第5話 父上と夜中に茶を飲んだら、また喧嘩になった
「茶はあるか」
父――徳川斉昭は、実に不機嫌そうな顔でそう言った。
俺は襖を開けたまま、しばらくその顔を眺めた。
「あります」
「うむ」
「ですが」
「なんだ」
「お茶を飲みに来たのですか」
「そうだ」
「私と話しに来たのではなく?」
「茶を飲みに来た」
「夜中に?」
「夜中にだ」
「わざわざ私の部屋へ?」
「たまたま通りかかったら、茶の匂いがした」
「まだ淹れていませんよ」
「……」
「……」
父が黙った。
俺も黙った。
今のは、かなり致命的な矛盾だった。
「父上」
「なんだ」
「茶の匂いがしたのですよね?」
「そうだ」
「まだ淹れていません」
「……」
「どこから匂ったのです?」
「うるさい!」
「誤魔化しましたね!」
「茶くらい黙って飲ませろ!」
「素直に息子と話したくて来たと言えばいいでしょう!」
「誰がお前などと話したいと言った!」
「では帰ってください!」
「帰る!」
「どうぞ!」
「本当に帰るぞ!」
「どうぞ!」
父が踵を返した。
一歩。
二歩。
三歩。
止まった。
俺は襖の前に立ったまま、その背中を見る。
父も動かない。
「……父上?」
「なんだ」
「帰らないのですか」
「今、帰っておる!」
「止まっています」
「考え事をしておる!」
「廊下の真ん中で?」
「悪いか!」
「いえ、別に」
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
未来の俺が手紙に、
**まず父上が話を聞きません。**
**本当に聞きません。**
と二度も書いた理由が、日を追うごとに分かってきた。
だが。
多分、この人も同じことを思っているだろう。
息子が面倒くさい。
絶対に。
「……父上」
「だから、なんだ!」
「お茶、飲みますか」
少しだけ間があった。
「そこまで言うなら、仕方あるまい」
「最初から飲みたかったくせに」
「七郎麻呂」
「はい」
「帰るぞ」
「すみませんでした!」
父が戻ってきた。
本当に面倒くさい。
◇
夜の部屋で、父と息子が向かい合って座る。
正確には、三十代の水戸藩主と、見た目五歳、中身六十二歳の元大学教授だ。
普通ではない。
どう考えても普通ではない。
だが、出された茶を一口飲んだ瞬間。
俺は顔をしかめた。
「苦い」
父が眉を上げた。
「なんだ」
「苦いです」
「茶とはそういうものだ」
「もう少し薄くできませんか」
「子供だな」
「五歳ですから」
「都合のよい時だけ五歳になるな!」
「父上がいつも五歳五歳と言うのでしょう!」
「事実だ!」
「では苦い茶くらい許してください!」
「水でも飲んでおれ!」
「横暴です!」
また始まった。
どうしてこの父親とは、茶一杯まともに飲めないのだろう。
俺は苦い茶を置いた。
父は自分の茶を飲む。
それから、ちらりとこちらを見た。
「……菓子はないのか」
「ありません」
「そうか」
「食べたいのですか」
「お前がな」
「私が?」
「子供は菓子が好きであろう」
「父上も食べたいのでは?」
「わしは大人だ」
「大人は菓子を食べないのですか」
「食べぬとは言っておらん」
「食べたいのでしょう」
「七郎麻呂」
「はい」
「今夜、お前は少し黙れ」
「それは会話になりません」
父がため息をついた。
俺もついた。
そして。
しばらく、二人とも黙った。
先ほどまで騒がしかったせいか、静けさが妙に重い。
風が障子を揺らす。
行灯の火が、小さく揺れる。
父は茶碗を見ている。
俺は父の顔を見ている。
「何だ」
「いえ」
「見るな」
「人の顔を見るなとは、また難しいことを」
「先ほどから、じろじろ見すぎだ」
「父上」
「なんだ」
「怒っていますか」
父はすぐには答えなかった。
「怒っておる」
「やはり」
「当たり前だ」
「私も怒っています」
「なぜだ」
「追い出したでしょう」
「お前が悪い」
「父上も悪い」
「わしは悪くない」
「そういうところです」
「なんだ、その言い方は!」
「ほら、また怒る!」
「お前が怒らせるからだ!」
また声が大きくなった。
だが。
