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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第4話 父上と初めて本気で喧嘩した

 翌朝。


 俺は、父に呼び出された。


 正確には。


「若君。殿がお呼びでございます」


 と、お喜乃が言ったので、


「昨日あれほど話したのに、まだ何かあるのですか」


 と答えたところ、


「殿は朝から大層ご機嫌が悪うございます」


 と言われた。


 嫌な情報だった。


「ちなみに、どのくらい悪いのです」


「先ほど、お膳のお味噌汁が少しぬるいとおっしゃって」


「はい」


「自分で熱いお茶を注いで、もっとぬるくなさいました」


「……それは」


「はい」


「かなり悪いですね」


「私もそう思います」


 つまり、冷静な判断力を失っている。


 できれば会いたくない。


 しかし。


「行かないという選択肢は?」


「ございません」


「ですよね」


「はい」


 お喜乃がにっこり笑った。


「若君」


「何です」


「頑張ってくださいませ」


「他人事ですね」


「他人ですので」


「もう少し情というものを持ってください」


「持っておりますよ」


「本当に?」


「骨は拾います」


「死ぬ前提ではありませんか!」


 朝からひどい。


 俺は重い足取りで父のもとへ向かった。


 五歳児の足なので、本当に短い。


 前世で六十二歳の頃には膝が痛かったが、今は膝より足の短さが問題だった。


 廊下が長い。


 江戸時代の屋敷は、幼児に優しくない。


 ようやく部屋へ入る。


「失礼いたします」


「遅い!」


 開口一番、それだった。


 俺は目を閉じた。


 帰りたい。


 しかし帰る場所もこの屋敷である。


「父上」


「なんだ」


「まだ何も話しておりません」


「お前は顔が生意気だ!」


「顔は生まれつきです!」


「誰に似た!」


「父上では?」


 沈黙。


 近くに座っていた家臣が、思いきり下を向いた。


 笑ったな。


 絶対に笑った。


 父も一瞬言葉に詰まった。


「……座れ」


「はい」


 勝った。


 いや。


 何に勝ったのかは分からない。


 俺は父の正面に座った。


 そこには昨日の紙があった。


 俺が書いた、これから起きる出来事。


 アヘン戦争。


 黒船来航。


 安政の大獄。


 桜田門外の変。


 薩長同盟。


 大政奉還。


 そして。


 江戸幕府滅亡。


「七郎麻呂」


「はい」


「昨日の話だ」


「はい」


「夜、考えた」


 俺は少し驚いた。


「父上が?」


「なんだ、その顔は」


「いえ」


「わしが考えては悪いか」


「悪くはありません。ただ、少し意外で」


「お前は父をなんだと思っておる!」


「声の大きな人」


「七郎麻呂!」


「はい!」


 俺も大声で返した。


 家臣がまた下を向いた。


 笑うな。


「冗談です」


「お前の冗談は腹が立つ」


「父上の怒鳴り声は耳が痛いです」


「ならば怒らせるな」


「それができれば苦労しません」


「何?」


「何でもありません」


 父は鼻を鳴らした。


 そして、昨日の紙へ目を落とす。


「十五年後」


「はい」


「異国船が来ると申したな」


「はい」


「戦えば負けるとも」


「申しました」


「取り消せ」


「嫌です」


 即答した。


 父の眉が動く。


 横にいた家臣の顔が青くなった。


「七郎麻呂」


「はい」


「もう一度言う」


「はい」


「取り消せ」


「嫌です」


「……」


「……」


 静かになった。


 鳥の声まで聞こえる。


 俺は思った。


 これは、まずかったかもしれない。


 だが取り消すわけにはいかない。


 ここで父の機嫌を取るために嘘をついて、十五年後、本当に黒船が来たらどうする。


 その時。


 間に合わなかったら。


 俺は一生、自分を許せない。


「なぜだ」


 父が低い声で聞いた。


「事実だからです」


「まだ起きてもおらん」


「だから準備できるのです」


「わしは負けぬ」


「父上が一人で戦うのですか」


「水戸には武士がおる」


「何人です」


「何?」


「戦える者は何人いるのです」


「それは――」


「大砲はいくつ」


「七郎麻呂」


「火薬は。砲弾は。船は。兵糧は。負傷者を治療する医者は。命令を運ぶ仕組みは。敵の動きを調べる者は」


「黙れ!」


 雷のような声だった。


