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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第29話 父上を利用します

「駄目です」


「なぜです」


「身分が低いからです」


「それは昨日聞きました!」


「では、もう一度申し上げます」


 目の前の役人は。


 本当に。


 申し訳なさそうな顔をしながら。


 しかし。


 きっぱりと言った。


「駄目なものは、駄目にございます」


 俺は黙った。


 向こうも黙った。


 その隣では。


 小野寺新吾が。


 なぜか少し離れた場所に座っている。


「小野寺」


「はい」


「なぜ今日は遠いのです」


「嫌な予感がしますので」


「何がです」


「若君が」


「はい」


「そろそろ何か無茶をなさる頃かと」


「失礼ですね!」


「違いますか」


「……」


「ほら」


「まだ何もしていません!」


「まだ?」


「言葉の綾です!」


「便利ですね」


「夢ほどではありません!」


 最近。


 先に言うことにしている。


 言われる前に。


 自分で。


 悲しい進歩だ。


「若君」


 役人が。


 疲れた顔で言った。


「何です」


「お話を戻しても?」


「どうぞ」


「清吉という少年に」


「はい」


「算術や蘭学を学ばせる」


「はい」


「それ自体」


 役人は。


 少し言葉を選んだ。


「絶対に許されぬ、とまでは申しませぬ」


 俺の目が動く。


「では!」


「しかし」


「来ましたね」


「何がでしょう」


「最近、私は『しかし』と『ですが』が怖いです」


「若君」


 小野寺が言う。


「何です」


「本題を」


「あなたに言われると腹が立ちます!」


「なぜ」


「分かりません!」


 役人が。


 ほんの少し。


 笑った。


「今、笑いましたね」


「いえ」


「笑いました!」


「若君」


「何です」


「お話を」


「はい!」


 今日は。


 話が進まない。


 いや。


 今日も、か。


「つまり」


 役人が続ける。


「清吉一人だけを」


「はい」


「別の場所で」


「はい」


「特別に学ばせるのであれば」


「はい!」


「まだ」


 俺は身を乗り出す。


「まだ?」


「何とか」


「できます?」


「……」


「できますね!」


「若君」


「はい」


「先に答えを決めないでください」


 小野寺が。


 横から言った。


「でも今、何とかと言いました!」


「『何とか難しい』かもしれません」


「嫌な続きを作らないでください!」


「では聞きましょう」


 小野寺が。


 役人を見る。


「できますか」


 役人は。


 ものすごく困った顔をした。


「……できなくは」


「ほら!」


「若君」


「はい」


「最後まで」


「分かっています!」


 俺は黙った。


 本当に。


 我慢した。


「できなくは」


 役人は言う。


「ございません」


 俺は。


 拳を握った。


「やった!」


「ただし」


「やっぱり来た!」


 小野寺が顔を伏せる。


「何です!」


「いえ」


「笑いました?」


「少し」


「正直!」


「若君に習いました」


「便利に使わないでください!」


     ◇


「それで」


 俺は聞いた。


「何が問題なのです」


「まず」


 役人が指を一本立てる。


「誰が教えるのか」


「玄庵先生」


「勝手に決めないでください」


「では聞きます」


「次に」


 二本目。


「どこで教えるのか」


「空いている部屋を」


「どの部屋が空いているか、ご存じですか」


「……」


「若君」


「探します」


「誰が」


「……」


「若君」


「私も探します!」


「五歳児が屋敷中を?」


「歩けます!」


「迷われます」


「迷いません!」


「昨日、厠から戻る途中で」


「それは言わないでください!」


 小野寺が。


 思い切り顔を伏せた。


「小野寺!」


「はい」


「笑っていますね!」


「いいえ」


「肩が!」


「咳です」


「皆それ!」


 役人まで笑っている。


「もう!」


 俺は。


 少し腹を立てた。


 でも。


 確かに。


 問題はある。


「他には」


「紙」


「はい」


「墨」


「はい」


「書物」


「はい」


「教える者の時間」


「……」


「清吉が学んでいる間」


「……」


「鍛冶場の仕事は?」


 俺は黙った。


 清吉には。


 父親がいる。


 鍛冶職人だ。


 息子の手も。


 当然。


 仕事の一部だろう。


「その分」


 俺は言った。


「清吉の家が困ります?」


「可能性は」


「ありますね」


「はい」


 まただ。


 誰か一人を学ばせる。


