第28話 身分が低いから駄目です
「父上」
「なんだ」
「水戸には、どんな人がいます?」
「人?」
「はい」
「たくさんおる」
「それは前にも聞きました!」
まったく。
この人は。
以前。
水戸藩の人口を聞いた時も。
『たくさんだ』
で済ませようとした。
成長していない。
いや。
俺が言うことでもないか。
「では聞き方を変えます」
「最初からそうしろ」
「父上に言われると腹が立ちます」
「なぜだ!」
「分かりません!」
「理不尽だ!」
朝から。
いつもの親子喧嘩である。
部屋の隅では。
小野寺新吾が帳面を読んでいる。
もう驚かない。
最近。
こいつは。
『帰ります』
と言いながら。
かなりの頻度でいる。
「小野寺」
「はい」
「あなた」
「はい」
「最近よくいますね」
「帰ります」
「待ってください!」
「だから言わない方がよかったのです」
「自分で来たのに!」
「昨日の帳面に、どうしても気になる箇所がありまして」
「やっぱり好きなのでは?」
「何がです」
「帳面が」
「若君にだけは言われたくありません」
「私は好きなのではなく必要だから!」
「同じことを昨日も聞きました」
「七郎麻呂」
父が不機嫌そうに言った。
「わしの話はどうなった」
「父上が『たくさん』で終わらせたのでしょう!」
「何の話だった」
「もう忘れたのですか!」
「覚えておる!」
「では?」
「人だ!」
「大雑把!」
小野寺が。
少しだけ。
笑った。
俺は睨んだ。
「何です」
「いえ」
「今、絶対に」
「本題を」
「あなたに言われると腹が立ちます!」
◇
「つまり」
俺は。
父が見せてくれた帳面を指した。
「水戸には」
「うむ」
「田畑があります」
「ある」
「山も」
「ある」
「海も」
「ある」
「木も」
「ある」
「鉄を扱える職人も」
「おる」
「薬草に詳しい者も」
「おるだろう」
「船を造れる者も?」
「漁船ならな」
「計算の得意な者は?」
「おる」
「外国語を学んでいる者は?」
「玄庵がおる」
「他には?」
「知らん」
「そこです!」
俺は。
帳面を叩いた。
父の眉が動く。
「帳面を叩くな」
「あ」
「物を大事にしろ」
「はい。すみません」
素直に手を引っ込める。
すると。
小野寺がこちらを見る。
「何です」
「いえ」
「言ってください」
「今日は素直ですね」
「今日は、とは何です!」
「いつもは」
「言わなくていいです!」
また話が逸れた。
「とにかく」
俺は言った。
「物は数えられる」
「うむ」
「人も数えられる」
「うむ」
「でも」
一度。
言葉を選ぶ。
「その人が何をできるのか」
「……」
「それを」
俺は父を見る。
「私たちは、どれくらい知っています?」
父が黙った。
小野寺も。
帳面から顔を上げる。
「例えば」
続ける。
「今」
「うむ」
「水戸のどこかに」
「……」
「大砲を作る才能がある人がいたとして」
「うむ」
「その人が百姓の子だったら?」
父の顔が。
少し変わった。
「七郎麻呂」
「はい」
「また身分の話か」
「はい」
「面倒だぞ」
「知っています」
「揉める」
「知っています」
「嫌われる」
「もう慣れてきました」
「それはどうなのだ」
「私も思いました」
父が。
少し笑った。
「それで」
俺は続ける。
「才能があるのに」
「……」
「身分が低いから」
「……」
「学べない」
「……」
「役目にも就けない」
「……」
「それでいいのですか」
父は。
すぐには答えなかった。
「良い悪いではない」
「では?」
「世の中は」
父が言う。
「そういうものだ」
俺は。
少しだけ。
腹が立った。
「その答え」
「なんだ」
「嫌いです」
「そうか」
「怒らないのです?」
「お前が嫌いでも」
父は茶を飲む。
「世の中は変わらん」
痛い。
だが。
正しい。
嫌いと言うだけでは。
何も変わらない。
「では」
俺は言った。
「変えます」
父がむせた。
「ごほっ!」
「父上?」
「お前は!」
「はい」
「なぜすぐそうなる!」
「嫌だからです!」
「子供か!」
「五歳です!」
「都合のよい時だけ!」
「もう皆それを言います!」
小野寺が。
顔を伏せた。
「笑っています?」
「咳です」
「この屋敷は咳の人が多すぎます!」
◇
その日の午後。
一人の少年が連れてこられた。
名前は。
清吉。
十四歳。
町の鍛冶職人の息子だった。
俺が。
何かを作れる若者はいないか。
計算や図に強い者はいないか。
そう聞いたところ。
佐久間が。
「一人、妙な少年なら」
と言ったのだ。
妙な。
という言葉が気になった。
だから呼んだ。
そして。
清吉は。
俺の前で。
完全に固まっていた。
「……」
「……」
俺も見る。
清吉も。
俺を見る。
「清吉」
「……」
「清吉?」
「……」
「聞こえています?」
「は、はいっ!」
声が裏返った。
俺は少し笑った。
「そんなに緊張しなくていいです」
「無理です!」
「なぜ」
「若君様ですよ!」
「はい」
「殿様の!」
