第2話 幕府滅亡まで、あと二十七年
紙が欲しい。
筆も欲しい。
できれば鉛筆が欲しい。
ついでにシャープペンシルがあれば最高だ。
しかし当然ながら、あるわけがない。
「紙をください」
朝食を終えた俺がそう言うと、侍女は不思議そうな顔をした。
「紙でございますか?」
「はい」
「何になさいます?」
「書き物を」
「若君が?」
「何か問題でも?」
「いえ」
ある顔だった。
ものすごくある顔だった。
「今、何か思いましたね」
「何も」
「思ったでしょう」
「何も思っておりません」
「では、なぜ目を逸らしたのです」
「若君」
「はい」
「五歳のお子様にそこまで問い詰められますと、私も少し傷つきます」
「……すみません」
素直に謝った。
前世で六十二歳だった人間が、若い女性を本気で問い詰めてどうする。
いや。
今の俺は五歳だ。
見た目だけなら、むしろ相手の方が年上なのだが。
ややこしい。
非常にややこしい。
「それで、紙を」
「お習字でございますか?」
「まあ、そのようなものです」
「では先生をお呼びしましょうか」
「必要ありません」
「ですが」
「一人でできます」
「本当に?」
「本当です」
「昨日、筆を逆さに持っておられましたが」
「……」
覚えていない。
少なくとも、黒田総一郎としての記憶にはない。
ということは、本来の七郎麻呂の記憶か。
いや、待て。
俺には七郎麻呂の記憶があるのか。
よく分からない。
自分の名前。
部屋の場所。
侍女の顔。
父の声。
そういうものは、どこか懐かしい。
だが、はっきりと思い出せるわけではない。
ぼんやりしている。
夢の中で昔住んでいた家を歩く時のような、そんな感覚だ。
「若君?」
「何です」
「急に黙られましたので」
「考え事です」
「昨日から多いですね」
「そういう年頃です」
「五歳で?」
「……五歳でもです」
侍女が笑った。
今度ははっきり笑った。
「何です」
「いえ。少し安心いたしました」
「何がです」
「昨日から、若君がずっと難しいお顔をなさっていましたので。今はいつもの若君らしいです」
俺は黙った。
いつもの若君。
その言葉が少しだけ胸に引っかかった。
俺は。
本当に誰なんだろう。
黒田総一郎なのか。
徳川七郎麻呂なのか。
あるいは、もうそのどちらでもないのか。
「……紙をお願いします」
結局、それしか言えなかった。
「かしこまりました」
侍女は部屋を出た。
俺は一人になる。
静かだ。
現代の研究室とは違う。
パソコンのファンの音もない。
空調もない。
蛍光灯の微かな音もない。
風が障子を鳴らす。
鳥の声がする。
遠くで誰かが話している。
それだけだ。
俺は膝の上に小さな手を置いた。
「二十七年か」
呟く。
俺が徳川慶喜になったのなら。
このまま何もしなければ。
二十七年後。
江戸幕府は、終わる。
いや。
未来の俺から手紙が届いた。
ということは、終わらない。
終わらせなかった。
俺が。
だが。
どうやって。
そこが問題だった。
「若君、お持ちしました」
侍女が戻ってきた。
紙。
硯。
筆。
「ありがとうございます」
「お一人で本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「逆さに持たないでくださいね」
「そこまで何度も言わなくていいです」
「昨日のことですので」
「もう忘れてください」
「無理です」
「なぜです」
「可愛らしかったので」
「……」
この侍女、強い。
かなり強い。
「お名前を聞いても?」
「まあ」
「何です」
「やはりお加減がお悪いのでは?」
「なぜ」
「私の名をお忘れなのですか」
まずい。
俺は一瞬言葉に詰まった。
侍女がじっとこちらを見る。
若い。
二十歳前後か。
丸顔で、少し目尻が下がっている。