 良いことだと思う。


 でも。


 その一人が。


 今。


 している仕事がある。


 家族がある。


 収入がある。


 抜ければ。


 誰かが困る。


「……人間は」


 俺は呟いた。


「何で一人ずつ独立していないのです」


「何を仰っているのです」


 小野寺が呆れた顔をする。


「少し疲れただけです!」


「それは分かります」


「優しいですね」


「今だけです」


「続けてください!」


「嫌です」


「早い!」


 役人が。


 また少し笑った。


     ◇


 その日の午後。


 俺は。


 清吉の父親に会った。


 鍛冶職人。


 名を。


 弥助という。


 大きな男だった。


 本当に。


 大きい。


 肩が広い。


 腕が太い。


 手など。


 俺の頭より大きいのではないか。


 いや。


 さすがにそれは言いすぎか。


 でも。


 かなり大きい。


「若君様」


 弥助は。


 畳に額がつきそうなほど。


 深く頭を下げた。


「そこまでしなくていいです」


「いえ!」


「顔を上げてください」


「恐れ多く!」


「話がしにくいです!」


「ですが!」


「お願いします!」


「……はい」


 ようやく顔を上げた。


 怖い。


 顔が。


 いや。


 失礼だ。


 真面目なだけかもしれない。


「清吉のことで」


「はい!」


「声、大きいですね」


「申し訳ございません!」


「もっと大きくなりました!」


 少し離れた場所で。


 小野寺が笑った。


「小野寺」


「はい」


「今、絶対に」


「本題を」


「便利ですね!」


 俺は。


 弥助を見る。


「清吉に」


「はい」


「勉強をさせたいです」


 弥助が。


 固まった。


「……勉強?」


「はい」


「うちの?」


「はい」


「清吉に?」


「はい」


「なぜ」


 その一言。


 清吉も言った。


 俺は少し笑った。


「面白いからです」


「……」


「清吉が作った仕掛け」


「……」


「重い鉄を少ない人数で持ち上げるもの」


「あれですか」


「はい」


「あれは」


 弥助の眉間に皺が寄る。


「仕事の邪魔ばかり」


「でも」


「はい」


「考えた」


「……」


「誰に言われたわけでもない」


「……」


「失敗しても」


「……」


「また作った」


 弥助が黙る。


「それが」


 俺は言った。


「欲しいです」


「欲しい?」


「はい」


「清吉を?」


「人さらいみたいに言わないでください!」


 小野寺が。


 とうとう吹き出した。


「小野寺!」


「申し訳ございません」


「絶対に思っていません!」


 弥助も。


 少し。


 口元を緩めた。


 よかった。


 少しだけ。


 怖くなくなった。


「清吉を」


 俺は言い直す。


「奪うのではありません」


「……」


「もっと学べるようにしたい」


「……」


「計算」


「……」


「図」


「……」


「できれば」


 少し迷う。


「蘭学も」


 弥助は。


 本当に。


 困った顔をした。


「若君様」


「はい」


「それは」


「……」


「あいつを」


 一度。


 言葉を切る。


「侍にするということでしょうか」


 俺は。


 すぐには答えなかった。


「違います」


「では」


「清吉は」


 俺は言う。


「清吉のままです」


 弥助が俺を見る。


「鍛冶屋の息子でもいい」


「……」


「町人でもいい」


「……」


「ただ」


 一度。


 息を吸う。


「できることを増やしたいのです」


 弥助は。


 しばらく何も言わなかった。


「若君様」


「はい」


「それで」


「はい」


「清吉は」


 少し。


 苦笑した。


「飯が食えますか」


 胸に刺さった。


 本当に。


 まっすぐ。


 刺さった。


 才能。


 教育。


 未来。


 大きな言葉は。


 簡単に言える。


 でも。


 父親が聞くのは。


 息子が。


 飯を食えるか。


 それだけ。


「……今は」


 俺は言った。


「約束できません」


 弥助の顔が変わる。


「すみません」


「……」


「でも」


 俺は続けた。


「私が」


 一度。


 少し迷い。


 それでも言った。


「食える役目を作りたいと思っています」


 小野寺が。


 俺を見る。


「若君」


「何です」


「また大きなことを」


「分かっています!」


「では」


「でも言わせてください!」


 俺は。


 弥助を見る。


「今すぐ」


「……」


「全部は変えられません」


「……」


「清吉だけ特別にして」


「……」


「明日から大金を払うことも」


「……」


「できません」


「……」


「でも」


 俺は言った。


