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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第3話 父上、清国は英国に負けます

「馬鹿を申すな!」


「ほら!」


「何が、ほら、だ!」


「もう怒ったではありませんか!」


「怒るわ! 清国が英国ごときに負けるなど、どうして信じられる!」


「だから、最後まで話を聞いてください!」


「聞いておる!」


「聞いていません!」


「聞いておると言っておる!」


「では、私が今まで何を話しました?」


「……」


「ほら!」


「うるさい!」


「それが聞いていない証拠です!」


 始まってしまった。


 俺と父、徳川斉昭との、たぶん歴史上最初の親子喧嘩である。


 いや。


 本物の七郎麻呂だった頃にも喧嘩くらいはしたのかもしれない。


 五歳児なのだから。


 菓子が欲しいとか。


 もっと遊びたいとか。


 寝たくないとか。


 しかし今は違う。


 議題。


 **大清帝国は、英国との戦争に敗北するのか。**


 親子喧嘩の議題としては、まったく可愛げがない。


 斉昭は俺の書いた紙を手にしたまま、眉間に深い皺を刻んでいた。


「よいか、七郎麻呂」


「はい」


「清国がどれほどの大国か、お前に分かるか?」


「分かります」


「即答するな!」


「分かるものは分かります!」


「五歳のくせに!」


「先ほどから五歳という年齢を便利に使いすぎです!」


「事実ではないか!」


「では五歳の私と言い争っている父上は何なのです!」


「父だ!」


「答えになっていません!」


 斉昭の頬が引きつった。


 まずい。


 かなり怒っている。


 だがここで退くわけにはいかない。


 未来の歴史を変えるなら、この男を避けては通れない。


 いや。


 むしろ。


 一番最初に動かすべき人物かもしれない。


 徳川斉昭。


 水戸藩主。


 御三家の一角。


 強烈な尊王思想と攘夷思想を持ち、後に幕末政治へ大きな影響を与える男。


 敵に回せば面倒。


 味方になっても、たぶん面倒。


 未来の俺が手紙に書いていた井伊直弼より、今のところ父の方がだいぶ面倒である。


「父上」


「なんだ!」


「清国は大国です」


「ならば――」


「最後まで」


「……」


「最後まで聞いてください」


 斉昭は不満そうに口を閉ざした。


 本当に子供みたいな父親だ。


 いや、口には出さない。


 まだ死にたくない。


「清国は確かに大国です。人口も多い。領土も広い。しかし、それだけで戦争に勝てるなら、世の中から小国はなくなっています」


「兵の数が多ければ有利であろう」


「どこで戦うのです?」


「何?」


「清国全土の兵が、一度に同じ場所で戦えるのですか」


「それは……」


「広い領土は強みです。しかし同時に、弱みにもなる。兵を動かすにも時間がかかる。食糧を運ぶにも時間がかかる。命令を届けるにも時間がかかります」


 斉昭が黙った。


 俺は続ける。


「英国は海から来ます」


「海から?」


「はい」


「なぜ分かる」


「夢です」


「便利だな、その夢は」


「父上よりは便利です」


「なんだと?」


「失言でした」


「絶対にそう思っておらんだろう!」


 思っている。


 かなり思っている。


 だが俺は真面目な顔を崩さなかった。


「海から攻める英国は、清国全土を占領する必要がありません」


「では何をする」


「港を攻撃します」


「港?」


「港を押さえ、海上交通を断ち、大砲で圧力をかける。清国がどれほど大きくても、戦う場所を英国側が選べるのです」


 斉昭の目が少し変わった。


 まだ信じてはいない。


 だが、聞き始めた。


「七郎麻呂」


「はい」


「大砲なら清にもある」


「あります」


「ならば撃てばよい」


「当たりますか?」


「……何?」


「英国の軍艦に」


 斉昭が眉を寄せる。


「大砲は、持っているだけでは意味がありません。射程。命中率。火薬。砲弾。砲員の訓練。船の速度。指揮。全部が必要です」


「侍の勇気は?」


「必要です」


 俺は即答した。


 斉昭が意外そうに俺を見る。


「否定せぬのか」


「なぜ否定するのです」


「先ほどから、お前は武勇を軽んじておるように聞こえる」


「軽んじていません」


 これは本心だった。


 勇気は必要だ。


 士気も。


 覚悟も。


 戦争において人間の心が重要であることは、現代の軍事史を研究していれば嫌というほど分かる。


 だが。


「勇気だけで勝てるなら、戦争ほど簡単なものはありません」


 斉昭の目が鋭くなる。


 俺は続けた。


「腹を空かせた兵に、勇気を持てと言いますか」


「……」


