第7話 海の向こうから届いた知らせ
その知らせが届いたのは、俺が三杯目の粥を要求して、お喜乃から真顔で止められた日のことだった。
「もう一杯」
「駄目です」
「なぜです」
「三杯目です」
「育ち盛りです」
「昨日まで一杯も召し上がらなかった方が、急に育ちすぎです」
「人間は変わるものです」
「一晩で?」
「歴史は一夜で動くこともあります」
「お粥のお話をしております」
「分かっています」
「分かっておられない顔です」
俺は空になった椀を抱えたまま、お喜乃を見上げた。
お喜乃もこちらを見ている。
負けるものか。
こっちは六十二年間、人間社会を研究してきたのだ。
交渉。
説得。
妥協。
政治とは、異なる利害を持つ者同士が合意点を探る技術でもある。
「では半分」
「駄目です」
「早いですね」
「若君の交渉は、まず二倍を要求してから半分で妥協したように見せる癖がございます」
「……」
見抜かれている。
この侍女。
やはり恐ろしい。
「では、魚を」
「先ほど二切れ召し上がりました」
「菜を」
「残しました」
「苦かったので」
「それでは育ちません」
「粥で育ちます」
「都合のいい理屈ですね」
「政治とは――」
「お粥のお話です」
「はい」
負けた。
完敗だった。
俺は空の椀を置き、ため息をついた。
「もう少し、主君への敬意というものがあってもよいと思います」
「ございますよ」
「どこに」
「この辺りに」
お喜乃が自分の胸の辺りを指した。
「見えません」
「見えるものではございませんから」
「便利ですね」
「若君の夢ほどでは」
最近、強くなっていないか。
俺の周り。
父といい、お喜乃といい、どうしてこう、こちらが一言言えば三言くらい返してくる人間ばかりなのだ。
もっと素直に、
『さすが若君!』
『なんと素晴らしいお知恵!』
などと言ってくれる家臣はいないのか。
いや。
いたらいたで、多分すぐに疑う。
人間、都合よく褒められすぎると怖いものだ。
「若君」
「何です」
「今、ろくでもないことをお考えでは?」
「なぜ分かるのです」
「お顔に出ています」
「五歳児の顔を読むのはやめてください」
「でしたら、もう少し五歳らしいお顔をなさってください」
「どんな顔ですか」
「こう」
お喜乃が頬を膨らませた。
「……」
「……」
「それが五歳ですか」
「違います?」
「多分違います」
「では、こう?」
今度は目を大きく見開いた。
「怖いです」
「難しいですね、五歳」
「私は毎日やっていますが」
「そうでした」
二人で笑った。
その時だった。
廊下の向こうから、激しい足音が聞こえた。
走っている。
しかも一人ではない。
俺とお喜乃は、ほとんど同時に襖の方を見た。
「何でしょう」
「さあ」
お喜乃の声から、さっきまでの冗談っぽさが消えた。
屋敷の中で走る。
それも、これほど慌ただしく。
何かあった。
胸の奥がざわついた。
俺は立ち上がる。
「見てきます」
「若君はここに」
「なぜです」
「危ないことでしたら困ります」
「だから確認するのです」
「五歳の若君が?」
「五歳を便利に使わないでください」
「殿と同じことを申しておられます」
「……」
嫌なことを言う。
父に似てきたのだろうか。
そんなはずはない。
たぶん。
まだ。
俺が反論しようとした時。
「七郎麻呂!」
聞こえた。
廊下のはるか向こうから。
父の声だ。
「ほら」
俺は言った。
「呼ばれました」
「そうですね」
「行きます」
「お待ちください」
「なぜ」
「殿のあのお声は、普段より大きいです」
「違いが分かるのですか」
「長年お仕えしておりますので」
すごいな。
俺には全部大声にしか聞こえない。
「つまり?」
「かなりご機嫌が悪いか」
「はい」
「かなりご機嫌が良いか」
「分からないのですか!」
「どちらにしてもお気をつけください」
「役に立たない助言ですね!」
「ご武運を」
「戦に行くのではありません!」
だが。
ある意味。
戦より面倒な相手ではある。
◇
父の部屋へ入った瞬間。
何かが違った。
父だけではない。
家臣が三人。
俺の知らない男もいる。
その男は旅装に近い格好で、額には汗が浮かんでいた。
そして。
父の前には、何通かの書状が置かれている。
「父上」
「来たか」
「はい」
いつもなら、
遅い。
もっと早く来い。
歩幅が小さいなら走れ。
などと理不尽なことを言う。
今日は違った。
父は俺を見た。
じっと。
何も言わずに。
「何ですか」
「座れ」
「はい」
俺は父の前に座った。
嫌な予感がした。
いや。
違う。
これは。
たぶん。
