第3話 父上、清国は英国に負けます
「馬鹿を申すな!」
「ほら!」
「何が、ほら、だ!」
「もう怒ったではありませんか!」
「怒るわ! 清国が英国ごときに負けるなど、どうして信じられる!」
「だから、最後まで話を聞いてください!」
「聞いておる!」
「聞いていません!」
「聞いておると言っておる!」
「では、私が今まで何を話しました?」
「……」
「ほら!」
「うるさい!」
「それが聞いていない証拠です!」
始まってしまった。
俺と父、徳川斉昭との、たぶん歴史上最初の親子喧嘩である。
いや。
本物の七郎麻呂だった頃にも喧嘩くらいはしたのかもしれない。
五歳児なのだから。
菓子が欲しいとか。
もっと遊びたいとか。
寝たくないとか。
しかし今は違う。
議題。
**大清帝国は、英国との戦争に敗北するのか。**
親子喧嘩の議題としては、まったく可愛げがない。
斉昭は俺の書いた紙を手にしたまま、眉間に深い皺を刻んでいた。
「よいか、七郎麻呂」
「はい」
「清国がどれほどの大国か、お前に分かるか?」
「分かります」
「即答するな!」
「分かるものは分かります!」
「五歳のくせに!」
「先ほどから五歳という年齢を便利に使いすぎです!」
「事実ではないか!」
「では五歳の私と言い争っている父上は何なのです!」
「父だ!」
「答えになっていません!」
斉昭の頬が引きつった。
まずい。
かなり怒っている。
だがここで退くわけにはいかない。
未来の歴史を変えるなら、この男を避けては通れない。
いや。
むしろ。
一番最初に動かすべき人物かもしれない。
徳川斉昭。
水戸藩主。
御三家の一角。
強烈な尊王思想と攘夷思想を持ち、後に幕末政治へ大きな影響を与える男。
敵に回せば面倒。
味方になっても、たぶん面倒。
未来の俺が手紙に書いていた井伊直弼より、今のところ父の方がだいぶ面倒である。
「父上」
「なんだ!」
「清国は大国です」
「ならば――」
「最後まで」
「……」
「最後まで聞いてください」
斉昭は不満そうに口を閉ざした。
本当に子供みたいな父親だ。
いや、口には出さない。
まだ死にたくない。
「清国は確かに大国です。人口も多い。領土も広い。しかし、それだけで戦争に勝てるなら、世の中から小国はなくなっています」
「兵の数が多ければ有利であろう」
「どこで戦うのです?」
「何?」
「清国全土の兵が、一度に同じ場所で戦えるのですか」
「それは……」
「広い領土は強みです。しかし同時に、弱みにもなる。兵を動かすにも時間がかかる。食糧を運ぶにも時間がかかる。命令を届けるにも時間がかかります」
斉昭が黙った。
俺は続ける。
「英国は海から来ます」
「海から?」
「はい」
「なぜ分かる」
「夢です」
「便利だな、その夢は」
「父上よりは便利です」
「なんだと?」
「失言でした」
「絶対にそう思っておらんだろう!」
思っている。
かなり思っている。
だが俺は真面目な顔を崩さなかった。
「海から攻める英国は、清国全土を占領する必要がありません」
「では何をする」
「港を攻撃します」
「港?」
「港を押さえ、海上交通を断ち、大砲で圧力をかける。清国がどれほど大きくても、戦う場所を英国側が選べるのです」
斉昭の目が少し変わった。
まだ信じてはいない。
だが、聞き始めた。
「七郎麻呂」
「はい」
「大砲なら清にもある」
「あります」
「ならば撃てばよい」
「当たりますか?」
「……何?」
「英国の軍艦に」
斉昭が眉を寄せる。
「大砲は、持っているだけでは意味がありません。射程。命中率。火薬。砲弾。砲員の訓練。船の速度。指揮。全部が必要です」
「侍の勇気は?」
「必要です」
俺は即答した。
斉昭が意外そうに俺を見る。
「否定せぬのか」
「なぜ否定するのです」
「先ほどから、お前は武勇を軽んじておるように聞こえる」
「軽んじていません」
これは本心だった。
勇気は必要だ。
士気も。
覚悟も。
戦争において人間の心が重要であることは、現代の軍事史を研究していれば嫌というほど分かる。
だが。
「勇気だけで勝てるなら、戦争ほど簡単なものはありません」
斉昭の目が鋭くなる。
俺は続けた。
「腹を空かせた兵に、勇気を持てと言いますか」