「学んだ者が」


「……」


「その知識で」


「……」


「ちゃんと仕事をして」


「……」


「ちゃんと飯を食えるようにしたい」


 弥助は。


 何も言わなかった。


「だから」


 俺は。


 少し苦く笑った。


「まず」


「……」


「清吉一人から」


 言った。


「始めさせてください」


     ◇


 弥助は。


 すぐには答えなかった。


 当然だ。


 息子の未来だ。


 五歳児の話を。


 簡単に信じろという方が。


 無茶だ。


「一つ」


 弥助が言った。


「はい」


「聞いても」


「どうぞ」


「若君様は」


「はい」


「清吉を」


 一度。


 俺を見る。


「何にしたいのです」


 俺は。


 考えた。


 技師。


 技術者。


 発明家。


 設計者。


 でも。


 この時代には。


 まだ。


 ぴたりとくる言葉がない。


「分かりません」


 答えた。


「分からない?」


「はい」


「……」


「だから」


 俺は少し笑う。


「清吉本人にも聞きます」


 小野寺が。


 ほんの少し。


 目を細めた。


「何です」


「いえ」


「言ってください」


「若君」


「はい」


「少しは」


「はい」


「勝手に決めなくなりましたね」


「褒めています?」


「半分」


「また半分!」


 弥助が。


 とうとう笑った。


 大きな男が。


 少し。


 困ったように。


「若君様」


「はい」


「三日に一度なら」


「……」


「清吉を」


 俺は。


 息を止めた。


「学びに?」


「はい」


「本当に?」


「ただし」


 来た。


 でも。


 もう怖くない。


「何です」


「仕事を」


「はい」


「放り出したら」


「はい」


「俺が連れ戻します」


「分かりました!」


「それと」


「まだ?」


「はい」


「変なことを覚えて」


「……」


「父親を馬鹿にし始めたら」


「……」


「俺がぶん殴ります」


「それは少し考えましょう!」


 弥助が。


 初めて。


 大きな声で笑った。


     ◇


 問題は。


 その後だった。


 清吉本人は。


「学びたいです!」


 と。


 即答した。


 玄庵先生も。


「面白そうですな」


 と。


 笑った。


 俺も。


 できると思った。


 だが。


 役人は言った。


「若君」


「はい」


「教える場所がございません」


「……」


「紙も」


「……」


「書物も」


「……」


「玄庵殿の時間も」


「……」


「そして」


「まだあります?」


「はい」


「身分の違う者を」


「……」


「屋敷の中で」


「……」


「特別に学ばせることについて」


「……」


「反対する者が」


 俺は。


 目を閉じた。


 まただ。


 何か一つ。


 進む。


 すると。


 三つくらい。


 問題が出る。


「若君」


 小野寺が言った。


「何です」


「諦めます?」


「嫌です」


「でしょうね」


「何です、その言い方!」


「予想通りでしたので」


 俺は。


 少し考えた。


 場所。


 金。


 身分。


 反対。


 俺には。


 権力がない。


 五歳だ。


 金もない。


 自由もない。


 でも。


 一つだけ。


 ある。


 非常に。


 使いにくくて。


 すぐ怒って。


 頑固で。


 声が大きくて。


 異国が嫌いで。


 英語も嫌いで。


 でも。


 藩主として。


 力を持っている人間が。


「……なるほど」


 俺は呟いた。


 小野寺が。


 嫌そうな顔をした。


「何です」


「いえ」


「言ってください」


「若君」


「はい」


「今」


「はい」


「ものすごく悪い顔をしました」


「失礼ですね!」


「何か思いつきました?」


「はい」


「帰ります」


「待ってください!」


「嫌な予感しかしません」


「大丈夫です」


「その言葉が一番危険です」


「一緒に来てください」


「どこへ」


 俺は。


 立ち上がる。


「父上のところです」


 小野寺が。


 深いため息をついた。


「若君」


「何です」


「何をなさるおつもりです」


 俺は答えた。


「父上を利用します」


 小野寺が。


 完全に黙った。


「何です」


「いえ」


「言ってください」


「若君」


「はい」


「それは」


 少しだけ。


 遠い目をした。


「本人の前では言わない方がよろしいかと」


「分かっています!」


「本当に?」


「もちろん!」


 だが。


 その三十分後。


 俺は。


 父の前で。


 堂々と言っていた。


「父上」


「なんだ」


「利用させてください」


 父の顔が。


 固まった。


