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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第13話 未来知識だけでは政治はできない

 未来を知っている。


 それは、とても便利なことだ。


 少なくとも。


 俺はそう思っていた。


 アヘン戦争が起きる。


 清は負ける。


 やがて黒船が来る。


 幕府は揺れる。


 井伊直弼が大老になる。


 安政の大獄。


 桜田門外の変。


 薩長同盟。


 大政奉還。


 鳥羽・伏見。


 戊辰戦争。


 江戸幕府滅亡。


 俺は知っている。


 結末を。


 だから。


 間違えないと思っていた。


 それが。


 最初の間違いだった。


     ◇


「違う」


 俺は紙を見ながら言った。


「何がでございます?」


 隣にいたお喜乃が聞いてきた。


「違うのです」


「ですから、何が?」


「数が」


「数?」


「はい」


 俺の前には、父が集めさせた報告書があった。


 英国。


 清国。


 露西亜。


 阿蘭陀。


 遠い異国について。


 もちろん、情報は不完全だ。


 間違いもある。


 噂もある。


 何年も前の情報が、最新の情報として扱われている場合さえある。


 だが。


 問題はそこではなかった。


「私の知っている数と違います」


「若君が知っている?」


「夢です」


「便利ですね」


「今はそれを言わないでください」


 俺はもう一度、報告書を見る。


 英国の船。


 兵。


 清側の対応。


 戦況。


 細かい部分。


 俺の記憶と違う。


「おかしい」


「間違いでは?」


「どちらが?」


「その報せが」


 お喜乃が言った。


 俺は口を閉じる。


 それもある。


 当然だ。


 情報が遅い時代だ。


 正確とは限らない。


「でも」


「はい」


「私の方が間違っている可能性もあります」


 お喜乃が少し首を傾げた。


「若君の夢が?」


「はい」


「夢ですからね」


「そうなのですが」


「むしろ、今までよく当たりましたね」


「……」


 そう言われると。


 何も返せない。


 俺にとっては歴史的事実だ。


 でも。


 彼女にとっては夢。


 そして。


 考えてみれば。


 俺が覚えているアヘン戦争の知識は。


 大学の講義で扱っていた範囲。


 研究論文。


 専門書。


 史料。


 それらから得たものだ。


 しかし。


 全てを一字一句覚えているわけではない。


「私」


 俺は呟いた。


「思っていたより、覚えていないのかもしれません」


「普通では?」


「普通?」


「はい」


 お喜乃が当然のように答えた。


「人は忘れます」


「……」


「私も、一昨日の夕餉が何だったか、時々忘れます」


「それと世界史を一緒にされても」


「では若君」


「はい」


「一昨年の今日、何を召し上がりました?」


「……」


 答えられない。


「では、三年前の今日」


「無理です」


「十年前」


「もっと無理です」


「でしょう?」


「でも、それは食事です」


「若君にとっては」


「何?」


「その異国の戦も、昔のことだったのでしょう?」


 俺は固まった。


 お喜乃は。


 何でもないような顔で続けた。


「長い夢の中では」


「……」


「もう終わったことだったのでしょう?」


 その通りだ。


 俺にとって。


 アヘン戦争は過去だった。


 ペリーも。


 幕末も。


 戊辰戦争も。


 すべて。


 結果が出た後に学んだ。


 だから。


 俺は知っているつもりになっていた。


「歴史書には」


 俺は言った。


「書いていないのです」


「何が?」


「迷っていたことが」


 お喜乃が黙る。


「今日、この人が何を食べたとか」


「はい」


「昨日、妻と喧嘩したとか」


「はい」


「腹が痛かったとか」


「はい」


「怖くて逃げたかったとか」


「はい」


「でも逃げられなかったとか」


「……」


「そういうことは」


 俺は紙を見る。


「ほとんど書いていない」


 結果だけだ。


 誰が。


 いつ。


 どこで。


 何をした。


 なぜした。


 結果。


 影響。


 後世の評価。


