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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第1話 私は誰だ

「医者を呼べぇぇぇぇぇぇぇぇ!」


 徳川斉昭の声は、冗談抜きで屋敷を揺らした。


 少なくとも、五歳児の身体になった黒田総一郎にはそう聞こえた。


 廊下の向こうで、ばたばたと足音がする。


「殿! いかがなされました!」


「七郎麻呂がおかしい!」


「おかしい?」


「英国と清国が戦を始めるなどと言っておる!」


「……」


 駆け込んできた壮年の家臣が、黒田――七郎麻呂を見た。


 七郎麻呂も見返した。


 家臣は斉昭を見た。


 斉昭も家臣を見た。


「医者を」


「はい」


「待て!」


 思わず叫んだ。


 声が高い。


 やはり何度聞いても慣れない。


 六十二年間使ってきた自分の声は、もう少し低かった。大学の大教室でマイクが故障しても、最後列まで届かせる自信があった。


 それが今はどうだ。


 必死に叫んでも、どう聞いても幼稚園児である。


 黒田は咳払いした。


「こほん」


 可愛い。


 絶望的に可愛い咳払いだった。


「……違う。そうではない」


「何が違うのだ」


 斉昭が腕を組む。


「今のは、その、言葉の綾です」


「ことばのあや?」


「はい」


「五歳のお前が?」


「……」


 まずい。


 五歳児の語彙が分からない。


 そもそも江戸時代の五歳児がどの程度話せたのかなど、黒田の専門外だ。


 政治史。


 社会史。


 軍事史。


 国際関係史。


 幼児言語発達史までは研究していない。


「七郎麻呂」


「はい」


「英国とは何だ」


「……」


「清国とは何だ」


「……」


「戦とは?」


「……」


 斉昭の目が細くなる。


 逃げ道が、すごい勢いで塞がれていく。


 黒田は思った。


 六十二歳にもなって、五歳児として父親に詰問される日が来るとは思わなかった。


 人生は分からない。


 いや、人生二周目なのだから、分からなくて当然なのかもしれない。


「夢です」


 とっさに言った。


「夢?」


「はい。夢を見ました」


「ほう」


「大きな船が、海を進んでいました。黒い煙を吐きながら」


 斉昭の表情から笑いが消えた。


 しまった。


 また喋りすぎた。


 未来の自分から、あれほど忠告されたのに。


 余計なことは言うな。


 父上に余計なことは言うな。


 百年以上前の徳川慶喜本人がわざわざ手紙で教えてくれたのだ。


 なのに、もう二回目である。


 俺はもしかすると、思っていたより馬鹿なのではないか。


「黒い煙?」


「……はい」


「帆は?」


「あります。しかし、それだけではなく」


 斉昭が身を乗り出す。


「続けよ」


 いや、続けるな俺。


 だが、斉昭の目が怖い。


「蒸気の力で動く船でした」


「じょうき?」


「水を熱すると湯気が出ますでしょう」


「それくらい知っておる」


「その力を使って、船を動かすのです」


 沈黙。


 斉昭は、ゆっくりと家臣を見る。


「医者を急がせよ」


「はい」


「待ってください!」


「今度は何だ!」


「なぜそうなるのです!」


「五歳の子供が、見たこともない船の仕組みを語っておるのだぞ!」


「夢です!」


「都合の良い夢だな!」


「私だって好きで見たわけではありません!」


「逆らうな!」


「理不尽です!」


 言い返した瞬間。


 部屋が静まり返った。


 家臣が目を伏せた。


 侍女が固まった。


 斉昭の眉が、ぴくりと動いた。


 黒田は察した。


 まずい。


 これは、たぶん、ものすごくまずい。


 江戸時代。


 五歳。


 大名の父親。


 しかも徳川斉昭。


 そこで「理不尽です」と言い返す子供が、普通であるはずがない。


「七郎麻呂」


「……はい」


「誰に向かって申しておる」


「父上です」


「そこは分かっておる!」


 また怒鳴られた。


 この父親、会話をするだけで体力を使う。


 未来の自分が三十倍面倒だと書いた理由が、わずか数分で分かり始めた。


 黒田は、小さく息を吐いた。


 そして、ようやく周囲を見回す余裕ができた。


 畳。


 襖。


 低い天井。


 行灯。


 木と藺草の匂い。


 テレビの時代劇で見るものとは違う。


 もっと生活臭がある。


 少し寒い。


 足元も冷える。


 部屋の隅には火鉢。


 侍女は着物姿。


 斉昭は月代を剃っている。


 作り物には見えない。


 いや。


 違う。


 作り物ではないのだ。


 本物だ。


 その事実が、遅れて胸の奥に落ちてきた。


「……本当に」


 黒田は呟いた。


「来てしまったのか」


「どこからだ」


「独り言です」


「今日は独り言が多いな」


「そういう日もあります」


「五歳にしてか?」


「……」


 この父親、いちいち細かい。