「弾のない鉄砲を持たせて、勇敢に戦えと?」


「……」


「敵が十里先から撃ってくるのに、刀を持って突撃しろと?」


「……」


「それは勇気ではありません」


 俺は父を見た。


「殺す側が、自分の無能を兵士の勇気で誤魔化しているだけです」


 空気が止まった。


 やってしまった。


 言いすぎた。


 斉昭の顔から表情が消えている。


 これは怒鳴られる。


 そう思った。


 だが。


「……誰が」


 斉昭は低い声で言った。


「誰が無能だ」


 やっぱり怒っていた。


「特定の誰かを申しているのではありません」


「今、殺す側が無能だと申したな」


「申しました」


「ならば将とは無能か」


「違います」


「では何だ!」


「将だからこそ、兵を死なせないように考えなければならないと言っているのです!」


 俺も声を上げた。


 五歳児の声なので迫力はない。


 悲しい。


 だが気持ちは本物だった。


「兵士は駒ではありません!」


「そんなことは分かっておる!」


「ならば!」


「分かっておると言っておる!」


「父上はすぐ怒鳴るから、分かっているように見えないのです!」


「それとこれとは別だ!」


「また別ですか!」


「別だ!」


 また言い合いになる。


 しばらくして。


 俺たちは同時に息を切らした。


 斉昭は三十代。


 俺は五歳。


 体力差は圧倒的だ。


 つまり俺だけが息を切らしている。


「はあ……はあ……」


「七郎麻呂」


「何です」


「少し休め」


「父上のせいです」


「お前が生意気だからだ」


「五歳児相手に本気で怒鳴る方もどうかと思います」


「お前を普通の五歳児と同じに扱えるか!」


 それは困る。


 非常に困る。


「普通です」


「どこがだ」


「見た目は」


「中身は?」


「……夢を見ただけです」


「便利だな」


「便利です」


 斉昭が大きく息を吐いた。


 そして、俺の書いた紙をもう一度見る。


 アヘン戦争。


 清敗北。


 その文字を、じっと。


「七郎麻呂」


「はい」


「本当に負けるのか」


 さっきまでとは声が違った。


 怒鳴っていない。


 父親でもない。


 水戸藩主の声だった。


「はい」


「どれほどの戦になる」


「私は……」


 言葉を選ぶ。


 正確な戦況をどこまで話す。


 未来知識を一気に見せすぎるのは危険だ。


 しかし。


 もう紙を見られた。


「清国は英国に屈します」


「滅びるのか」


「いいえ」


「ならば負けではなかろう」


「国は滅びなくても、戦争には負けます」


 斉昭は黙る。


「英国に有利な条約を結ばされます。港を開き、賠償金を払い、領土の一部も渡すことになります」


「……領土を」


「はい」


「清が」


「はい」


「異人に?」


「はい」


 斉昭の拳が震えた。


「ふざけるな」


 俺は黙った。


「そのようなことが許されるか」


「許すかどうかを決めるのは、負けた側ではありません」


 斉昭が俺を睨む。


「では、お前はどうしろと申す」


「知ることです」


「何を」


「敵を」


 即答した。


「英国がどんな国なのか。どれほどの船を持つのか。どれほどの大砲を持つのか。どんな戦い方をするのか。何を求めているのか。何を恐れているのか」


「異人を学べと?」


「そうです」


「わしに?」


「そうです」


「嫌だ」


「子供ですか!」


「嫌なものは嫌だ!」


「だからそういうところです!」


 また始まった。


 やはり先は長い。


 俺は頭を抱える。


「父上」


「なんだ」


「嫌いな相手ほど、学んでください」


「なぜだ」


「嫌いだから見ない、では、いざ戦いになった時に死にます」


 斉昭は答えない。


「知ることと、好きになることは違います」


「……」


「英国を学べば、英国人になるのですか」


「ならぬ」


「オランダ語を学べば、オランダ人に?」


「ならぬ」


「では問題ありません」


「簡単に申すな」


「簡単な話です」


「お前にとってはな」


 その言葉に。


 俺は少し黙った。


 そうだ。


 俺には簡単だ。


 未来を知っている。


 世界史も知っている。


 産業革命も。


 帝国主義も。


 アヘン戦争の結果も。


 しかし。


 この時代の人間にとっては違う。


 外国は遠い。


 情報は少ない。


 噂と事実が混ざる。


 海の向こうは、ほとんど未知の世界だ。


 俺は知識を持っているから、簡単だと言える。


 だが父には。


 この時代の人間には。


 簡単ではない。


「……すみません」


「何がだ」


「簡単な話だと言ったことです」


 斉昭が怪訝そうな顔をした。


「急に素直になるな。気味が悪い」


