第0話 百年以上前に死んだ徳川慶喜から、俺宛てに苦情の手紙が届いた
六十二歳の大学教授、黒田総一郎は、その日、自分の名前がテレビから聞こえてきた瞬間、味噌ラーメンを噴き出した。
「ぶっ!」
正確にはカップ麺である。
六十二歳にもなった大学教授が、午後九時過ぎの研究室で一人、コンビニのおにぎりとカップ麺を夕食にしていることについては、いろいろ言いたい者もいるだろう。
健康に悪い。
塩分が多い。
野菜を食べろ。
いい歳なのだから自炊くらいしろ。
全部正しい。
全部分かっている。
しかし、人間というものは正しいからといって実行できるわけではない。
黒田は六十二年の人生をかけて、そのことをよく知っていた。
だからこそ政治学なんぞを研究している。
「待て待て待て、今、俺の名前を言っただろう」
机の端に置かれたテレビを睨む。
よりによって、噴き出した味噌ラーメンの汁が、三週間かけて書いた論文の上に飛び散っていた。
「ああっ!」
慌ててティッシュを取る。
一枚。
二枚。
三枚。
駄目だ。
もう完全に味噌味である。
タイトルは『幕末期における中央権力の分散と統合に関する政治構造的考察』。
その論文の右上に、見事な茶色い染みが広がっていた。
「くそっ。査読前だぞ、これ……」
誰に対して怒ればいいのか分からない。
テレビ局か。
徳川慶喜か。
カップ麺メーカーか。
それとも午後九時に味噌ラーメンを食っていた自分自身か。
最後の可能性が一番高そうだったので、黒田は考えるのをやめた。
テレビでは女性アナウンサーが、妙に神妙な顔をしてニュース原稿を読み上げている。
『本日午後、水戸徳川家旧蔵の史料整理中に発見された、徳川慶喜公直筆とみられる書状について、新たな事実が判明しました』
「ほう」
黒田は濡れた論文を諦め、テレビへ向き直った。
徳川慶喜。
彼の専門分野のど真ん中である。
もっとも、この世界における徳川慶喜は、黒田の記憶にある歴史とは少し違う。
いや。
少し、どころではない。
江戸幕府は滅びなかった。
少なくとも、教科書にはそう書かれている。
徳川幕府は十九世紀半ばから大規模な改革を始め、諸藩を自治州に再編し、軍制を統一し、議会を設置し、朝廷との権力分担を制度化した。
その結果、戊辰戦争は起きなかった。
江戸城総攻撃もない。
会津戦争もない。
函館戦争もない。
徳川慶喜は「最後の将軍」にはならず、初代江戸政府行政総裁として近代国家建設を主導した。
黒田は、その歴史をずっと研究してきた。
そして研究すればするほど、妙な気分になることがあった。
あまりにも出来すぎているのだ。
改革の時期が早すぎる。
外国語教育。
人口統計。
公衆衛生。
軍隊の近代化。
全国統一市場。
貨幣制度改革。
そして何より、人材登用。
まるで。
まるで、その後に何が起きるのかを知っていた人間がいたような――。
『そして今回発見された書状には、驚くべき人物の名前が記されていました』
「ほうほう」
黒田は冷めかけたラーメンをすすった。
『現在、東京にある東都国際大学に勤務する大学教授、黒田総一郎氏です』
「ぶっ!」
二度目だった。
今度は壁に飛んだ。
「だから、なんで俺なんだよ!」
黒田は立ち上がった。
研究室には誰もいない。
当然である。
午後九時だ。
学生どころか、隣の研究室の教授ですらとっくに帰宅している。
六十二歳で妻も子もおらず、帰ったところで冷蔵庫に麦茶しか入っていない黒田だけが残っていた。
「同姓同名だろ」
そう呟いた。
「うん。絶対そうだ。黒田総一郎なんて、全国を探せば三人くらいいる」
たぶん。
知らないけれど。
『書状には、次のように記されています』
画面が切り替わる。
古びた和紙。
流麗な筆文字。
そして画面下部に現代語訳が表示された。
黒田は目を細めた。
『政治、社会、歴史、軍事を専門とし、学生から「先生の授業は面白いけれど試験範囲が広すぎる」と苦情を受けている、黒田総一郎教授へ』
「俺だ」
即答だった。
どう考えても俺だ。
「いや待て。なんで徳川慶喜が俺の学生からの苦情まで知ってるんだ」
しかも腹が立つことに、その苦情は事実だった。
去年、授業アンケートに書かれていた。
黒田としては反論がある。
試験範囲が広いのではない。
世界が広いのだ。
政治を語るなら経済もいる。
経済を語るなら社会もいる。
社会を語るなら歴史も必要だ。
その程度も分からずに単位だけ欲しがる最近の学生は――。
「いや、今はそこじゃない!」
一人で自分に突っ込んだ。
六十二歳にもなると、自分との会話が増える。
寂しいわけではない。
たぶん。