 でも。


 その人間が。


 その朝。


 本当は行きたくなかったかもしれない。


 誰かの一言に腹を立てて。


 決断を変えたかもしれない。


 寝不足だったかもしれない。


 好きな人から手紙が来て。


 少し機嫌が良かったかもしれない。


 そんなことは。


 歴史の大きな流れでは。


 消える。


「若君」


「はい」


「また難しい顔を」


「そういう年頃です」


「五歳で?」


「もうそれはいいでしょう!」


 お喜乃が笑った。


 俺も少しだけ笑う。


 その時。


 襖が開いた。


「何を笑っておる」


 父だった。


「父上」


「なんだ」


「入る前に声をかけてください」


「ここはわしの屋敷だ」


「私の部屋です」


「わしの屋敷の中にある、お前の部屋だ」


「屁理屈です」


「理屈だ」


「私が言うと屁理屈と言うでしょう!」


「お前は五歳だからな」


「年齢差別です!」


「ねんれいさべつ?」


「忘れてください!」


 いつものように怒鳴られた。


 だが。


 今日は。


 少し安心した。


 未来が分からなくなっても。


 父は今日も父だった。


 うるさい。


 頑固。


 面倒。


 そこだけは確実だ。


「それで」


 父が紙を見る。


「何が違う」


「聞いていたのですか」


「廊下まで聞こえた」


「盗み聞きです」


「声が大きい」


「父上に言われたくありません!」


 お喜乃が顔を伏せた。


 絶対に笑っている。


 父も気づいたが。


 今日は見逃した。


「申せ」


 父が俺の前に座る。


「何が違うのだ」


 俺は少し迷った。


 でも。


 正直に言った。


「私の知っている未来と」


「……」


「今、届いている情報が」


「違うのか」


「はい」


 父は意外にも笑わなかった。


「どちらが正しい」


「分かりません」


「お前が?」


「はい」


「未来を知っておるのではなかったか」


 胸が痛んだ。


 でも。


 父の声に嘲りはなかった。


 本当に。


 ただ聞いている。


「知っているつもりでした」


「つもり」


「私は結果を知っています」


「うむ」


「でも、その途中を全部見たわけではありません」


 父は黙る。


「アヘン戦争が起きる」


「うむ」


「清が負ける」


「当たった」


「はい」


「では十分ではないのか」


「違います」


「なぜだ」


「例えば」


 俺は考えた。


「父上が明日、誰かと喧嘩するとします」


「誰とだ」


「例えです」


「相手による」


「だから例えです!」


「分かった、続けろ」


 進まない。


 本当に進まない。


「私は、父上がその喧嘩で怒ることを知っている」


「うむ」


「でも」


「なんだ」


「誰と喧嘩するかは知らない」


「……」


「何時かも」


「……」


「原因も」


「……」


「どちらが先に怒るかも」


「わしではない」


「なぜ断言できるのです!」


「わしは理由なく怒らぬ!」


「それはどうでしょう」


「七郎麻呂!」


「ほら!」


「お前が怒らせた!」


「やっぱり父上ではありませんか!」


 お喜乃がとうとう吹き出した。


 父が睨む。


「今、笑ったな」


「申し訳ございません」


「最近、皆わしを恐れなくなっておらぬか」


「良いことでは?」


「七郎麻呂」


「はい」


「後で話がある」


「怖いですよ!」


 少しだけ。


 空気が緩んだ。


 俺はまた紙を見る。


「つまり」


 父が言った。


「お前は大きな流れは知っておる」


「はい」


「だが細かなことは知らぬ」


「そうです」


「ならば調べればよい」


 あまりにも簡単に。


 父が言った。


 俺は顔を上げる。


「……調べる?」


「そうだ」


「でも」


「分からぬのであろう」


「はい」


「ならば知っている者に聞け」


「……」


「知っている者がいなければ、調べさせろ」


「……」


「それでも分からなければ」


 父が茶を飲む。


「分からぬまま決めろ」


 俺は黙った。


「父上」


「なんだ」


「今、かなり良いことを言いましたね」


「普段は言わぬような言い方をするな!」


「驚いたので」


「失礼だ!」


「ですが」


 俺は本当に。


 少し驚いていた。


 この人は。