 黒田は自分の手を見た。


 小さい。


 爪も。


 掌も。


 腕も細い。


 さっきから視線が低いと思った。


 斉昭を見上げなければならない。


 あの手紙。


 未来の徳川慶喜。


 江戸幕府が滅びなかった現代。


 そして今。


 全部つながっている。


 つまり。


 自分が歴史を変える。


 いや。


 自分が変えた歴史の未来から、手紙が届いた。


 だとすれば。


 俺はこれから、本当に。


「七郎麻呂」


「はい」


「腹が減ったか」


「……はい?」


 あまりに突然だった。


 黒田は瞬きをする。


「なぜです」


「顔が青い」


「それで腹が減ったと?」


「お前は腹が減ると機嫌が悪くなる」


「私はそんな子供では」


 ぐうううううう。


 盛大に腹が鳴った。


 黒田は黙った。


 斉昭も黙った。


 家臣も黙った。


 侍女が口元を押さえた。


「笑いましたか」


「いいえ」


「今、笑いましたよね」


「いいえ、若君」


「目が笑っています」


「滅相もございません」


 絶対に笑っている。


 黒田は悔しかった。


 六十二歳。


 大学教授。


 政府の有識者会議にも呼ばれた。


 テレビにも出た。


 著書も十七冊ある。


 そんな男が今。


 腹が鳴ったせいで侍女に笑われている。


「飯を持ってこい」


 斉昭が言った。


「しかし殿、お医者様は」


「腹が減っておるなら、まず食わせろ」


「はっ」


 侍女が退出する。


 黒田は斉昭を見た。


「医者は呼ぶのですか」


「呼ぶ」


「食事の意味は?」


「診てもらう前に食わせる」


「なるほど」


「何がなるほどだ」


 分からない。


 この父親の中で、何がどうつながっているのか全く分からない。


 だが。


 少しだけ。


 本当に少しだけ、肩の力が抜けた。


 歴史書の中の徳川斉昭。


 烈公。


 尊王攘夷。


 水戸学。


 幕末政治の重要人物。


 だが、目の前にいる男は、それだけではなかった。


 息子の顔色を見て、腹が減ったのかと気づく。


 怒鳴る。


 医者を呼ぶ。


 ついでに飯も食わせる。


 理屈は分からない。


 でも。


 父親なのだ。


 黒田は前世で結婚しなかった。


 子供もいない。


 両親もとうに亡くなっている。


 家に帰って「おかえり」と言われたのは、いつが最後だったか。


 少なくとも二十年以上はない。


「……父上」


「なんだ」


「いえ」


「なんだ」


「何でもありません」


「だから何だ」


「何でもないと言っています」


「なら最初から呼ぶな!」


「呼びたくなる時もあります!」


「意味が分からん!」


「私も分かりません!」


 また言い合いになった。


 家臣が天井を見ている。


 多分、見てはいけないものを見ている顔だ。


 その時、廊下を走る足音がした。


「殿! お医者様をお連れしました!」


「早いな」


 黒田はぎょっとした。


「もう来たのですか」


「呼んだからな」


「先ほどですよ!」


「屋敷内におった」


「最初からそう言ってください!」


「なぜわしがそこまで説明せねばならん!」


「会話とは説明するものです!」


「親に説教するな!」


 襖が開いた。


 白髪混じりの男が、薬箱を手に入ってくる。


 そして斉昭。


 家臣。


 侍女。


 医者。


 全員の視線が七郎麻呂へ集中した。


 黒田は思った。


 教授時代、学生三百人の前で講義したこともある。


 国際学会で英語の質疑応答もした。


 テレビの生放送で政治家と議論もした。


 だが。


 今ほど緊張したことはなかった。


 医者が座る。


「若君。お加減はいかがでございますか」


「良好です」


 医者の手が止まった。


「……良好?」


「はい」


「五歳児が良好と言うか?」


 斉昭が横から口を挟む。


「父上、静かにしてください」


「お前のために呼んだ医者だぞ!」


「分かっています。しかし診察の邪魔です」


「誰に向かって――」


「殿」


 医者が静かに制した。


「少しだけ、お静かに」


 斉昭が黙った。


 黒田は驚いた。


 この人、黙るのか。


 医者が手首を取る。


 脈を診る。


 顔を見る。


 舌を見せろと言われる。


「べー」


 屈辱だ。


 六十二歳で「べー」をする日が来るとは。


「熱はございませぬな」


「でしょう」


「頭が痛むことは?」


「ありません」


「吐き気は?」


「ありません」


「妙なものが見えることは?」


「……」


 未来の徳川慶喜から届いた手紙。


 現代から江戸時代へ転生。


 自分が五歳の七郎麻呂。


 これを「妙なもの」と呼ばずして何と呼ぶのか。


「ありません」


 嘘をついた。


 人生には、つくべき嘘もある。


 政治学者としての結論だ。


「では、先ほど英国と清国が戦を始めると申されたそうですが」


 医者が尋ねた。


 斉昭が腕を組む。