テレビでは、手紙の続きを読み上げている。
『黒田総一郎教授へ。まず申し上げておきます。あなたは以前、学生たちにこう言いましたね』
「……なんだ?」
『江戸幕府は、黒船が来てから改革を始めたのでは遅い』
黒田の表情が消えた。
『本当に幕府を救うつもりならば、最低でも十五年前』
「まさか」
『徳川慶喜が五歳の頃から始めなければならない、と』
「……」
研究室が静まり返った。
黒田はテレビを見たまま、動けなくなった。
それは。
確かに自分が言った。
一週間前。
大学の講義で。
幕末政治史の講義だった。
学生の一人が聞いたのだ。
『先生だったら、江戸幕府を救えましたか?』
若者らしい、何とも無責任な質問だった。
黒田は答えた。
『無理だ』
学生たちが笑った。
『先生でも無理なんですか』
『黒船が来てからならな』
『じゃあ、いつなら?』
そこで黒田は黒板に西暦を書いた。
一八三八年。
『最低でも十五年前。五歳の徳川慶喜からなら、可能性はある』
『五歳児ですよ?』
『知っている』
『五歳で何ができます?』
『何もできん』
『駄目じゃないですか』
『だから、まず父親を騙すところから始める』
教室は笑いに包まれた。
黒田自身も笑った。
たった一週間前のことだ。
論文にも書いていない。
録画もされていない。
学生との雑談だ。
「なんで……」
黒田は呟いた。
「なんで百年以上前に死んだ人間が、それを知ってるんだよ」
テレビの中で、手紙は続いた。
『結論から申し上げましょう』
黒田は無意識に身を乗り出した。
『できます』
「……何?」
『江戸幕府は救えます』
心臓が鳴った。
歴史学者として。
政治学者として。
何十年も考えてきた問いだった。
もしも。
もしも江戸幕府が、もっと早く改革を始めていたなら。
『ただし』
黒田は息を止めた。
『あなたが想像している三十倍くらい面倒です』
「三十倍?」
黒田は思わず聞き返した。
「妙に具体的だな」
手紙は続く。
『まず父上が話を聞きません』
「徳川斉昭か」
『本当に聞きません』
「二回言った」
『こちらが一時間説明しても、最初の五分しか聞いていないことがあります』
「ありそうだ」
『しかも、その五分もだいたい誤解しています』
「もっとありそうだ」
思わず笑ってしまった。
だが、まだ続く。
『次に勝海舟です』
「おお」
『あれは部下ではありません』
「いきなり悪口だな」
『勝手に働き、勝手に休み、勝手に文句を言います』
「ははは」
『ただし仕事はできます』
「そうだろうな」
『そこが非常に腹立たしいです』
「個人的な恨みが入ってるぞ」
黒田はもう完全にテレビと会話していた。
誰かに見られたら認知機能を心配されるかもしれない。
『坂本龍馬はもっと勝手です』
「だろうな」
『三日待てと言ったのに、その日の夜に長崎へ行きました』
「なんでだ」
『理由は「三日後より今日の方が船が出るきに」でした』
「龍馬ぁ!」
黒田は机を叩いて笑った。
しかし、笑いながらも妙な感覚があった。
なんだ、この手紙は。
歴史資料ではない。
少なくとも、黒田が何十年も読んできた歴史資料とは違う。
そこには人間がいた。
勝手な部下に腹を立て。
言うことを聞かない龍馬に振り回され。
それでも、どこか楽しそうに愚痴をこぼす、一人の人間がいる。
『西郷隆盛とは七回ほど絶交しました』
「七回も?」
『そのうち五回は翌日に会っています』
「それは絶交とは言わん」
『大久保利通は真面目そうに見えて、かなり根に持ちます』
「否定しにくいな」
『井伊直弼は敵に回すと面倒ですが、味方にしても面倒です』
「結局、みんな面倒なんじゃないか」
『その通りです』
「え?」
黒田は固まった。
まるで返事をされた気がした。
もちろん偶然だ。
手紙は百年以上前に書かれたものだ。
だが。
背中が少し冷えた。
『未来を知っているからといって、人間を操れると思わないことです』
黒田の笑みが消える。
『人間は、こちらが最も困る時に、最も予想外のことをします』
テレビから流れる声だけが、研究室に響く。
『歴史書には、そういうことが何も書いてありません』
黒田は黙った。
長く歴史を研究してきた。
史料を読んだ。
数字を追った。
制度を調べた。
政策を比較した。
だが。
そこにいた人間が、朝、妻と喧嘩していたかもしれない。
腹を壊していたかもしれない。
前日の酒が残っていたかもしれない。
大事な会議の直前に、親友と絶交したかもしれない。
そんなことは、確かに歴史書にはほとんど残らない。
「……なるほどな」
黒田は小さく呟いた。
そして。