ついに来た。
「七郎麻呂」
「はい」
「以前、お前は申したな」
父の手が、一通の書状に触れた。
「清国と英国が戦を始めると」
俺は答えなかった。
「そして」
父の声が低くなる。
「清は負けると」
「はい」
「覚えておるのだな」
「忘れません」
「では、これは何だ」
書状をこちらへ押し出す。
俺は紙を見る。
読めない。
「……父上」
「なんだ」
「字が難しいです」
沈黙。
家臣の一人が顔を伏せた。
父の眉間に皺が寄った。
「お前、幕府が滅びるまでの出来事は書けるのに、これが読めぬのか」
「未来の知識と読み書きは別問題です」
「都合が良すぎる!」
「五歳ですよ!」
「都合の良い時だけ五歳になるな!」
いつものやり取りになった。
旅装の男が困惑している。
無理もない。
多分この人は、こんな親子喧嘩を見るために急いでやって来たのではない。
「殿」
年配の家臣が、恐る恐る口を挟んだ。
「まずは若君へ内容を」
「分かっておる!」
「でしたらお話しください!」
俺も言った。
「お前が余計なことを言うからだ!」
「私のせいですか!」
「そうだ!」
「理不尽です!」
「またそれを言うか!」
年配の家臣が目を閉じた。
多分、慣れている。
気の毒に。
父は大きく息を吐いた。
そして。
書状を握った。
「清で、英国との争いが起きた」
俺は黙った。
「阿片を巡ってだ」
「はい」
「英国の船が動いておる」
「はい」
「なぜ驚かん」
父の声が鋭くなる。
俺は父を見る。
「知っていたからです」
部屋の空気が変わった。
家臣たちが、俺を見る。
旅装の男も。
皆。
五歳の子供を。
「七郎麻呂」
「はい」
「いつからだ」
「何がです」
「いつから知っていた」
「最初から」
「だから、その最初がいつだと聞いておる!」
答えられない。
二〇二六年。
六十二歳の大学教授だった頃から。
アヘン戦争なんて、中学生でも知っている。
でも。
この時代には。
まだ。
未来だ。
「夢で」
「また夢か」
「はい」
「便利すぎる」
「私も困っています」
「困っておる顔に見えぬ!」
「困っています!」
本当に困っている。
しかし。
同時に。
恐れていた。
これが。
最初の確認だ。
俺の知っている歴史と。
この世界が。
同じように進んでいる。
「父上」
「なんだ」
「戦況は」
「まだ分からぬ」
「では、清が勝っているのですか」
「分からぬと言っておる」
「英国は退いたのですか」
「だから分からぬ!」
「詳しく調べてください」
「言われずともする!」
父は怒鳴った。
だが。
少しして。
「……もうさせておる」
小さく付け加えた。
俺は思わず笑った。
「何がおかしい」
「いえ」
「申せ」
「父上は、やはりちゃんと話を聞いていたのだなと」
「聞いておらん!」
「調べたのでしょう」
「念のためだ!」
「それを聞いたと言うのです」
「違う!」
「何が違うのです」
「気になっただけだ!」
「同じです!」
「違う!」
また始まる。
すると。
旅装の男が。
小さく笑った。
ほんの少し。
だが父は聞き逃さなかった。
「何がおかしい」
「い、いえ!」
「今、笑ったな」
「滅相もございません!」
「笑った!」
「殿」
年配の家臣が静かに言った。
「今はそれよりも」
「分かっておる!」
何度目だ、それ。
父は書状を睨んだ。
「七郎麻呂」
「はい」
「お前は申した」
「はい」
「清が負けると」
「負けます」
「まだ分からん」
「負けます」
「まだ戦は始まったばかりだ」
「それでも負けます」
父が俺を睨む。
俺も見返した。
「なぜ、そこまで言い切れる」
声が低い。
俺は少し考えた。
「英国が強いからではありません」
「何?」
「もちろん強いです。でも、それだけではありません」
「では何だ」
「清が、自分の強さを勘違いしているからです」
部屋が静かになる。
俺は続けた。
「大国であることと、近代戦で強いことは同じではありません」
「またその話か」
「何度でもします」
「しつこいな」
「教授でしたので」
「また妙な言葉を」
「夢です」
「便利だな!」
「はい」
家臣たちの顔が少し緩んだ。
だが。
俺は真面目に続ける。
「清は広い。人も多い。歴史も長い。だから、自分たちは強いと思っている」
「実際、強いであろう」
「はい。ただし」
俺は父を見た。
「過去の強さは、未来の勝利を保証しません」
父は黙る。
「父上」
「なんだ」
「水戸も同じです」
空気が変わった。
家臣たちが一斉に俺を見る。
しまった。
でも。
もう言った。
「どういう意味だ」
「徳川御三家だから安全なのですか」