今度は俺も、途中で笑ってしまった。
父が怪訝な顔をする。
「何がおかしい」
「いえ」
「申せ」
「二日も口をきかなかったのに、結局また同じことで喧嘩しているなと」
「お前が生意気だからだ」
「父上が頑固だからです」
「生意気だ」
「頑固です」
「生意気」
「頑固」
「生意気!」
「頑固!」
「お前な!」
「父上こそ!」
二人して睨み合う。
そして。
俺が先に吹き出した。
父はまだ不機嫌そうだったが、口元が僅かに緩んでいた。
「笑いましたね」
「笑っておらん」
「今、笑いました」
「笑っておらん」
「口元が」
「黙れ」
「認めればいいでしょう」
「お前はしつこい!」
「研究者でしたので」
「けんきゅうしゃ?」
「……何でもありません」
危ない。
時々、前世の言葉が出る。
もっと気をつけなければならない。
父が茶を一口飲んだ。
「七郎麻呂」
「はい」
「先日のことだ」
来た。
俺は背筋を伸ばした。
「はい」
「お前は、わしが家臣を殺すと言った」
「……はい」
「覚えておるのだな」
「忘れません」
「ならば聞く」
父が俺を見る。
さっきまでの、菓子を食べたいのか食べたくないのか分からない父親ではない。
水戸藩主。
政治家。
徳川斉昭。
「お前は、本当にそう思っておるのか」
俺はすぐには答えなかった。
この前なら。
即答しただろう。
はい、と。
でも。
二日考えた。
父の顔も。
お喜乃の言葉も。
自分の言い方も。
「……思っていません」
父の目が細くなった。
「では嘘を申したのか」
「違います」
「何が違う」
「私は」
少し迷ってから言った。
「父上を傷つけるために、正しい言葉を使いました」
父が黙る。
「正しい言葉?」
「はい」
「どういう意味だ」
「勝てない戦に準備もなく兵を送れば、上に立つ者にも責任があります。それは今でも思っています」
父の顔が険しくなる。
俺は続けた。
「ですが父上が、家臣を死なせたいわけではないことも知っています」
「当然だ」
「はい」
「ならば、なぜあのようなことを申した」
「腹が立ったからです」
「……何?」
「父上が話を聞かないので。腹が立ちました」
父が、ぽかんとした。
俺は頭を下げる。
「だから、一番痛い言葉を選びました」
「お前」
「はい」
「五歳だよな?」
「それ、何度目です?」
「五歳の子供が『一番痛い言葉を選んだ』などと申すか!」
「今回はそこではありません!」
「いや、そこも重要だ!」
「今は謝っているのです!」
「謝り方が可愛くない!」
「謝罪に可愛さを求めないでください!」
また脱線した。
本当に、この父親とは話が進まない。
俺は額を押さえた。
「とにかく」
「うむ」
「申し訳ありませんでした」
もう一度、頭を下げた。
今度は父も黙っている。
長い沈黙。
やがて。
「……わしも」
小さな声が聞こえた。
「はい?」
「なんでもない」
「今、何か」
「言っておらん!」
「絶対に言いました!」
「言っておらん!」
「もう一度お願いします!」
「嫌だ!」
「父上!」
「うるさい!」
逃げた。
絶対に謝ろうとした。
俺は父を睨む。
父は視線を逸らした。
「父上」
「なんだ」
「ずるいです」
「何がだ」
「私には謝らせたのに」
「わしは謝るようなことをしておらん」
「部屋から追い出しました」
「お前が怒らせた」
「怒ったから追い出していいのですか」
「ここはわしの屋敷だ」
「私は息子です」
「だからなんだ」
「住民です」
「じゅうみん?」
「……忘れてください」
「今日も妙な言葉が多いな」
「夢のせいです」
「便利だな」
「便利です」
父が鼻を鳴らす。
そして、また沈黙。
しばらくして。
「……悪かった」
今度は聞こえた。
小さい。
本当に小さい声。
「何がです?」
わざと聞いた。
父がこちらを睨む。
「聞こえたであろう!」
「もう一度」
「調子に乗るな!」
「聞こえませんでした」
「嘘を申せ!」
「五歳なので耳がまだ」
「そんなわけがあるか!」
俺は笑った。
父は怒った。
でも。
もう本気ではなかった。
