺は紙を見ながら言った。
「何がでございます?」
隣にいたお喜乃が聞いてきた。
「違うのです」
「ですから、何が?」
「数が」
「数?」
「はい」
俺の前には、父が集めさせた報告書があった。
英国。
清国。
露西亜。
阿蘭陀。
遠い異国について。
もちろん、情報は不完全だ。
間違いもある。
噂もある。
何年も前の情報が、最新の情報として扱われている場合さえある。
だが。
問題はそこではなかった。
「私の知っている数と違います」
「若君が知っている?」
「夢です」
「便利ですね」
「今はそれを言わないでください」
俺はもう一度、報告書を見る。
英国の船。
兵。
清側の対応。
戦況。
細かい部分。
俺の記憶と違う。
「おかしい」
「間違いでは?」
「どちらが?」
「その報せが」
お喜乃が言った。
俺は口を閉じる。
それもある。
当然だ。
情報が遅い時代だ。
正確とは限らない。
「でも」
「はい」
「私の方が間違っている可能性もあります」
お喜乃が少し首を傾げた。
「若君の夢が?」
「はい」
「夢ですからね」
「そうなのですが」
「むしろ、今までよく当たりましたね」
「……」
そう言われると。
何も返せない。
俺にとっては歴史的事実だ。
でも。
彼女にとっては夢。
そして。
考えてみれば。
俺が覚えているアヘン戦争の知識は。
大学の講義で扱っていた範囲。
研究論文。
専門書。
史料。
それらから得たものだ。
しかし。
全てを一字一句覚えているわけではない。
「私」
俺は呟いた。
「思っていたより、覚えていないのかもしれません」
「普通では?」
「普通?」
「はい」
お喜乃が当然のように答えた。
「人は忘れます」
「……」
「私も、一昨日の夕餉が何だったか、時々忘れます」
「それと世界史を一緒にされても」
「では若君」
「はい」
「一昨年の今日、何を召し上がりました?」
「……」
答えられない。
「では、三年前の今日」
「無理です」
「十年前」
「もっと無理です」
「でしょう?」
「でも、それは食事です」
「若君にとっては」
「何?」
「その異国の戦も、昔のことだったのでしょう?」
俺は固まった。
お喜乃は。
何でもないような顔で続けた。
「長い夢の中では」
「……」
「もう終わったことだったのでしょう?」
その通りだ。
俺にとって。
アヘン戦争は過去だった。
ペリーも。
幕末も。
戊辰戦争も。
すべて。
結果が出た後に学んだ。
だから。
俺は知っているつもりになっていた。
「歴史書には」
俺は言った。
「書いていないのです」
「何が?」
「迷っていたことが」
お喜乃が黙る。
「今日、この人が何を食べたとか」
「はい」
「昨日、妻と喧嘩したとか」
「はい」
「腹が痛かったとか」
「はい」
「怖くて逃げたかったとか」
「はい」
「でも逃げられなかったとか」
「……」
「そういうことは」
俺は紙を見る。
「ほとんど書いていない」
結果だけだ。
誰が。
いつ。
どこで。
何をした。
なぜした。
結果。
影響。
後世の評価。
でも。
その人間が。
その朝。
本当は行きたくなかったかもしれない。
誰かの一言に腹を立てて。
決断を変えたかもしれない。
寝不足だったかもしれない。
好きな人から手紙が来て。
少し機嫌が良かったかもしれない。
そんなことは。
歴史の大きな流れでは。
消える。
「若君」
「はい」
「また難しい顔を」
「そういう年頃です」
「五歳で?」
「もうそれはいいでしょう!」
お喜乃が笑った。
俺も少しだけ笑う。
その時。
襖が開いた。
「何を笑っておる」
父だった。
「父上」
「なんだ」
「入る前に声をかけてください」
「ここはわしの屋敷だ」
「私の部屋です」
「わしの屋敷の中にある、お前の部屋だ」
「屁理屈です」
「理屈だ」
「私が言うと屁理屈と言うでしょう!」
「お前は五歳だからな」
「年齢差別です!」
「ねんれいさべつ?」
「忘れてください!」
いつものように怒鳴られた。
だが。
今日は。
少し安心した。
未来が分からなくなっても。
父は今日も父だった。
うるさい。
頑固。
面倒。
そこだけは確実だ。
「それで」
父が紙を見る。
「何が違う」
「聞いていたのですか」
「廊下まで聞こえた」
「盗み聞きです」
「声が大きい」
「父上に言われたくありません!」
お喜乃が顔を伏せた。
絶対に笑っている。
父も気づいたが。
今日は見逃した。
「申せ」
父が俺の前に座る。
「何が違うのだ」
俺は少し迷った。
でも。
正直に言った。
「私の知っている未来と」
「……」
「今、届いている情報が」
「違うのか」
「はい」
父は意外にも笑わなかった。
「どちらが正しい」
「分かりません」
「お前が?」
「はい」
「未来を知っておるのではなかったか」
胸が痛んだ。
でも。
父の声に嘲りはなかった。
本当に。
ただ聞いている。
「知っているつもりでした」
「つもり」
「私は結果を知っています」
「うむ」
「でも、その途中を全部見たわけではありません」
父は黙る。
「アヘン戦争が起きる」
「うむ」
「清が負ける」
「当たった」
「はい」
「では十分ではないのか」
「違います」
「なぜだ」
「例えば」
俺は考えた。
「父上が明日、誰かと喧嘩するとします」
「誰とだ」
「例えです」
「相手による」