 身体が震えた。


 五歳の身体は正直だ。


 心は六十二歳でも、怒鳴られれば怖い。


 だが。


 俺は退かなかった。


「黙りません」


「なんだと」


「黙っていたら、人が死にます」


 父の目が変わった。


「戦になれば人は死ぬ」


「知っています」


「ならば」


「ですが」


 俺は父を見る。


「死ななくていい人間まで死なせる必要はありません」


「……」


「準備不足で死ぬ。命令が届かなくて死ぬ。飯がなくて死ぬ。武器が足りなくて死ぬ。敵を知らなくて死ぬ。それは勇敢に戦って死んだのではありません」


「では何だ」


「殺したのです」


 家臣が息を呑んだ。


 俺は続けた。


「上に立つ者が」


「七郎麻呂」


 父の声が低い。


 怖い。


 それでも言う。


「無策で兵を戦場に送るなら、敵に殺される前に、命じた者が殺しているのと同じです」


 父が立ち上がった。


「もう一度申してみろ!」


「何度でも申します!」


 俺も立ち上がった。


 ただし五歳なので、小さい。


 かなり小さい。


 父が立つと、完全に見上げなければならない。


 迫力では圧倒的に負けている。


 それでも。


「勝てないと分かっている戦に家臣を送り、それを忠義だ勇気だと言って死なせるのなら、それは上に立つ者の怠慢です!」


「貴様!」


「父上は、家臣を死なせたいのですか!」


 言った。


 その瞬間。


 空気が完全に凍った。


 父の顔から怒りが消えた。


 いや。


 消えたのではない。


 怒りが深すぎて、表に出なくなったのだ。


「……出ていけ」


 小さな声だった。


「父上」


「出ていけ」


「ですが」


「聞こえなかったか!」


 父が怒鳴った。


 今度は。


 本当に。


 心臓が跳ねた。


 家臣が立ち上がる。


「若君」


「触らないでください」


 俺は言った。


 自分で歩ける。


 五歳でも。


 俺は父を見る。


 父はもう、こちらを見ていなかった。


「……失礼いたします」


 頭を下げる。


 そして部屋を出た。


 襖が閉じる。


 廊下を歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そこで。


 急に足から力が抜けた。


「若君!」


 後ろから追ってきたお喜乃が、慌てて俺を抱える。


「大丈夫ですか!」


「大丈夫です」


「大丈夫ではございません」


「大丈夫です」


「顔が真っ青です」


「元から白いです」


「そういう問題ではございません!」


 お喜乃が本気で怒った。


 俺は苦笑する。


「今日は皆、怒りますね」


「若君が怒らせるからです!」


「私が悪いのですか」


「そういう時もございます!」


 言い切られた。


 容赦がない。


 俺はお喜乃に支えられながら、自分の部屋へ戻った。


 座る。


 お喜乃が水を持ってくる。


「どうぞ」


「ありがとう」


「何をなさったのです」


「父上と話を」


「それだけで、このようにはなりません」


「少し喧嘩を」


「少し?」


「……かなり」


「でしょうね」


 お喜乃がため息をついた。


「何をおっしゃったのです」


「勝てない戦争に家臣を送るなら、上に立つ者が殺すのと同じだと」


 お喜乃が止まった。


「若君」


「はい」


「五歳ですよね」


「それ、父上にも言われました」


「もっと別のことを考えてください」


「例えば?」


「お菓子とか」


「好きです」


「遊びとか」


「嫌いではありません」


「お昼寝とか」


「眠くなれば」


「では、なぜ戦の話を?」


 俺は答えられなかった。


 なぜ。


 決まっている。


 知っているからだ。


 これから。


 人が死ぬ。


 井伊直弼。


 坂本龍馬。


 徳川家茂。


 高杉晋作。


 戊辰戦争。


 会津。


 東北。


 箱館。


 数え切れない。


 名前さえ歴史に残らない人たちが。


「知ってしまったからです」


 俺は言った。


「何を?」


「これから、たくさんの人が死ぬことを」


「夢で?」


「はい」


 もう、それで通すしかない。


 お喜乃は黙った。


 少しして。


「若君」


「はい」


「怖いのですか」


 俺は。


 すぐには答えられなかった。


 六十二歳だった。


 大学教授だった。


 政治を語った。


 歴史を語った。


 戦争を語った。


 死者数も。


 損害も。


 敗因も。


 冷静に分析した。


 だが。