話し方は柔らかいが、妙に遠慮がない。
「確認です」
「何の?」
「あなたが自分の名前を忘れていないかの」
「若君」
「はい」
「昨日、お医者様に診ていただいたのは、私ではございません」
「……」
強い。
やはり強い。
俺は負けを認めた。
「すみません。夢が長すぎて、本当に少し記憶が曖昧なのです」
侍女の表情が変わった。
冗談っぽさが消える。
「……さよでございますか」
「怒りましたか」
「いいえ」
「では」
「寂しいだけです」
予想していなかった返事だった。
俺は黙った。
侍女は少し笑ってから、頭を下げる。
「お喜乃でございます」
「お喜乃」
「はい」
「すみません」
「若君が謝られることではございません」
「でも」
「ただ」
「はい」
「次に忘れられましたら、少しだけ泣きます」
「脅しですか」
「お願いでございます」
俺は吹き出した。
「分かりました」
「本当ですか」
「はい。お喜乃」
「はい」
「覚えました」
彼女は少しだけ笑った。
今度の笑顔は、先ほどとは違った。
なんというか。
安心したような。
そんな笑い方だった。
「では、お邪魔いたしました」
「はい」
「筆は逆さに持たないように」
「もう行ってください」
「はいはい」
襖が閉じた。
静かになる。
俺は筆を持った。
今度は正しく。
「さて」
まず何を書く。
未来を変えるなら、最初に必要なのは情報だ。
記憶は曖昧になる。
六十二年間で覚えたことも、いつか抜け落ちる。
特に歴史の年代は危険だ。
自分の専門分野とはいえ、すべてを正確に記憶しているわけではない。
ならば。
今のうちに書く。
この先、何が起きるのか。
まず。
アヘン戦争。
俺は筆を動かした。
が。
「……汚い」
ひどい。
六十二歳の知識。
五歳児の手。
結果。
ものすごく汚い字。
「これは読めん」
いや。
俺が読むだけならいい。
問題はない。
たぶん。
少し時間が経ったら、自分でも読めなくなる気がするけれど。
俺は続けた。
アヘン戦争。
清敗北。
南京条約。
ペリー来航。
日米和親条約。
安政の大獄。
桜田門外の変。
公武合体。
生麦事件。
薩英戦争。
八月十八日の政変。
禁門の変。
第一次長州征討。
薩長同盟。
第二次長州征討。
徳川家茂死去。
俺、将軍就任。
書いて。
手が止まった。
「俺……か」
徳川慶喜。
第十五代征夷大将軍。
最後の将軍。
自分で書くと、妙な感じがする。
前世では何百回も授業で名前を出した。
徳川慶喜は。
慶応二年に将軍就任。
慶応三年に大政奉還。
慶応四年。
鳥羽・伏見の戦い。
大阪城脱出。
江戸へ帰還。
恭順。
謹慎。
そして徳川幕府は終わる。
歴史の講義なら、数分だ。
だが今。
そこにいるのは俺だ。
鳥羽・伏見で敗れるのも。
大阪城から船で逃げるのも。
家臣を置いていくのも。
江戸で恭順するのも。
俺になる。
「……嫌だな」
思わず、本音が出た。
そりゃ嫌だ。
誰だって嫌だ。
歴史上の人物として評価されるならまだしも、実際にその人生を生きろと言われたら話は別だ。
しかも。
俺は知っている。
誰が死ぬか。
井伊直弼。
桜田門外。
雪。
襲撃。
首級。
坂本龍馬。
近江屋。
暗殺。
高杉晋作。
病死。
徳川家茂。
病死。
孝明天皇。
崩御。
徳川斉昭。
「……父上」
筆が止まった。
父も死ぬ。
俺が将軍になるより前に。
いや。
もっと早い。
黒船。
将軍継嗣問題。
安政の大獄。
父は蟄居。
そして。
死ぬ。
昨日初めて会った。
いや、本当の七郎麻呂にとっては父親だ。
俺にだって。
ついさっき。
額に手を当てた。
飯を食わせろと言った。
怒鳴った。
医者を呼んだ。
話を聞かない。
やたら声が大きい。
かなり面倒くさい。
だが。
「……死ぬのか」
知っていた。
前世では。
徳川斉昭。
万延元年死去。