 家臣も見る。


 黒田は答えた。


「夢です」


「夢」


「はい」


「どのような夢で?」


「忘れました」


「先ほど詳しく話しておったではないか」


 斉昭が即座に言った。


 この父親。


 余計な時だけ話を聞いている。


「父上」


「なんだ」


「子供の夢です」


「うむ」


「朝は覚えていても、すぐ忘れるものです」


「そうなのか?」


「そういうことにしてください」


「今、そういうことにしてくれと言ったか?」


「気のせいです」


「お前、本当に五歳か?」


 その言葉に。


 黒田の心臓が止まりかけた。


 笑えなかった。


 斉昭は冗談半分だったのだろう。


 しかし。


 自分は本当に五歳ではない。


 六十二歳の記憶を持っている。


 なら。


 本当の七郎麻呂は、どこへ行った。


 俺が奪ったのか。


 この身体を。


 この人生を。


 父親を。


「……七郎麻呂?」


 斉昭の声が少し低くなった。


 黒田は顔を上げた。


「何でもありません」


「またそれか」


「便利な言葉ですので」


「便利だからと何度も使うな」


 斉昭が手を伸ばした。


 大きな掌が、黒田の額に触れる。


 熱を確かめるように。


 乱暴なくせに、手つきは意外と優しかった。


「本当に熱はないな」


「先ほど先生もそう言われました」


「わしも確認しただけだ」


「二重行政は非効率です」


「にじゅうぎょうせい?」


「……忘れてください」


「お前、本当にどうした」


「だから夢です」


 黒田は言った。


 今度は少しだけ、声を落として。


「少し、長い夢を見ていたのです」


「どれくらいだ」


 六十二年。


 そう答えそうになった。


 だが、やめた。


「とても長くです」


「嫌な夢か」


 黒田は考えた。


 前世。


 嫌なことも多かった。


 学生に腹を立てた。


 同僚と喧嘩した。


 論文は落とされた。


 テレビでは発言を切り取られた。


 一人で食べる夕食にも慣れた。


 でも。


「いいえ」


 黒田は首を振った。


「悪くはありませんでした」


「そうか」


「はい」


「なら、もう一度寝ろ」


「なぜです?」


「疲れておるのであろう」


「そういう話ではありません」


「子供は寝るものだ」


「私は子供では――」


 言いかけて止まる。


 斉昭の眉が上がった。


「では何だ」


「……子供です」


「うむ」


 くそ。


 妙に満足そうだ。


 黒田は布団へ戻された。


 医者は「しばらく様子を見ましょう」と言い残し、斉昭も立ち上がる。


「父上」


「なんだ」


「一つだけ」


「まだあるのか」


「今日は、何年ですか」


 斉昭が振り返った。


「何?」


「夢が長すぎて、分からなくなりました」


 苦しい。


 だが、これしかない。


 斉昭は怪訝な顔をしたが、答えた。


 その年号を。


 その瞬間。


 黒田の頭の中で、歴史年表が一気に開いた。


 アヘン戦争。


 天保の改革。


 ペリー来航。


 安政の大獄。


 桜田門外の変。


 薩長同盟。


 大政奉還。


 鳥羽・伏見。


 そして。


 江戸幕府滅亡。


 黒田は天井を見た。


 正確な年月を計算する。


 黒船来航まで。


 あと十五年。


 幕府滅亡まで。


 あと二十七年。


「……間に合う」


「何がだ」


「父上、まだいたのですか」


「今出ていこうとしておった!」


「では、どうぞ」


「お前、少し元気になったな?」


「おかげさまで」


「やはり医者にもっと診せるか」


「必要ありません!」


 斉昭が出ていく。


 襖が閉じる。


 足音が遠ざかる。


 ようやく一人になった。


 黒田は布団の中で息を吐く。


 五歳。


 徳川七郎麻呂。


 後の徳川慶喜。


 そして今から二十七年後。


 この幕府は消える。


 だが。


 未来の自分から手紙が来た。


 幕府は救える、と。


 黒田は小さな拳を握った。


「ならば」


 やるしかない。


 政治。


 軍事。


 経済。


 教育。


 外交。


 自分が生涯研究してきたすべてを使う。


 ただし。


 まずは。


「……父上をどうにかしないとな」


 最大の問題は、黒船でも薩長でもなかった。


 隣の部屋から、斉昭の大声が聞こえた。


「七郎麻呂に甘い菓子を食わせすぎるな!」


「殿が先日お持ちになったのですが!」


「わしは良い!」


「なぜです!」


「父だからだ!」


 黒田は目を閉じた。


「……無理かもしれない」


 未来の自分。


 本当に、よくやったと思う。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして徳川斉昭の説得まで。


 残念ながら。


 見通しは、まだ立っていなかった。


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