 今は違う。


 目の前に人がいる。


 父がいる。


 お喜乃がいる。


 家臣がいる。


 その人たちが。


 死ぬかもしれない。


「……はい」


 やっと言えた。


「怖いです」


 お喜乃の顔が少しだけ柔らかくなった。


「そうですか」


「笑いますか」


「いいえ」


「五歳児が国の未来を怖がっているのですよ」


「では、五歳児らしく泣いてもよろしいのでは」


「それは遠慮します」


「なぜです」


「恥ずかしいので」


「五歳なのに?」


「今日は皆そればかりですね!」


 少し声を上げると。


 お喜乃が笑った。


 俺もつられて、少し笑った。


 その時。


 腹が鳴った。


 ぐうううう。


 最悪のタイミングだった。


 お喜乃が黙る。


 俺も黙る。


「若君」


「何です」


「お腹が」


「聞こえました」


「先ほどまで、とても格好のよいことを」


「言わないでください」


「ですが」


「言わないでください!」


 お喜乃は必死に笑いを堪えていた。


 俺は顔を逸らす。


「何か食べるものを」


「かしこまりました」


「あと」


「はい」


「父上には内緒で」


「何をです」


「私が腹を鳴らしたことを」


「それは難しいお願いでございます」


「なぜ!」


「もう廊下の者にも聞こえていたかと」


「……」


 死にたい。


 いや。


 死んではいけない。


 幕府を救う前に、腹の音で死んでどうする。


 その日の夕方。


 父とは会わなかった。


 夜になっても。


 翌朝になっても。


 呼ばれなかった。


 俺も意地を張った。


 謝らない。


 だって。


 間違ったことは言っていない。


 父だって言いすぎだ。


 俺はそう思った。


 いや。


 思おうとした。


 だが。


 二日目の夜。


 布団に入っても眠れなかった。


「……言いすぎたか」


 呟く。


 あの人は。


 家臣を死なせたいわけではない。


 そんなことは分かっている。


 むしろ逆だ。


 国を守りたい。


 水戸を守りたい。


 日本を守りたい。


 その気持ちが強いから。


 強すぎるから。


 攘夷に走る。


 俺は未来を知っている。


 だから正しい。


 でも。


 正しいからといって。


 何を言ってもいいわけではない。


「面倒だな」


 俺は呟いた。


 政治も。


 歴史も。


 人間も。


 全部面倒だ。


 前世では、その面倒さを研究していた。


 今度は。


 自分が、その中にいる。


 その時。


 廊下の向こうで、足音が止まった。


 襖は開かない。


 俺は起き上がった。


「誰です」


 返事はない。


「お喜乃?」


 違う。


 分かる。


 気配が大きい。


 というより。


 こんな時間に俺の部屋の前で黙って立っている、面倒くさい人間を。


 俺は一人しか知らない。


「父上」


 沈黙。


 やっぱり。


「いるのでしょう」


 まだ返事はない。


「帰りますよ」


 少しして。


「……何がだ」


 声がした。


 俺は思わず笑った。


「やはりいるではありませんか」


「通りかかっただけだ」


「私の部屋の前で?」


「そうだ」


「夜中に?」


「そうだ」


「二日も口をきいていない息子の部屋の前で?」


「偶然だ!」


「ずいぶん都合のいい偶然ですね」


「うるさい!」


 いつもの大声。


 少しだけ。


 安心した。


「父上」


「なんだ」


「入りますか」


「入らん」


「そうですか」


「……」


「……」


「茶はあるか」


 俺は吹き出しそうになった。


「あります」


「なら仕方ない」


「何が仕方ないのです?」


「茶があるから入る」


「素直に私と話したいと言えばよいでしょう」


「七郎麻呂」


「はい」


「やはり帰るぞ」


「待ってください!」


 慌てて襖を開けた。


 そこに。


 腕を組んだ父がいた。


 不機嫌そうに。


 少しだけ気まずそうに。


 俺は思った。


 本当に。


 面倒な父親だ。


 だが。


 多分。


 俺も同じくらい面倒な息子なのだろう。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 父と息子の仲直りまで。


 あと一杯の茶と。


 たぶん。


 もう一度くらいの大喧嘩が必要だった。


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