「父上」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「なぜです」
「気持ちが悪い」
「ひどいですね」
「お前が素直だと気味が悪い」
「それは父上も同じです」
「七郎麻呂!」
また怒鳴られた。
だが。
不思議と怖くなかった。
◇
「それで」
俺は茶碗を置いた。
「清国と英国について、何か分かりましたか」
父の顔が変わった。
「調べさせた」
「はい」
「だが、まだ詳しくは分からん」
「そうですか」
「ただし」
父は少しだけ声を落とした。
「英国が、海の向こうで勢力を広げておることは確かなようだ」
「はい」
「大きな船も持つ」
「はい」
「大砲も」
「はい」
「……お前は、本当に夢で見たのか」
俺は父を見る。
どう答える。
本当は違う。
俺は未来から来た。
百年以上先の世界から。
しかも、この世界の未来には、老いた徳川慶喜から俺への手紙が存在した。
説明したところで。
俺自身にも分からない。
「夢です」
結局、そう答えた。
「長い夢を見ました」
「どれほど長い」
六十二年。
口に出しそうになる。
やめた。
「……父上が想像するより、ずっと長くです」
「そこには、わしもおったのか」
不意の質問だった。
「はい」
「どのように」
「怒っています」
「わしが?」
「はい」
「誰に」
「大体、全員に」
「七郎麻呂!」
「本当です!」
怒鳴られた。
夢の中でも現実でも、変わらない。
俺は少し笑う。
でも。
その笑いは長く続かなかった。
父の死を知っている。
俺は。
この男が、いつ死ぬかを知っている。
あと何年。
あと何ヶ月。
正確な時期を計算しようとして。
やめた。
今は。
したくなかった。
「父上」
「なんだ」
「長生きしてください」
父が変な顔をした。
「突然なんだ」
「何となくです」
「わしはまだ若い」
「知っています」
「お前よりは先に死ぬだろうが」
「そういうことを言わないでください」
思わず強い声が出た。
父が驚いたように俺を見る。
俺も、自分で驚いた。
「……七郎麻呂」
「すみません」
「いや」
父が少し考える。
「お前は、夢の中で何を見た」
俺は答えられない。
「わしが死ぬところも見たのか」
心臓が止まりそうになった。
「……いいえ」
嘘をついた。
「そうか」
「はい」
父はそれ以上聞かなかった。
ありがたかった。
同時に。
苦しかった。
知っている。
未来を。
父の死を。
国の混乱を。
たくさんの人間が死ぬことを。
そして。
それを全部、自分一人が知っている。
これは。
思ったより重い。
「七郎麻呂」
「はい」
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
「腹が減ったか」
「なぜ毎回そこに行くのです」
「お前は腹が減ると青くなる」
「そんな特性はありません」
ぐうううううう。
腹が鳴った。
俺は黙った。
父も黙った。
「……あるではないか」
「偶然です」
「二度目だぞ」
「偶然は二度起こります」
「三度目もありそうだな」
「ありません」
「菓子を持ってこさせるか」
「父上も食べたいのでしょう」
「お前のためだ」
「では父上は食べないのですね?」
「……」
「父上?」
「半分だけ食う」
「食べるのではありませんか!」
「毒味だ!」
「言い訳が苦しすぎます!」
その夜。
俺と父は、菓子を半分ずつ食べた。
正確には。
父が少し大きい方を取った。
抗議すると、
「父だからだ」
と言われた。
意味が分からない。
だが。
俺は。
少しだけ。
嬉しかった。
前世では。
一人で夕食を食べることに慣れていた。
誰かと菓子を取り合うことなんて、なかった。
そんな人生だった。
だから。
この面倒くさい父親との時間を。
少しだけ。
大切にしたいと思った。
たとえ。
未来では死ぬと知っていても。
いや。
知っているからこそ。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
俺は初めて。
歴史上の人物ではなく。
一人の父親として。
徳川斉昭を失いたくないと思ってしまった。




