第6話 未来を知るという病気
翌朝。
俺は目を覚まして、しばらく天井を見ていた。
「……」
昨日までと同じ天井だ。
木目。
梁。
薄暗い部屋。
障子の向こうから朝の光が差し込んでいる。
鳥が鳴いている。
遠くで誰かが水を運ぶ音がする。
そして。
俺は五歳だった。
「まだ五歳か」
呟いてから、自分で変なことを言ったと思った。
一晩寝たら六十二歳に戻っているかもしれない。
そんな期待が、どこかにあったのだろう。
もちろん。
戻っていない。
小さな手。
短い指。
ぷにぷにした頬。
昨日、父と半分に分けた菓子の味まで覚えている。
ちなみに。
父は大きい方を取った。
まだ少し根に持っている。
「大人げない父親だ」
「誰が大人げないのでございますか?」
「うわっ!」
突然、声をかけられた。
振り向く。
お喜乃がいた。
「いつからそこに?」
「『まだ五歳か』のあたりから」
「最初からではありませんか!」
「はい」
「声をかけてください!」
「かけました」
「もっと早くです!」
「若君が難しいお顔をなさっていたので」
「だから黙って見ていたと?」
「はい」
「怖いですよ」
「申し訳ございません」
全然申し訳なさそうではない。
この侍女。
俺の扱いに慣れてきた気がする。
まだ数日だぞ。
「それで」
お喜乃が俺を見た。
「どなたが大人げないのでございますか?」
「父上です」
「まあ」
「昨日、菓子を半分に分けたのですが」
「はい」
「大きい方を取りました」
「殿が?」
「そうです」
「若君」
「何です」
「それを翌朝まで覚えておられる若君も、なかなかでございます」
「……」
ぐうの音も出なかった。
いや。
出た。
ぐうううううう。
腹から。
俺は黙った。
お喜乃も黙った。
「若君」
「何です」
「お腹が」
「聞こえました」
「かなり」
「聞こえました!」
「朝餉をお持ちしましょうか」
「お願いします」
「昨日、殿と召し上がったお菓子では足りませんでしたか」
「その話を蒸し返さないでください」
「大きい方を取られたから?」
「お喜乃」
「はい」
「最近、私に対する遠慮がなくなっていませんか」
「そのようなことは」
「あります」
「ございません」
「あります」
「ございません」
「あります!」
「若君」
「何です!」
「お腹が鳴っています」
「今それは関係ないでしょう!」
また腹が鳴った。
この身体。
空気を読まない。
六十二歳の知性も。
大学教授としての威厳も。
政治学者としての理性も。
空腹には勝てないらしい。
◇
朝餉を食べた。
正直に言う。
足りなかった。
「もう少しありませんか」
俺が言うと、お喜乃が目を丸くした。
「若君が?」
「何です」
「いつもは朝餉を残されるのに」
「そうなのですか」
「はい。魚は嫌だ、菜は苦い、粥は熱いと」
「……」
酷いな。
本来の七郎麻呂。
かなり面倒くさい子供だったようだ。
「今日は食べます」
「お魚も?」
「食べます」
「お菜も?」
「食べます」
「お粥が熱くても?」
「少し冷まします」
「まあ」
「何です」
「若君が大人になられました」
「昨日から五歳ですが」
しまった。
お喜乃が首を傾げる。
「昨日から?」
「言葉の綾です」
「またですか」
「またです」
便利だ。
言葉の綾。
夢。
何でもありません。
この三つがあれば、大体の失言は誤魔化せる。
たぶん。
俺は二膳目の粥を食べながら考えた。
身体は五歳。
頭には六十二年間の記憶。
だが。
この身体に、前の七郎麻呂の癖が残っている。
魚が嫌い。
菜が苦い。
朝餉を残す。
俺の知らない記憶も、どこかにあるのかもしれない。
そう考えた瞬間。
少し怖くなった。
本当の七郎麻呂は。
どこへ行った。
俺が来たから、消えたのか。
それとも。
最初から俺だったのか。
考えても答えは出ない。
だが。
「若君?」
お喜乃の声で我に返った。
「何です」
「お箸が止まっております」
「考え事を」
「またですか」
「そういう年頃なので」
「五歳で?」
「それ、もう何度目ですか」
「若君が五歳らしくないので」
そう言われると困る。
「では」
俺は箸を動かした。
「五歳らしく食べます」
「それはどのように?」
「分かりません」
「私も分かりません」
二人で笑った。
その時。
廊下の向こうから、父の声が響いた。
「七郎麻呂は起きたか!」
朝から大きい。
元気だな。
「起きております!」
お喜乃が答える。
「飯は食ったか!」
「ただ今!」
「残すなと申せ!」
「今日は二膳目です!」
少し間があった。
「……腹を壊すなと申せ!」
俺は箸を置いた。
「父上は何がしたいのです?」
「心配なさっているのでしょう」
「なら普通に心配すればいいでしょう」
「それができないのが殿ですので」
「なるほど」
妙に納得した。
あの父親なら仕方ない。
◇
朝餉の後。
俺は一人で庭を歩いた。
もちろん、本当に一人ではない。
少し離れてお喜乃がついている。
五歳児だからだ。
仕方ない。
転ぶ。
池に落ちる。
迷子になる。
そういう可能性を考えられているらしい。
六十二歳の俺としては不本意だが。
実際。
さっき石につまずいた。
危なかった。
見なかったことにする。
「若君」
「何です」
「今、つまずきました?」
「つまずいていません」
「でも」
「つまずいていません」
「はい」
お喜乃が笑っている。
くそ。
見られた。
俺は庭の池を眺めた。
静かだ。
鯉が泳いでいる。
木々。
石。
水。
この先。
この景色も変わるのだろうか。
俺が歴史を変えれば。