 小野寺が。


 ゆっくり。


 目を閉じた。


「若君」


「何です」


「私は」


「はい」


「言いました」


「何を」


「本人の前では言うなと」


「でも隠し事はするなと父上が!」


「使い方が違います!」


「七郎麻呂」


 父の声が。


 低い。


 ものすごく。


 低い。


「はい」


「今」


「はい」


「わしを」


「はい」


「利用すると申したか」


「はい」


「表へ出ろ」


「なぜです!」


「よいから出ろ!」


「話を聞いてください!」


「利用される側が、なぜ聞かねばならん!」


「父上!」


「七郎麻呂!」


 また。


 屋敷に。


 親子の怒鳴り声が響いた。


     ◇


 結局。


 俺は。


 逃げずに。


 話した。


「清吉に学ばせたいのです」


「聞いた」


「場所がありません」


「うむ」


「反対する者もいます」


「そうだろうな」


「紙も」


「金がかかる」


「はい」


「書物も」


「金がかかる」


「はい」


「玄庵先生の時間も」


「金がかかる」


「父上」


「なんだ」


「何でも金と言うのをやめてください」


「事実だ!」


「知っています!」


「なら言わせろ!」


 また喧嘩になりかけた。


 だが。


 俺は。


 止まった。


「父上」


「なんだ」


「清吉一人なら」


「うむ」


「大したことではないと思っています?」


 父は。


 少し黙る。


「正直に申せば」


「はい」


「小さい」


 やっぱり。


「ですが」


 俺は言う。


「その一人が」


「……」


「十年後」


「……」


「誰も作れなかったものを」


「……」


「作るかもしれません」


 父は何も言わない。


「二十年後」


「……」


「大砲を」


「……」


「船を」


「……」


「新しい道具を」


「……」


「作るかもしれない」


「かもしれぬ、ばかりだな」


「はい」


「確かなものは?」


「ありません」


 答えた。


「でも」


 俺は続ける。


「学ばせなければ」


「……」


「その可能性は」


 一度。


 息を吸う。


「最初からありません」


 父が。


 俺を見る。


「七郎麻呂」


「はい」


「それで」


「はい」


「わしをどう利用する」


 嫌な笑い方をしている。


 怖い。


 でも。


 言うしかない。


「父上が」


「うむ」


「お命じください」


「何を」


「清吉に」


「……」


「学ばせろと」


 父は。


 しばらく。


 何も言わなかった。


「つまり」


「はい」


「お前が言っても反対されるから」


「はい」


「わしに言わせる」


「そうです」


「それを」


「はい」


「利用すると」


「そうです」


「七郎麻呂」


「はい」


「お前」


 父は言った。


「随分、正直になったな」


「父上が隠すなと!」


「ここまで正直にするな!」


「どうすればいいのです!」


 小野寺が。


 とうとう。


 吹き出した。


「小野寺!」


「申し訳ございません」


「絶対に思っていません!」


 父も。


 少しだけ笑った。


 ほんの少し。


「では」


 父が言う。


「条件がある」


「何です」


「一人だ」


「……」


「まずは清吉一人」


「はい」


「それで」


「……」


「本当に何か変わるのか」


「……」


「わしに見せろ」


 俺は。


 父を見る。


「できますか」


 聞いた。


 父が眉を寄せる。


「お前が言い出したのであろう!」


「でも」


「なんだ」


「成果が出るまで」


「……」


「何年かかるか」


「……」


「分かりません」


「七郎麻呂!」


「嘘は言えません!」


 父が。


 大きく息を吐いた。


 それから。


「よい」


 と言った。


「え?」


「清吉一人」


「はい」


「玄庵に学ばせろ」


「本当に?」


「二度言わせるな」


 俺は。


 嬉しかった。


 本当に。


 ものすごく。


 嬉しかった。


「父上!」


「なんだ」


「ありがとうございます!」


「近い!」


 思わず。


 父の膝へ。


 身を乗り出していた。


 父が俺の額を押す。


「近い! 離れろ!」


「でも!」


「分かったから!」


「本当にありがとうございます!」


「分かった!」


 小野寺が。


 こちらを見ている。


「何です」


「いえ」


「笑っています?」


「少し」


「なぜ!」


「若君」


「はい」


「殿を利用するおつもりが」


「はい」


「最後は普通に喜んでおります」


「いいでしょう!」


 父が。


 鼻を鳴らした。


「七郎麻呂」


「はい」


「覚えておけ」


「何を」


「人を利用するなら」


「……」