「……」
「弾のない鉄砲を持たせて、勇敢に戦えと?」
「……」
「敵が十里先から撃ってくるのに、刀を持って突撃しろと?」
「……」
「それは勇気ではありません」
俺は父を見た。
「殺す側が、自分の無能を兵士の勇気で誤魔化しているだけです」
空気が止まった。
やってしまった。
言いすぎた。
斉昭の顔から表情が消えている。
これは怒鳴られる。
そう思った。
だが。
「……誰が」
斉昭は低い声で言った。
「誰が無能だ」
やっぱり怒っていた。
「特定の誰かを申しているのではありません」
「今、殺す側が無能だと申したな」
「申しました」
「ならば将とは無能か」
「違います」
「では何だ!」
「将だからこそ、兵を死なせないように考えなければならないと言っているのです!」
俺も声を上げた。
五歳児の声なので迫力はない。
悲しい。
だが気持ちは本物だった。
「兵士は駒ではありません!」
「そんなことは分かっておる!」
「ならば!」
「分かっておると言っておる!」
「父上はすぐ怒鳴るから、分かっているように見えないのです!」
「それとこれとは別だ!」
「また別ですか!」
「別だ!」
また言い合いになる。
しばらくして。
俺たちは同時に息を切らした。
斉昭は三十代。
俺は五歳。
体力差は圧倒的だ。
つまり俺だけが息を切らしている。
「はあ……はあ……」
「七郎麻呂」
「何です」
「少し休め」
「父上のせいです」
「お前が生意気だからだ」
「五歳児相手に本気で怒鳴る方もどうかと思います」
「お前を普通の五歳児と同じに扱えるか!」
それは困る。
非常に困る。
「普通です」
「どこがだ」
「見た目は」
「中身は?」
「……夢を見ただけです」
「便利だな」
「便利です」
斉昭が大きく息を吐いた。
そして、俺の書いた紙をもう一度見る。
アヘン戦争。
清敗北。
その文字を、じっと。
「七郎麻呂」
「はい」
「本当に負けるのか」
さっきまでとは声が違った。
怒鳴っていない。
父親でもない。
水戸藩主の声だった。
「はい」
「どれほどの戦になる」
「私は……」
言葉を選ぶ。
正確な戦況をどこまで話す。
未来知識を一気に見せすぎるのは危険だ。
しかし。
もう紙を見られた。
「清国は英国に屈します」
「滅びるのか」
「いいえ」
「ならば負けではなかろう」
「国は滅びなくても、戦争には負けます」
斉昭は黙る。
「英国に有利な条約を結ばされます。港を開き、賠償金を払い、領土の一部も渡すことになります」
「……領土を」
「はい」
「清が」
「はい」
「異人に?」
「はい」
斉昭の拳が震えた。
「ふざけるな」
俺は黙った。
「そのようなことが許されるか」
「許すかどうかを決めるのは、負けた側ではありません」
斉昭が俺を睨む。
「では、お前はどうしろと申す」
「知ることです」
「何を」
「敵を」
即答した。
「英国がどんな国なのか。どれほどの船を持つのか。どれほどの大砲を持つのか。どんな戦い方をするのか。何を求めているのか。何を恐れているのか」
「異人を学べと?」
「そうです」
「わしに?」
「そうです」
「嫌だ」
「子供ですか!」
「嫌なものは嫌だ!」
「だからそういうところです!」
また始まった。
やはり先は長い。
俺は頭を抱える。
「父上」
「なんだ」
「嫌いな相手ほど、学んでください」
「なぜだ」
「嫌いだから見ない、では、いざ戦いになった時に死にます」
斉昭は答えない。
「知ることと、好きになることは違います」
「……」
「英国を学べば、英国人になるのですか」
「ならぬ」
「オランダ語を学べば、オランダ人に?」
「ならぬ」
「では問題ありません」
「簡単に申すな」
「簡単な話です」
「お前にとってはな」
その言葉に。
俺は少し黙った。
そうだ。
俺には簡単だ。
未来を知っている。
世界史も知っている。
産業革命も。
帝国主義も。
アヘン戦争の結果も。
しかし。
この時代の人間にとっては違う。
外国は遠い。
情報は少ない。
噂と事実が混ざる。
海の向こうは、ほとんど未知の世界だ。
俺は知識を持っているから、簡単だと言える。
だが父には。
この時代の人間には。
簡単ではない。
「……すみません」