未来は変わる。
人が生きる。
本来死ぬはずだった人が。
だが。
逆もある。
俺が救った一人のせいで。
本来生きるはずだった誰かが死ぬかもしれない。
戦争がなくなれば。
そこで出会うはずだった男女が出会わないかもしれない。
生まれるはずだった子供が生まれない。
逆に。
本来生まれなかった子供が生まれる。
社会が変わる。
国が変わる。
世界が変わる。
「……怖いな」
声が出た。
「何がです?」
お喜乃が聞いた。
「何でも」
「またそれですか」
「便利なので」
「若君」
「はい」
「何でもない顔ではございません」
俺は黙った。
お喜乃は近づいてこない。
少し離れたまま。
でも。
待っている。
俺が話すのを。
「お喜乃」
「はい」
「もし」
「はい」
「明日、雨が降ると知っていたら、どうします」
彼女は少し考えた。
「洗濯物を取り込みます」
「では、一年後に大雨が降って、村が流されると知っていたら?」
お喜乃の顔から笑みが消えた。
「皆に知らせます」
「信じてもらえなかったら?」
「それでも申します」
「それを伝えたせいで、別の場所へ逃げた人が、そこで死んだら?」
お喜乃は黙った。
俺は続ける。
「何もしなければ、誰が死ぬか分かっている。何かをすれば、別の誰かが死ぬかもしれない。あなたならどうします」
長い沈黙。
やがて。
お喜乃が言った。
「分かりません」
俺は少し驚いた。
「分からない?」
「はい」
「何か答えはないのですか」
「ございません」
あまりにも素直だった。
「でも」
お喜乃は続けた。
「若君」
「はい」
「分からないことを、分かったふりするよりは良いと思います」
俺は黙る。
「私なら、きっと迷います」
「……」
「今日、村を逃げると言って。明日には、やはり残ると言うかもしれません」
「それでは困ります」
「人間ですので」
お喜乃が少し笑った。
「昨日決めたことを、今日変えます」
「……」
「嫌いと言った人を、明日には好きになることもあります」
「ありますね」
「絶対に許さないと思った人と、翌朝には一緒にご飯を食べることも」
父の顔が浮かんだ。
「……ありますね」
「でしょう?」
俺は苦笑した。
この侍女。
時々。
何気なく、痛いところを突いてくる。
「だから」
お喜乃が言う。
「若君も、今すぐ全部決めなくてよろしいのでは」
「でも、時間が」
「若君」
「はい」
「まだ五歳ですよ」
俺は顔をしかめた。
「それを言いますか」
「言います」
「十五年後には――」
言いかけて止まった。
黒船。
言えない。
「十五年後には?」
「……大人になっています」
「そうですね」
「だから急がなければ」
「十五年もあるではありませんか」
「十五年しかないのです」
「殿と同じことをおっしゃいますね」
俺は固まった。
「何?」
「この前、殿も申されていました」
「何と」
「十五年もある、と」
「……」
父と同じ。
それは少し嫌だ。
いや。
なぜ嫌なのだ。
父なのだから似ていてもいい。
でも。
少し嫌だ。
「若君」
「何です」
「今、嫌そうな顔をしましたね」
「していません」
「しました」
「していません」
「殿に似るのが嫌なのですか?」
「そうは言っていません!」
「やはり」
「お喜乃!」
笑われた。
完全に。
◇
その日の午後。
父は俺を呼ばなかった。
俺も会いに行かなかった。
昨日の夜。
少しだけ距離が縮まった。
だからこそ。
今日は会わなくてもいい。
そんな気がした。
俺は部屋で、昨日書いた未来の年表を見た。
アヘン戦争。
黒船。
安政の大獄。
桜田門外。
大政奉還。
江戸幕府滅亡。
字が汚い。
本当に汚い。
「読めるうちに書き直した方がいいな」
だが。
その前に。
紙の端へ。
一つだけ書いた。
**未来は正解ではない。**
少し考える。
もう一つ。
**知っていることと、救えることは違う。**
そして。
最後。
**それでも、知っていて何もしない理由にはならない。**
筆を置いた。
「……これでいい」
自分に言い聞かせるように。
全部は救えない。
きっと。
失敗する。
誰かを傷つける。
間違える。
後悔する。
でも。
だから何もしない。
それだけは選ばない。
俺は神ではない。
未来を知る大学教授だった。
今は五歳の徳川慶喜だ。
ただの。
いや。
かなり面倒な運命を背負った五歳児だ。
その時。
また腹が鳴った。
ぐうううううう。
俺は天井を見た。
「……締まらないな」
ちょうどそこへ、お喜乃が入ってきた。
「若君」
「聞きました?」
「何をでしょう」
「腹の音です」
「聞こえませんでした」
優しい。
少し感動した。
「ただ」
「ただ?」
「夕餉はまだ一刻ほど先でございます」
「聞こえているではありませんか!」
お喜乃が笑う。
俺も笑った。
未来を知るというのは。
たぶん。
一種の病気だ。
知らなければ怖がらずに済んだことを。
ずっと怖がる。
まだ起きてもいない死を。
まだ会ってもいない人の別れを。
先に悲しむ。
でも。
今。
俺の腹は減っている。
お喜乃は笑っている。
父はどこかで、また誰かに怒鳴っている。
人は。
未来だけで生きているわけではない。
今日も生きる。
飯を食う。
笑う。
喧嘩する。
仲直りする。
きっと。
それを忘れたら。
俺は未来を救えても。
今を失う。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
俺が五歳児の空腹に勝てるようになるまで。
……たぶん。
まだ、かなりかかる。




