第1話 私は誰だ
「医者を呼べぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
徳川斉昭の声は、冗談抜きで屋敷を揺らした。
少なくとも、五歳児の身体になった黒田総一郎にはそう聞こえた。
廊下の向こうで、ばたばたと足音がする。
「殿! いかがなされました!」
「七郎麻呂がおかしい!」
「おかしい?」
「英国と清国が戦を始めるなどと言っておる!」
「……」
駆け込んできた壮年の家臣が、黒田――七郎麻呂を見た。
七郎麻呂も見返した。
家臣は斉昭を見た。
斉昭も家臣を見た。
「医者を」
「はい」
「待て!」
思わず叫んだ。
声が高い。
やはり何度聞いても慣れない。
六十二年間使ってきた自分の声は、もう少し低かった。大学の大教室でマイクが故障しても、最後列まで届かせる自信があった。
それが今はどうだ。
必死に叫んでも、どう聞いても幼稚園児である。
黒田は咳払いした。
「こほん」
可愛い。
絶望的に可愛い咳払いだった。
「……違う。そうではない」
「何が違うのだ」
斉昭が腕を組む。
「今のは、その、言葉の綾です」
「ことばのあや?」
「はい」
「五歳のお前が?」
「……」
まずい。
五歳児の語彙が分からない。
そもそも江戸時代の五歳児がどの程度話せたのかなど、黒田の専門外だ。
政治史。
社会史。
軍事史。
国際関係史。
幼児言語発達史までは研究していない。
「七郎麻呂」
「はい」
「英国とは何だ」
「……」
「清国とは何だ」
「……」
「戦とは?」
「……」
斉昭の目が細くなる。
逃げ道が、すごい勢いで塞がれていく。
黒田は思った。
六十二歳にもなって、五歳児として父親に詰問される日が来るとは思わなかった。
人生は分からない。
いや、人生二周目なのだから、分からなくて当然なのかもしれない。
「夢です」
とっさに言った。
「夢?」
「はい。夢を見ました」
「ほう」
「大きな船が、海を進んでいました。黒い煙を吐きながら」
斉昭の表情から笑いが消えた。
しまった。
また喋りすぎた。
未来の自分から、あれほど忠告されたのに。
余計なことは言うな。
父上に余計なことは言うな。
百年以上前の徳川慶喜本人がわざわざ手紙で教えてくれたのだ。
なのに、もう二回目である。
俺はもしかすると、思っていたより馬鹿なのではないか。
「黒い煙?」
「……はい」
「帆は?」
「あります。しかし、それだけではなく」
斉昭が身を乗り出す。
「続けよ」
いや、続けるな俺。
だが、斉昭の目が怖い。
「蒸気の力で動く船でした」
「じょうき?」
「水を熱すると湯気が出ますでしょう」
「それくらい知っておる」
「その力を使って、船を動かすのです」
沈黙。
斉昭は、ゆっくりと家臣を見る。
「医者を急がせよ」
「はい」
「待ってください!」
「今度は何だ!」
「なぜそうなるのです!」
「五歳の子供が、見たこともない船の仕組みを語っておるのだぞ!」
「夢です!」
「都合の良い夢だな!」
「私だって好きで見たわけではありません!」
「逆らうな!」
「理不尽です!」
言い返した瞬間。
部屋が静まり返った。
家臣が目を伏せた。
侍女が固まった。
斉昭の眉が、ぴくりと動いた。
黒田は察した。
まずい。
これは、たぶん、ものすごくまずい。
江戸時代。
五歳。
大名の父親。
しかも徳川斉昭。
そこで「理不尽です」と言い返す子供が、普通であるはずがない。
「七郎麻呂」
「……はい」
「誰に向かって申しておる」
「父上です」
「そこは分かっておる!」
また怒鳴られた。
この父親、会話をするだけで体力を使う。
未来の自分が三十倍面倒だと書いた理由が、わずか数分で分かり始めた。
黒田は、小さく息を吐いた。
そして、ようやく周囲を見回す余裕ができた。
畳。
襖。
低い天井。
行灯。
木と藺草の匂い。
テレビの時代劇で見るものとは違う。
もっと生活臭がある。
少し寒い。
足元も冷える。
部屋の隅には火鉢。
侍女は着物姿。
斉昭は月代を剃っている。
作り物には見えない。
いや。
違う。
作り物ではないのだ。
本物だ。
その事実が、遅れて胸の奥に落ちてきた。
「……本当に」
黒田は呟いた。
「来てしまったのか」
「どこからだ」
「独り言です」
「今日は独り言が多いな」
「そういう日もあります」
「五歳にしてか?」
「……」