享年六十。
ただのデータだった。
試験に出すなら年代を問う。
講義なら政治的影響を説明する。
でも。
今は違う。
顔を知っている。
声を知っている。
手の温度を知ってしまった。
それだけで。
死というものが、こんなにも重くなるのか。
「困ったな」
俺は頭を掻いた。
これでは、これから先。
出会うたびに。
知っている人物が増えるたびに。
救いたくなる。
俺は神じゃない。
全員は無理だ。
歴史を変えれば。
誰かを救えば。
そのせいで別の誰かが死ぬかもしれない。
未来の知識は、正解ではない。
ただ、結末を知っているだけだ。
そして。
結末を知っていることと、正しく選べることは。
まったく別の話だ。
「教授の時は、偉そうなことを言っていたな」
苦笑した。
幕府はもっと早く改革すべきだった。
もっと合理的に。
もっと現実的に。
もっと速く。
言うだけなら簡単だ。
今は。
最初の一歩すら、まだ踏み出していない。
父親一人、説得できていない。
五歳。
金なし。
権力なし。
外出自由なし。
ついでに字が汚い。
「最後のは、まあいいか」
よくない気もするが。
俺はもう一度、紙を見た。
そして最後に書く。
大政奉還。
王政復古。
鳥羽・伏見。
江戸開城。
戊辰戦争。
江戸幕府滅亡。
筆を置く。
眺める。
二十七年後。
この世界では。
俺の未来では。
ここで終わる。
だから。
その下に書いた。
原因。
何と書く。
政治的硬直。
財政難。
軍事的遅れ。
外交対応の失敗。
幕藩体制の限界。
権力の多重構造。
正しい。
全部正しい。
でも。
もっと簡単に。
もっと率直に。
俺は書いた。
**全部、遅かった。**
しばらく、その文字を見ていた。
「なら」
十五年早く。
やるしかない。
ただし。
今から十五年で何ができる。
教育。
語学。
軍事。
産業。
統計。
財政。
人材登用。
多すぎる。
「無理じゃないか?」
思わず言った。
未来の自分はやった。
でも。
今の俺には全く見えない。
「いや」
首を振る。
一つずつだ。
まず。
父。
徳川斉昭。
この人を完全に変える必要はない。
攘夷論者を開国論者に変える。
無理だ。
というか、やるべきでもない。
人間は思想の塊ではない。
全部を変えなくていい。
一つだけ。
外国を知らずに排斥するのではなく。
外国を知った上で警戒する。
そこまで持っていけば。
「十分だ」
俺は頷いた。
その時。
「何が十分なのだ」
背後から声がした。
俺は固まった。
聞き覚えのある。
非常に。
非常に大きな声。
振り返らなくても分かる。
最悪だ。
襖が開いている。
そこに。
父、徳川斉昭が立っていた。
「父上」
「なんだ」
「いつからそこに?」
「『全部、遅かった』のあたりからだ」
「かなり前ですね」
「うむ」
終わった。
俺は紙を隠そうとした。
遅い。
五歳児の腕は短い。
紙が大きい。
そして斉昭の腕は長い。
「これは何だ」
「返してください」
「嫌だ」
「子供ですか!」
「お前に言われたくない!」
「私は子供です!」
「自分で言うな!」
斉昭が紙を取り上げる。
「父上!」
「静かにせよ」
「返してください!」
「嫌だと言っておる」
「大人げない!」
「親に向かって大人げないとは何だ!」
「そのままの意味です!」
「黙れ!」
「理不尽です!」
「またそれを言うか!」
昨日とほとんど同じ言い合いになった。
だが。
次の瞬間。
斉昭が黙った。
紙を見ている。
最初は。
意味が分からない顔。
そして。
次第に。
眉間に皺が寄っていく。
「……アヘン戦争」
呟いた。
俺の背中に冷たい汗が流れた。
「ペリー来航?」
「……」
「安政の大獄」
まずい。
その名前は。
まだ存在しない未来の事件だ。
「桜田門外の変」
「父上」
「薩長同盟」