「利用される側にも」


 一度。


 俺を見る。


「得があるようにしろ」


 俺は。


 少し黙った。


「父上の得は?」


「清吉が本当に使える人間になれば」


「はい」


「水戸の得になる」


 俺は。


 笑った。


「では」


「なんだ」


「私は父上を利用して」


「うむ」


「父上は私を利用する」


「そうだ」


「お互い様?」


「そういうことだ」


 なるほど。


 政治らしい。


 綺麗ではない。


 でも。


 嫌いではない。


「父上」


「なんだ」


「少しだけ」


「何だ」


「格好いいですね」


「少しだけとは何だ!」


「褒めたのに!」


「褒め方が悪い!」


 また。


 喧嘩になった。


 でも。


 その日の夕方。


 父の名で。


 一つの命が出た。


 鍛冶職人の息子。


 清吉。


 十四歳。


 身分。


 町人。


 その少年に。


 週に数度。


 算術。


 図法。


 蘭学の初歩を。


 学ばせること。


 たった。


 一人。


 たった。


 一つ。


 小さすぎる。


 歴史書には。


 きっと。


 書かれない。


 でも。


 俺は。


 その紙を見ながら。


 ずっと。


 笑っていた。


「若君」


 小野寺が言った。


「何です」


「嬉しそうですね」


「そうですか」


「かなり」


「顔に?」


「出ております」


「もう隠すのは諦めました」


「賢明です」


「小野寺」


「はい」


「あなたも学びます?」


「何を」


「蘭学」


「嫌です」


「算術は?」


「できます」


「測量」


「嫌です」


「大砲」


「もっと嫌です」


「船」


「酔います」


「では帳面」


「帰ります」


「なぜ!」


「それ以上、得意な仕事を増やしたくありません」


「現実的すぎませんか!」


 俺は笑った。


 小野寺も。


 少しだけ。


 笑った。


     ◇


 その夜。


 俺は帳面に書いた。


 **父上を利用した。**


 少し考える。


 その下に。


 **ただし、父上にも利用された。**


 さらに。


 **人を利用するなら、相手にも得を返せ。**


 そして。


 最後に。


 **権力は、自分が威張るためではなく、自分一人では開けられない扉を開くために使え。**


「ほう」


 背後から声。


「父上」


「今日は驚かんな」


「分かっていました」


「つまらん」


「まだ言いますか!」


 父が。


 帳面を覗く。


「権力は、扉を開くために使え、か」


「はい」


「では」


「何です」


「わしは今日」


「はい」


「お前のために扉を開けたのだな」


「清吉のためです」


「……」


「父上?」


「七郎麻呂」


「はい」


「少しは」


「何です」


「父親に感謝してもよいのではないか」


 俺は。


 父を見る。


 もしかして。


 この人。


 少し。


 拗ねている?


「父上」


「なんだ」


「ありがとうございます」


「うむ」


「本当に」


「……うむ」


「嬉しいです」


「もうよい」


「照れています?」


「違う!」


「本当に?」


「違う!」


「二回言いましたね」


「七郎麻呂!」


「はい!」


 また。


 怒鳴られた。


 でも。


 その夜。


 父が部屋を出る時。


 俺は。


 少しだけ。


 その背中が。


 嬉しそうに見えた。


 気のせいかもしれない。


 いや。


 多分。


 気のせいではない。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 水戸の片隅で。


 最初の一人が。


 身分を越えて。


 学び始めることになった。


 一人だけ。


 まだ。


 一人だけ。


 でも。


 一人ができれば。


 二人目を作れる。


 二人目ができれば。


 三人目も。


 そして。


 俺は。


 この時。


 初めて考えた。


 清吉一人ではなく。


 もっと。


 色々な身分の子供が。


 同じように。


 学べる場所を。


 小さくてもいい。


 粗末でもいい。


 最初は。


 たった数人でも。


 いい。


 学校を。


 作れないだろうか。


 もちろん。


 その翌朝。


 俺は父に言った。


「父上」


「なんだ」


「学校を作りたいです」


「嫌だ」


「早い!」


「金がない!」


「まだ何も説明していません!」


「お前の顔で分かる!」


「またそれ!」


 屋敷に。


 朝から。


 親子の怒鳴り声が響いた。


 どうやら。


 最初の学校を作るまでには。


 もう少し。


 父上を利用する必要がありそうだった。


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