「だから例えです!」
「分かった、続けろ」
進まない。
本当に進まない。
「私は、父上がその喧嘩で怒ることを知っている」
「うむ」
「でも」
「なんだ」
「誰と喧嘩するかは知らない」
「……」
「何時かも」
「……」
「原因も」
「……」
「どちらが先に怒るかも」
「わしではない」
「なぜ断言できるのです!」
「わしは理由なく怒らぬ!」
「それはどうでしょう」
「七郎麻呂!」
「ほら!」
「お前が怒らせた!」
「やっぱり父上ではありませんか!」
お喜乃がとうとう吹き出した。
父が睨む。
「今、笑ったな」
「申し訳ございません」
「最近、皆わしを恐れなくなっておらぬか」
「良いことでは?」
「七郎麻呂」
「はい」
「後で話がある」
「怖いですよ!」
少しだけ。
空気が緩んだ。
俺はまた紙を見る。
「つまり」
父が言った。
「お前は大きな流れは知っておる」
「はい」
「だが細かなことは知らぬ」
「そうです」
「ならば調べればよい」
あまりにも簡単に。
父が言った。
俺は顔を上げる。
「……調べる?」
「そうだ」
「でも」
「分からぬのであろう」
「はい」
「ならば知っている者に聞け」
「……」
「知っている者がいなければ、調べさせろ」
「……」
「それでも分からなければ」
父が茶を飲む。
「分からぬまま決めろ」
俺は黙った。
「父上」
「なんだ」
「今、かなり良いことを言いましたね」
「普段は言わぬような言い方をするな!」
「驚いたので」
「失礼だ!」
「ですが」
俺は本当に。
少し驚いていた。
この人は。
未来を知らない。
大学で政治学も学んでいない。
現代の国家運営も。
国際関係論も。
知らない。
でも。
政治をしている。
現実の。
面倒な人間たちを相手に。
「父上」
「なんだ」
「分からないまま決めるのは、怖くないのですか」
父は少し黙った。
「怖いに決まっておろう」
その答えは。
意外だった。
「怖いのですか」
「わしを何だと思っておる」
「怖いものがない人かと」
「あるわ!」
「例えば?」
「……」
父が止まる。
「父上?」
「それは言わぬ」
「なぜです」
「父だからだ」
「意味が分かりません」
「父には言いたくないこともある!」
「それは父だからではなく、人間だからでは?」
「うるさい!」
また怒鳴られた。
でも。
少しだけ。
分かった。
この人も。
怖い。
迷う。
分からない。
それでも。
決めている。
「七郎麻呂」
「はい」
「お前は未来を知りすぎておる」
「……」
「だから」
父は少し考えてから言った。
「外れるのが怖いのだろう」
胸を突かれた。
「……はい」
「一度当たったからな」
「はい」
「次も当てねばならぬと思っておる」
「……はい」
「その次も」
「はい」
「馬鹿だな」
「ひどい」
「当て物ではない」
父は言った。
「国を動かすというのは」
俺は黙る。
「未来を当てることではない」
「では?」
「間違えた時に」
父は。
少し苦い顔をした。
「どれだけ早く立て直せるかだ」
俺は。
何も言えなかった。
六十二歳。
大学教授。
政治。
歴史。
軍事。
国際関係。
何十年も研究した。
なのに。
今。
五歳になった俺は。
未来を外すことに怯えている。
未来を知っているから。
正解を出さなければならないと思っていた。
でも。
政治に。
完全な正解などない。
未来を知らない人間たちは。
毎日。
不完全な情報で。
決めている。
間違えて。
後悔して。
時には意地を張って。
そして。
また決める。
「父上」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「気持ちが悪い」
「なぜ素直に受け取れないのです!」
「お前が素直だと不安になる!」
「親としてそれはどうなのです!」
「普段の行いだ!」
「五歳ですよ!」
「都合のよい時だけ――」
「今日はもういいです!」
お喜乃がまた笑った。
父も。
一瞬だけ。
口元を緩めた。
俺は紙を見た。
未来。
それは。
地図ではない。
答えでもない。
せいぜい。
前に誰かが歩いた跡だ。
同じ道を歩けば。
同じ場所に着くとは限らない。
雨が降るかもしれない。
道が崩れるかもしれない。
俺が。
一つ石を動かしただけで。
別の未来になるかもしれない。
「父上」
「今度は何だ」
「一つ決めました」
「なんだ」
「未来を信用しすぎないことにします」
「夢をか」
「はい」
「では、わしの言葉を信用しろ」
「それは別です」
「なぜだ!」
「父上だからです!」
「どういう意味だ!」
「そのままです!」
また。
怒鳴り声が響いた。
俺は笑った。
未来は。
少しずつ。
俺の知っているものではなくなっていく。
怖い。
正直に言えば。
かなり怖い。
でも。
多分。
それでいい。
俺は未来を再現するために来たのではない。
変えるために来た。
なら。
いつか。
未来を知らない場所へ辿り着く。
その時。
頼れるのは。
知識だけではない。
人。
制度。
経験。
失敗。
そして。
この面倒くさい父親との。
喧嘩の数々だ。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
俺の知る未来が役に立たなくなるまで。
それがいつなのかは。
もう。
誰にも分からなかった。