「何がだ」
「簡単な話だと言ったことです」
斉昭が怪訝そうな顔をした。
「急に素直になるな。気味が悪い」
「謝ったのに、その言い方はないでしょう」
「お前が普段生意気だからだ」
「まだ二日目です!」
「何が二日目だ」
「何でもありません」
危ない。
斉昭はしばらく俺を見た。
そして言う。
「七郎麻呂」
「はい」
「お前の夢が本当だとして」
「はい」
「清が負けるとして」
「はい」
「次は何が起こる」
ついに来た。
俺は息を止めた。
この質問を。
待っていた。
だが。
実際に聞かれると、怖い。
ここから先。
俺の言葉が。
歴史を変える。
「もっと大きな船が来ます」
「どこへ」
俺は答えた。
「日本へ」
斉昭の目が細くなる。
「いつだ」
「十五年後」
父は何も言わない。
「その時、日本は選ばされます」
「何を」
「国を開くか」
一度、息を吸った。
「戦うか」
「なら戦えばよい」
即答だった。
やっぱり。
そう言うと思った。
「父上」
「なんだ」
「今のまま戦えば、負けます」
斉昭の顔色が変わった。
それでも。
俺は続けた。
「だから十五年あります」
「十五年」
「はい」
「その間に、何をする」
俺は父を見た。
ここからだ。
本当に。
ここから始まる。
「全部です」
「……何?」
「軍を変える。学問を変える。金の使い方を変える。人の育て方を変える。外国を学ぶ。船を造る。大砲を研究する。国中の人と物と金が、どう動いているかを調べる」
「待て」
「まだあります」
「待てと言っておる!」
「何です」
「お前は」
斉昭が額を押さえた。
「五歳だぞ?」
「知っています」
「五歳の子供がなぜ国の話をする」
「夢を見ました」
「その夢は万能すぎる!」
「私もそう思います」
「認めるな!」
斉昭は頭を抱えた。
俺も少しだけ同情した。
突然、五歳の息子が。
清国は英国に負ける。
十五年後に黒船が来る。
国を改革しろ。
そう言い出したのだ。
俺が父でも医者を呼ぶ。
いや。
祈祷師も追加するかもしれない。
斉昭は長く息を吐いた。
「七郎麻呂」
「はい」
「今日はもう終わりだ」
「まだ話の途中です」
「わしが疲れた」
「私は五歳ですよ?」
「だからなんだ」
「五歳児に言い負かされて疲れるのですか」
「言い負かされておらん!」
「では続きを」
「今日は終わりだ!」
「逃げるのですか」
「七郎麻呂」
「はい」
「親にも我慢の限界がある」
笑っていない。
これは本気だ。
「今日は終わりにしましょう」
「うむ」
「明日続きを」
「なぜだ!」
「十五年しかありません」
「十五年もある!」
「短いです!」
「長い!」
「短い!」
「長い!」
「父上!」
「なんだ!」
「また会話が進んでいません!」
「お前が生意気だからだ!」
結局。
最後まで言い争った。
そして父が部屋を出る直前。
俺は背中に言った。
「父上」
「今度はなんだ」
「清国が負けたという知らせは、必ず届きます」
斉昭が振り返る。
「その時」
俺は言った。
「今日の話を思い出してください」
父は何も答えなかった。
そのまま出ていった。
襖が閉じる。
静かになる。
俺は一人になった。
「……疲れた」
布団へ倒れ込む。
五歳児の身体には、父との政治討論が重すぎる。
だが。
少しだけ進んだ。
本当に少しだけ。
父は最後まで話を聞いた。
怒鳴った。
何度も怒鳴った。
途中で疲れた。
それでも。
聞いた。
「最初の一歩としては、悪くないか」
そう呟いた時。
廊下の向こうから父の声が聞こえた。
「誰か!」
また大声だ。
「はっ!」
「清国と英国について分かる者を呼べ!」
俺は起き上がった。
聞き間違いではない。
「蘭書でも風説書でも何でもよい! とにかく調べろ!」
俺は。
少しだけ笑った。
父は話を聞かない。
頑固。
短気。
声が大きい。
面倒くさい。
だが。
完全に耳を塞いでいるわけではない。
なら。
まだ間に合う。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして今日。
徳川斉昭が初めて、
五歳の息子の言葉を確かめようとした。
歴史は。
たぶん。
本当に小さなところから変わり始める。