この父親、いちいち細かい。
黒田は自分の手を見た。
小さい。
爪も。
掌も。
腕も細い。
さっきから視線が低いと思った。
斉昭を見上げなければならない。
あの手紙。
未来の徳川慶喜。
江戸幕府が滅びなかった現代。
そして今。
全部つながっている。
つまり。
自分が歴史を変える。
いや。
自分が変えた歴史の未来から、手紙が届いた。
だとすれば。
俺はこれから、本当に。
「七郎麻呂」
「はい」
「腹が減ったか」
「……はい?」
あまりに突然だった。
黒田は瞬きをする。
「なぜです」
「顔が青い」
「それで腹が減ったと?」
「お前は腹が減ると機嫌が悪くなる」
「私はそんな子供では」
ぐうううううう。
盛大に腹が鳴った。
黒田は黙った。
斉昭も黙った。
家臣も黙った。
侍女が口元を押さえた。
「笑いましたか」
「いいえ」
「今、笑いましたよね」
「いいえ、若君」
「目が笑っています」
「滅相もございません」
絶対に笑っている。
黒田は悔しかった。
六十二歳。
大学教授。
政府の有識者会議にも呼ばれた。
テレビにも出た。
著書も十七冊ある。
そんな男が今。
腹が鳴ったせいで侍女に笑われている。
「飯を持ってこい」
斉昭が言った。
「しかし殿、お医者様は」
「腹が減っておるなら、まず食わせろ」
「はっ」
侍女が退出する。
黒田は斉昭を見た。
「医者は呼ぶのですか」
「呼ぶ」
「食事の意味は?」
「診てもらう前に食わせる」
「なるほど」
「何がなるほどだ」
分からない。
この父親の中で、何がどうつながっているのか全く分からない。
だが。
少しだけ。
本当に少しだけ、肩の力が抜けた。
歴史書の中の徳川斉昭。
烈公。
尊王攘夷。
水戸学。
幕末政治の重要人物。
だが、目の前にいる男は、それだけではなかった。
息子の顔色を見て、腹が減ったのかと気づく。
怒鳴る。
医者を呼ぶ。
ついでに飯も食わせる。
理屈は分からない。
でも。
父親なのだ。
黒田は前世で結婚しなかった。
子供もいない。
両親もとうに亡くなっている。
家に帰って「おかえり」と言われたのは、いつが最後だったか。
少なくとも二十年以上はない。
「……父上」
「なんだ」
「いえ」
「なんだ」
「何でもありません」
「だから何だ」
「何でもないと言っています」
「なら最初から呼ぶな!」
「呼びたくなる時もあります!」
「意味が分からん!」
「私も分かりません!」
また言い合いになった。
家臣が天井を見ている。
多分、見てはいけないものを見ている顔だ。
その時、廊下を走る足音がした。
「殿! お医者様をお連れしました!」
「早いな」
黒田はぎょっとした。
「もう来たのですか」
「呼んだからな」
「先ほどですよ!」
「屋敷内におった」
「最初からそう言ってください!」
「なぜわしがそこまで説明せねばならん!」
「会話とは説明するものです!」
「親に説教するな!」
襖が開いた。
白髪混じりの男が、薬箱を手に入ってくる。
そして斉昭。
家臣。
侍女。
医者。
全員の視線が七郎麻呂へ集中した。
黒田は思った。
教授時代、学生三百人の前で講義したこともある。
国際学会で英語の質疑応答もした。
テレビの生放送で政治家と議論もした。
だが。
今ほど緊張したことはなかった。
医者が座る。
「若君。お加減はいかがでございますか」
「良好です」
医者の手が止まった。
「……良好?」
「はい」
「五歳児が良好と言うか?」
斉昭が横から口を挟む。
「父上、静かにしてください」
「お前のために呼んだ医者だぞ!」
「分かっています。しかし診察の邪魔です」
「誰に向かって――」
「殿」
医者が静かに制した。
「少しだけ、お静かに」
斉昭が黙った。
黒田は驚いた。
この人、黙るのか。
医者が手首を取る。
脈を診る。
顔を見る。
舌を見せろと言われる。
「べー」
屈辱だ。
六十二歳で「べー」をする日が来るとは。
「熱はございませぬな」
「でしょう」
「頭が痛むことは?」
「ありません」
「吐き気は?」
「ありません」
「妙なものが見えることは?」
「……」
未来の徳川慶喜から届いた手紙。
現代から江戸時代へ転生。
自分が五歳の七郎麻呂。
これを「妙なもの」と呼ばずして何と呼ぶのか。
「ありません」
嘘をついた。
人生には、つくべき嘘もある。
政治学者としての結論だ。
「では、先ほど英国と清国が戦を始めると申されたそうですが」