「その紙を返してください」
「大政奉還」
「父上」
「江戸幕府滅亡」
斉昭が顔を上げた。
昨日までとは違う。
怒っている。
だが。
怒りだけではない。
戸惑い。
警戒。
そして。
ほんの僅かな。
恐れ。
「七郎麻呂」
「はい」
「これは、何だ」
俺は答えられない。
「夢です」
「夢?」
「はい」
「昨日もそう言ったな」
「はい」
「なら」
斉昭が紙を突き出した。
「なぜ夢の中の出来事に、年まで書いてある」
そこだ。
確かにそこだ。
俺の馬鹿。
なぜ書いた。
記憶を正確に残すためだ。
当然だ。
でも。
見られた。
最悪だ。
「それは」
「うむ」
「夢なので」
「答えになっておらん」
「そうですね」
「自分で認めるな!」
斉昭が怒鳴る。
俺も負けずに言った。
「では、どう答えれば納得するのです!」
「真実を申せ!」
「言っても信じません!」
「聞いてから決める!」
「絶対に信じません!」
「なぜ分かる!」
「父上だからです!」
沈黙。
斉昭の顔が。
ものすごく怖くなった。
「七郎麻呂」
「はい」
「わしだからとは、どういう意味だ」
「それは」
「申せ」
「……話を聞かないからです」
家臣がいなくてよかった。
本当に。
心の底からそう思う。
いたら多分、全員死んだ顔をしていただろう。
斉昭は俺を睨んだ。
俺も見返した。
先に目を逸らしたら負けな気がした。
だが五歳児の首が疲れる。
父は大きい。
見上げ続けるのが、地味にきつい。
「……父上」
「なんだ」
「首が痛いです」
「知るか!」
怒鳴られた。
だが。
その直後。
斉昭は小さく息を吐いた。
そして。
俺の前に座った。
目線が近くなる。
「これでよいか」
「ありがとうございます」
「礼を言うところではない」
「ですが首が楽になりました」
「お前は本当に……」
斉昭が何か言いかけてやめた。
そして。
もう一度。
紙を見る。
「幕府が滅ぶ」
「はい」
「二十七年後に」
「はい」
「お前はそう申すのか」
俺は少し迷った。
だが。
もう誤魔化せない。
「……はい」
斉昭の顔から、怒りが消えた。
代わりに。
政治家の顔になった。
昨日まで。
歴史書の中でしか知らなかった。
水戸烈公。
徳川斉昭。
その顔。
「理由は」
「一つではありません」
「申せ」
「話すと長いです」
「構わん」
「父上は途中で怒ります」
「怒らん」
「本当ですか」
「……たぶん」
「信用できません」
「お前な!」
「もう怒ったではないですか!」
「これは別だ!」
「何が別なのです!」
また始まった。
俺は頭を抱えた。
斉昭は怒鳴る。
そして。
二人して。
数秒後。
同時に黙った。
俺が先に吹き出した。
「何だ」
「いえ」
「笑うな」
「父上が、あまりにも父上らしいので」
「意味が分からん!」
「私もです」
斉昭は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
だが。
もう一度。
紙を見る。
「七郎麻呂」
「はい」
「話せ」
今度は。
怒鳴らなかった。
「お前が何を見たのか」
俺は父を見た。
未来。
全部は言えない。
言うべきでもない。
でも。
ここから始めるしかない。
まず。
一人。
この頑固で。
短気で。
声が大きくて。
話を聞かない男を。
動かすところから。
「分かりました」
俺は息を吸った。
「ではまず」
そして。
言った。
「清国は英国に負けます」
斉昭の眉が跳ね上がった。
「馬鹿を申すな!」
「ほら!」
「何がほらだ!」
「もう怒った!」
「怒るわ!」
先は。
長い。
本当に。
長い。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
父上が最後まで人の話を聞くようになるまで。
たぶん。
一生かかる。