「謝ったのに、その言い方はないでしょう」


「お前が普段生意気だからだ」


「まだ二日目です!」


「何が二日目だ」


「何でもありません」


 危ない。


 斉昭はしばらく俺を見た。


 そして言う。


「七郎麻呂」


「はい」


「お前の夢が本当だとして」


「はい」


「清が負けるとして」


「はい」


「次は何が起こる」


 ついに来た。


 俺は息を止めた。


 この質問を。


 待っていた。


 だが。


 実際に聞かれると、怖い。


 ここから先。


 俺の言葉が。


 歴史を変える。


「もっと大きな船が来ます」


「どこへ」


 俺は答えた。


「日本へ」


 斉昭の目が細くなる。


「いつだ」


「十五年後」


 父は何も言わない。


「その時、日本は選ばされます」


「何を」


「国を開くか」


 一度、息を吸った。


「戦うか」


「なら戦えばよい」


 即答だった。


 やっぱり。


 そう言うと思った。


「父上」


「なんだ」


「今のまま戦えば、負けます」


 斉昭の顔色が変わった。


 それでも。


 俺は続けた。


「だから十五年あります」


「十五年」


「はい」


「その間に、何をする」


 俺は父を見た。


 ここからだ。


 本当に。


 ここから始まる。


「全部です」


「……何?」


「軍を変える。学問を変える。金の使い方を変える。人の育て方を変える。外国を学ぶ。船を造る。大砲を研究する。国中の人と物と金が、どう動いているかを調べる」


「待て」


「まだあります」


「待てと言っておる!」


「何です」


「お前は」


 斉昭が額を押さえた。


「五歳だぞ?」


「知っています」


「五歳の子供がなぜ国の話をする」


「夢を見ました」


「その夢は万能すぎる!」


「私もそう思います」


「認めるな!」


 斉昭は頭を抱えた。


 俺も少しだけ同情した。


 突然、五歳の息子が。


 清国は英国に負ける。


 十五年後に黒船が来る。


 国を改革しろ。


 そう言い出したのだ。


 俺が父でも医者を呼ぶ。


 いや。


 祈祷師も追加するかもしれない。


 斉昭は長く息を吐いた。


「七郎麻呂」


「はい」


「今日はもう終わりだ」


「まだ話の途中です」


「わしが疲れた」


「私は五歳ですよ?」


「だからなんだ」


「五歳児に言い負かされて疲れるのですか」


「言い負かされておらん!」


「では続きを」


「今日は終わりだ!」


「逃げるのですか」


「七郎麻呂」


「はい」


「親にも我慢の限界がある」


 笑っていない。


 これは本気だ。


「今日は終わりにしましょう」


「うむ」


「明日続きを」


「なぜだ!」


「十五年しかありません」


「十五年もある!」


「短いです!」


「長い!」


「短い!」


「長い!」


「父上!」


「なんだ!」


「また会話が進んでいません!」


「お前が生意気だからだ!」


 結局。


 最後まで言い争った。


 そして父が部屋を出る直前。


 俺は背中に言った。


「父上」


「今度はなんだ」


「清国が負けたという知らせは、必ず届きます」


 斉昭が振り返る。


「その時」


 俺は言った。


「今日の話を思い出してください」


 父は何も答えなかった。


 そのまま出ていった。


 襖が閉じる。


 静かになる。


 俺は一人になった。


「……疲れた」


 布団へ倒れ込む。


 五歳児の身体には、父との政治討論が重すぎる。


 だが。


 少しだけ進んだ。


 本当に少しだけ。


 父は最後まで話を聞いた。


 怒鳴った。


 何度も怒鳴った。


 途中で疲れた。


 それでも。


 聞いた。


「最初の一歩としては、悪くないか」


 そう呟いた時。


 廊下の向こうから父の声が聞こえた。


「誰か!」


 また大声だ。


「はっ!」


「清国と英国について分かる者を呼べ!」


 俺は起き上がった。


 聞き間違いではない。


「蘭書でも風説書でも何でもよい! とにかく調べろ!」


 俺は。


 少しだけ笑った。


 父は話を聞かない。


 頑固。


 短気。


 声が大きい。


 面倒くさい。


 だが。


 完全に耳を塞いでいるわけではない。


 なら。


 まだ間に合う。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして今日。


 徳川斉昭が初めて、


 五歳の息子の言葉を確かめようとした。


 歴史は。


 たぶん。


 本当に小さなところから変わり始める。


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