医者が尋ねた。
斉昭が腕を組む。
家臣も見る。
黒田は答えた。
「夢です」
「夢」
「はい」
「どのような夢で?」
「忘れました」
「先ほど詳しく話しておったではないか」
斉昭が即座に言った。
この父親。
余計な時だけ話を聞いている。
「父上」
「なんだ」
「子供の夢です」
「うむ」
「朝は覚えていても、すぐ忘れるものです」
「そうなのか?」
「そういうことにしてください」
「今、そういうことにしてくれと言ったか?」
「気のせいです」
「お前、本当に五歳か?」
その言葉に。
黒田の心臓が止まりかけた。
笑えなかった。
斉昭は冗談半分だったのだろう。
しかし。
自分は本当に五歳ではない。
六十二歳の記憶を持っている。
なら。
本当の七郎麻呂は、どこへ行った。
俺が奪ったのか。
この身体を。
この人生を。
父親を。
「……七郎麻呂?」
斉昭の声が少し低くなった。
黒田は顔を上げた。
「何でもありません」
「またそれか」
「便利な言葉ですので」
「便利だからと何度も使うな」
斉昭が手を伸ばした。
大きな掌が、黒田の額に触れる。
熱を確かめるように。
乱暴なくせに、手つきは意外と優しかった。
「本当に熱はないな」
「先ほど先生もそう言われました」
「わしも確認しただけだ」
「二重行政は非効率です」
「にじゅうぎょうせい?」
「……忘れてください」
「お前、本当にどうした」
「だから夢です」
黒田は言った。
今度は少しだけ、声を落として。
「少し、長い夢を見ていたのです」
「どれくらいだ」
六十二年。
そう答えそうになった。
だが、やめた。
「とても長くです」
「嫌な夢か」
黒田は考えた。
前世。
嫌なことも多かった。
学生に腹を立てた。
同僚と喧嘩した。
論文は落とされた。
テレビでは発言を切り取られた。
一人で食べる夕食にも慣れた。
でも。
「いいえ」
黒田は首を振った。
「悪くはありませんでした」
「そうか」
「はい」
「なら、もう一度寝ろ」
「なぜです?」
「疲れておるのであろう」
「そういう話ではありません」
「子供は寝るものだ」
「私は子供では――」
言いかけて止まる。
斉昭の眉が上がった。
「では何だ」
「……子供です」
「うむ」
くそ。
妙に満足そうだ。
黒田は布団へ戻された。
医者は「しばらく様子を見ましょう」と言い残し、斉昭も立ち上がる。
「父上」
「なんだ」
「一つだけ」
「まだあるのか」
「今日は、何年ですか」
斉昭が振り返った。
「何?」
「夢が長すぎて、分からなくなりました」
苦しい。
だが、これしかない。
斉昭は怪訝な顔をしたが、答えた。
その年号を。
その瞬間。
黒田の頭の中で、歴史年表が一気に開いた。
アヘン戦争。
天保の改革。
ペリー来航。
安政の大獄。
桜田門外の変。
薩長同盟。
大政奉還。
鳥羽・伏見。
そして。
江戸幕府滅亡。
黒田は天井を見た。
正確な年月を計算する。
黒船来航まで。
あと十五年。
幕府滅亡まで。
あと二十七年。
「……間に合う」
「何がだ」
「父上、まだいたのですか」
「今出ていこうとしておった!」
「では、どうぞ」
「お前、少し元気になったな?」
「おかげさまで」
「やはり医者にもっと診せるか」
「必要ありません!」
斉昭が出ていく。
襖が閉じる。
足音が遠ざかる。
ようやく一人になった。
黒田は布団の中で息を吐く。
五歳。
徳川七郎麻呂。
後の徳川慶喜。
そして今から二十七年後。
この幕府は消える。
だが。
未来の自分から手紙が来た。
幕府は救える、と。
黒田は小さな拳を握った。
「ならば」
やるしかない。
政治。
軍事。
経済。
教育。
外交。
自分が生涯研究してきたすべてを使う。
ただし。
まずは。
「……父上をどうにかしないとな」
最大の問題は、黒船でも薩長でもなかった。
隣の部屋から、斉昭の大声が聞こえた。
「七郎麻呂に甘い菓子を食わせすぎるな!」
「殿が先日お持ちになったのですが!」
「わしは良い!」
「なぜです!」
「父だからだ!」
黒田は目を閉じた。
「……無理かもしれない」
未来の自分。
本当に、よくやったと思う。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして徳川斉昭の説得まで。
残念ながら。
見通しは、まだ立っていなかった。