 未来を知らない。


 大学で政治学も学んでいない。


 現代の国家運営も。


 国際関係論も。


 知らない。


 でも。


 政治をしている。


 現実の。


 面倒な人間たちを相手に。


「父上」


「なんだ」


「分からないまま決めるのは、怖くないのですか」


 父は少し黙った。


「怖いに決まっておろう」


 その答えは。


 意外だった。


「怖いのですか」


「わしを何だと思っておる」


「怖いものがない人かと」


「あるわ!」


「例えば?」


「……」


 父が止まる。


「父上?」


「それは言わぬ」


「なぜです」


「父だからだ」


「意味が分かりません」


「父には言いたくないこともある!」


「それは父だからではなく、人間だからでは?」


「うるさい!」


 また怒鳴られた。


 でも。


 少しだけ。


 分かった。


 この人も。


 怖い。


 迷う。


 分からない。


 それでも。


 決めている。


「七郎麻呂」


「はい」


「お前は未来を知りすぎておる」


「……」


「だから」


 父は少し考えてから言った。


「外れるのが怖いのだろう」


 胸を突かれた。


「……はい」


「一度当たったからな」


「はい」


「次も当てねばならぬと思っておる」


「……はい」


「その次も」


「はい」


「馬鹿だな」


「ひどい」


「当て物ではない」


 父は言った。


「国を動かすというのは」


 俺は黙る。


「未来を当てることではない」


「では?」


「間違えた時に」


 父は。


 少し苦い顔をした。


「どれだけ早く立て直せるかだ」


 俺は。


 何も言えなかった。


 六十二歳。


 大学教授。


 政治。


 歴史。


 軍事。


 国際関係。


 何十年も研究した。


 なのに。


 今。


 五歳になった俺は。


 未来を外すことに怯えている。


 未来を知っているから。


 正解を出さなければならないと思っていた。


 でも。


 政治に。


 完全な正解などない。


 未来を知らない人間たちは。


 毎日。


 不完全な情報で。


 決めている。


 間違えて。


 後悔して。


 時には意地を張って。


 そして。


 また決める。


「父上」


「なんだ」


「ありがとうございます」


「気持ちが悪い」


「なぜ素直に受け取れないのです!」


「お前が素直だと不安になる!」


「親としてそれはどうなのです!」


「普段の行いだ!」


「五歳ですよ!」


「都合のよい時だけ――」


「今日はもういいです!」


 お喜乃がまた笑った。


 父も。


 一瞬だけ。


 口元を緩めた。


 俺は紙を見た。


 未来。


 それは。


 地図ではない。


 答えでもない。


 せいぜい。


 前に誰かが歩いた跡だ。


 同じ道を歩けば。


 同じ場所に着くとは限らない。


 雨が降るかもしれない。


 道が崩れるかもしれない。


 俺が。


 一つ石を動かしただけで。


 別の未来になるかもしれない。


「父上」


「今度は何だ」


「一つ決めました」


「なんだ」


「未来を信用しすぎないことにします」


「夢をか」


「はい」


「では、わしの言葉を信用しろ」


「それは別です」


「なぜだ!」


「父上だからです!」


「どういう意味だ!」


「そのままです!」


 また。


 怒鳴り声が響いた。


 俺は笑った。


 未来は。


 少しずつ。


 俺の知っているものではなくなっていく。


 怖い。


 正直に言えば。


 かなり怖い。


 でも。


 多分。


 それでいい。


 俺は未来を再現するために来たのではない。


 変えるために来た。


 なら。


 いつか。


 未来を知らない場所へ辿り着く。


 その時。


 頼れるのは。


 知識だけではない。


 人。


 制度。


 経験。


 失敗。


 そして。


 この面倒くさい父親との。


 喧嘩の数々だ。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 俺の知る未来が役に立たなくなるまで。


 それがいつなのかは。


 もう。


 誰にも分からなかった。


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