最後の一文が読み上げられた。
『追伸』
「まだあるのか」
『目を覚ましたら、まず父上に余計なことを言わないでください』
「は?」
『私は最初に英国と清国が戦争を始めると言ってしまい、医者を呼ばれました』
黒田は吹き出した。
「当たり前だろ!」
『繰り返します』
「繰り返すのか」
『余計なことは言わないでください』
「言わんよ」
黒田は笑った。
「俺を誰だと思っている。六十二歳だぞ。五歳児じゃないんだ。そんな初歩的な失敗を――」
そこで。
研究室の照明が消えた。
「……は?」
真っ暗。
テレビも消えた。
パソコンも。
空調の音まで止まった。
「停電か?」
黒田はスマートフォンを探した。
ない。
机の上に置いたはずなのに。
「どこだ」
手探りする。
ない。
その時。
闇の向こうから声がした。
「七郎麻呂!」
黒田の手が止まった。
「……いや」
まさかな。
そんなわけがない。
もう一度。
「七郎麻呂! いつまで寝ておる!」
「いやいやいやいや」
黒田は後ずさった。
「待て。こういう時は落ち着け。科学的に考えろ。幻聴だ。疲れているんだ。最近、睡眠時間も四時間を切っていたし、医者にも怒られたし――」
「七郎麻呂!」
「声でかっ!」
思わず怒鳴り返した。
次の瞬間。
世界がぐるりと回った。
「うわっ!」
落ちる。
どこへ?
分からない。
上下も。
左右も。
何もない。
そして。
頬に痛みが走った。
「痛い痛い痛い痛い!」
黒田は飛び起きた。
声が高い。
妙に高い。
「なんだ、この声」
「何を寝ぼけておる!」
目の前に男がいた。
髭。
鋭い目。
立派な着物。
見るからに気が強そうで、見るからに頑固そうで、何より見るからに話を聞かなそうな顔。
黒田は知っている。
知りすぎるほど知っている。
「……徳川、斉昭?」
「父を呼び捨てにするな!」
「父?」
黒田は自分の手を見た。
小さい。
ぷにぷにしている。
指が短い。
「……嘘だろ」
恐る恐る自分の頬を触る。
柔らかい。
髭もない。
「七郎麻呂?」
その名で。
全部分かった。
徳川七郎麻呂。
後の。
徳川慶喜。
「俺が……慶喜?」
「先ほどから何をぶつぶつ言っておる!」
斉昭が顔を近づける。
「いや、あの」
黒田――いや、七郎麻呂は息を呑んだ。
そして思い出した。
手紙。
未来の徳川慶喜からの手紙。
最後の忠告。
**目を覚ましたら、まず父上に余計なことを言わないでください。**
そうだ。
何も言うな。
余計なことは絶対に言うな。
相手は徳川斉昭だ。
五歳児が突然未来を語れば、医者どころか祈祷師まで呼ばれかねない。
黙れ。
俺。
六十二歳だろう。
大人だろう。
「七郎麻呂」
「はい」
「どうした」
「いえ、何も」
「顔色が悪いぞ」
「大丈夫です」
「本当か」
「もちろんです」
完璧だ。
黒田は心の中で頷いた。
いける。
何も言わない。
まず状況確認だ。
現在の年。
場所。
自分の年齢。
そこから慎重に――。
「ところで七郎麻呂」
「はい」
「先ほどまで何を考えておった」
「英国と清国の戦争についてです」
沈黙。
黒田は固まった。
斉昭も固まった。
部屋の隅にいた侍女も固まった。
あ。
言った。
六十二歳の大学教授。
転生後、およそ一分。
未来の自分から、わざわざ百年越しの手紙で忠告までされたのに。
まったく同じ失敗をした。
斉昭の眉間に深い皺が寄った。
「英国と……清国の戦争?」
「……」
「七郎麻呂」
「はい」
「英国と清国は、戦争をしておるのか?」
黒田は迷った。
ここで誤魔化すか。
いや。
もう言ってしまった。
ならば。
「これから始まります」
また沈黙。
斉昭が侍女を見る。
侍女が斉昭を見る。
斉昭がもう一度、息子を見る。
「医者を呼べぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
屋敷中が震えるほどの大声だった。
黒田は小さな身体で天井を仰いだ。
そして思った。
――なるほど。
――確かに。
未来の俺の言う通りだ。
――この父親、三十倍くらい面倒そうだぞ。
黒船来航まで、あと十五年。
江戸幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
父親にまともに話を聞いてもらえるまで。
おそらく、まだかなりかかる。
こうして。
未来の自分から忠告まで届いたというのに、開始一分でまったく同じ失敗をした六十二歳の大学教授は。
五歳の徳川慶喜として。
江戸幕府を救うことになった。
ただし。
今のところは、父親から頭がおかしくなったと思われている。