「……」
「幕府があるから、ずっと安泰ですか」
「……」
「武士がいるから、異国に負けませんか」
父の目が鋭くなる。
「七郎麻呂」
「はい」
「言葉を選べ」
「選んでいます」
「それでか」
「かなり」
「嘘をつけ!」
「本当です!」
少し笑いが起きそうになる。
だが。
誰も笑わない。
父が怖いからだ。
俺は続けた。
「清が負ければ、日本も騒ぎます」
「なぜだ」
「次は自分たちかもしれないと気づくからです」
「ならば備えればよい」
「はい」
「簡単ではないか」
俺は思わず父を見た。
「今、簡単と言いましたね」
「言った」
「前に私が簡単と言った時、怒ったでしょう」
「それとこれとは別だ」
「また別ですか!」
「別だ!」
父は本当に便利だ。
何でも別にする。
「とにかく」
俺は言った。
「これが最初です」
「何の」
「終わりの始まりです」
父の顔から、少しだけ表情が消えた。
「縁起でもないことを申すな」
「事実です」
「まだ清は負けておらん」
「負けます」
「しつこい!」
「父上が信じないからです!」
「信じられるか!」
「ならば待ちましょう」
俺は答えた。
「知らせが来ます」
「……」
「清が負けたという知らせが」
父の目が細くなる。
「もし来なかったら」
「私の間違いです」
「それだけか」
「どうしろと?」
「謝れ」
「謝ります」
「頭を下げろ」
「下げます」
「菓子も一つよこせ」
「それは関係ないでしょう!」
「未来を外した罰だ」
「なぜ父上が菓子を得るのです!」
「わしが父だからだ!」
「意味が分かりません!」
家臣の一人が、とうとう咳払いをして笑いを誤魔化した。
父が睨む。
「風邪か」
「は、はい」
「なら下がれ」
「いえ、治りました」
「早いな」
「はい」
気の毒だ。
俺は見なかったことにした。
「では」
父が俺を見る。
「もし清が負けたら」
「はい」
「お前の話を聞く」
「本当ですか」
「全部とは言っておらん」
「もう逃げ道を作るのですか」
「逃げておらん!」
「では何を」
「父には父の考えがある!」
「私にもあります!」
「お前は五歳だ!」
「また年齢ですか!」
また言い争い。
だが。
今日は違った。
父は。
俺の言葉を。
完全には笑わなかった。
信じてもいない。
だが。
捨てもしなかった。
そのことが。
少しだけ。
嬉しかった。
◇
その夜。
俺は眠れなかった。
布団の中で。
天井を見ていた。
アヘン戦争。
ついに。
この時代でも始まった。
俺の知っている歴史が。
動き始めた。
清は負ける。
南京条約。
香港島割譲。
賠償金。
開港。
そして。
日本も。
やがて震える。
「十五年」
呟く。
黒船まで。
十五年。
長いか。
短いか。
前世なら。
十五年もあれば十分だと思った。
大学改革。
行政改革。
人材育成。
軍制。
教育。
制度を変えるには短い。
人を育てるには、もっと短い。
まして。
今の俺は五歳。
「無理だな」
思わず言った。
だが。
未来の俺はやった。
幕府は滅びなかった。
なら。
やるしかない。
その時。
襖の向こうから声がした。
「若君」
お喜乃だ。
「起きておられます?」
「寝ています」
「では失礼します」
「待ってください」
襖が少し開く。
「起きているではありませんか」
「今起きました」
「嘘ですね」
「夢です」
「便利ですね」
もう皆に使われている。
俺の逃げ道が。
「どうしました」
「お夜食を」
「なぜ」
「夕餉の後、ずっと難しいお顔をなさっていたので」
「食べ物で解決すると?」
「若君は大体それで機嫌が良くなります」
「私を何だと」
「五歳児です」
「……」
何も言えない。
お喜乃が、小さな皿を置く。
饅頭が一つ。
「一つですか」
「はい」
「半分ではなく?」
「はい」
「父上は?」
「ご存じありません」
俺は饅頭を見た。
「内緒?」
「内緒です」
俺は少し笑った。
「では食べます」
「どうぞ」
半分食べる。
甘い。
「お喜乃」
「はい」
「半分食べます?」
「よろしいのですか」
「はい」
「では」
お喜乃が残り半分を取る。
俺はそれを見ていた。
未来は怖い。
清は負ける。
黒船は来る。
人は死ぬ。
歴史は動く。
でも。
今夜は。
一つの饅頭を半分にして。
二人で食べる。
それでいい。
いや。
それも守らなければならないのだ。
こういう。
何でもない夜を。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
清国敗北の知らせが届くまで。
残された時間は。
もう、そう長くなかった。