「息子です」
「無理です!」
「何が!」
「全部です!」
なるほど。
この子も。
かなり正直だ。
「座ってください」
「ここに?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「後で斬られません?」
「斬られません!」
俺は父を見る。
「父上」
「なんだ」
「斬りませんよね」
「なぜわしに聞く」
「念のため」
「斬らん!」
「ほら」
清吉を見る。
清吉の顔は。
まったく安心していなかった。
「若君」
小野寺が言った。
「何です」
「殿ご本人に『斬りませんよね』と確認したので」
「はい」
「余計に怖くなったのでは」
「……」
清吉が。
小さく頷いた。
「そうなのですか!」
「す、すみません!」
「謝らなくていいです!」
父が。
大きく息を吐いた。
◇
「これを作ったのは?」
俺は。
一枚の木板を見せた。
そこには。
簡単な歯車のようなものと。
滑車。
棒。
寸法らしき数字。
かなり粗い。
でも。
面白い。
「俺です」
清吉が答える。
少しずつ。
緊張が解けてきたらしい。
「何のために」
「父ちゃんが」
「はい」
「重い鉄を運ぶ時」
「……」
「腰をやるんで」
俺は。
以前。
帳面を運んで腰を痛めた文蔵を思い出した。
「それで?」
「少ない人数で」
「はい」
「持ち上げられないかなって」
「作った?」
「作ったってほどじゃ」
清吉が。
頭を掻く。
「まだ上手く動かないし」
「なぜ」
「縄が切れたり」
「……」
「軸が曲がったり」
「……」
「父ちゃんには」
少し笑う。
「仕事の邪魔するなって怒られます」
「それでも?」
「やめられなくて」
「なぜ」
清吉は。
少し考えた。
「気になるからです」
その答えに。
俺は。
小野寺を見た。
小野寺も。
俺を見る。
「何です」
「いえ」
「言ってください」
「似た人がいましたね」
「誰です」
「間違った足し算が気持ち悪くて帰らない人です」
「私は帰っています」
「でもまた来る」
「それは」
「ほら」
「若君」
「何です」
「面倒です」
「清吉の話をしましょう!」
清吉が。
俺たちを見て。
ぽかんとしている。
「若君様」
「はい」
「その人」
「小野寺です」
「家臣ですか?」
「違います」
小野寺が即答した。
「まだ違います」
俺も言う。
「まだ?」
清吉が聞き返す。
「まだ、です」
「若君」
「何です」
「勝手に未来を決めないでください」
「未来は得意なので」
「便利な夢ですね」
「先に言われた!」
父が。
とうとう。
声を上げて笑った。
◇
「清吉」
「はい」
「字は読めます?」
「少し」
「計算は?」
「商いの勘定くらいなら」
「もっと学びたいです?」
清吉が。
俺を見た。
「俺が?」
「はい」
「でも」
「何です」
「俺」
一度。
父を見る。
小野寺を見る。
そして。
自分の粗末な着物を見る。
「侍じゃないですよ」
「知っています」
「町人です」
「はい」
「鍛冶屋のせがれです」
「それも」
「なら」
清吉は。
本気で分からないという顔をした。
「なんで?」
その一言が。
胸に刺さった。
なぜ。
学んではいけない。
なぜ。
身分で。
最初から。
可能性を閉じる。
「父上」
「なんだ」
「学ばせたいです」
「誰に」
「清吉に」
「何を」
「算術」
「……」
「図の描き方」
「……」
「できれば蘭学も」
「待て」
「はい」
「誰が教える」
「玄庵先生」
「勝手に決めるな」
「では聞きます!」
「金は」
「……」
来た。
嫌な話。
「少しなら」
「どこから」
「父上」
「嫌だ」
「まだ何も!」
「わしを見た!」
「見ただけです!」
「金の時はいつもその顔だ!」
「どんな顔です!」
「もらう気の顔だ!」
「そんな顔がありますか!」
「ある!」
小野寺が。
ぼそりと。
「ありますね」
「小野寺!」
「事実です」
「味方してください!」
「私はまだ家臣では」
「もう聞き飽きました!」
清吉が。
とうとう。
吹き出した。
すぐ。
口を押さえる。
「あっ」
「笑いましたね」
「す、すみません!」
「謝らなくていいです」
「でも」
「ここでは」
俺は。
小野寺を見る。
佐久間を見る。
父を見る。
「皆、私を笑います」
「若君が面白いので」
小野寺。
「お前が妙なことをするからだ」
父。
「私は何も申し上げておりませぬ」
右頬だけ動く佐久間。
「ほら!」
清吉は。
もう一度笑った。
今度は。
少し。
自然に。
◇
だが。
問題は。
その翌日に起きた。
「駄目です」
役人は言った。
はっきりと。
「なぜ」
俺は聞く。
「清吉は町人の子です」
「知っています」
「ならば」
「だから何です」
「若君」
役人は困った顔をした。
「蘭学を」
「はい」
「算術を」
「はい」
「武士と同じ場で?」
「駄目ですか」
「駄目です」
「なぜ」
「身分が」
「低いから?」
「……はい」
俺は。
黙った。
腹が立つ。
だが。
すぐ怒鳴るな。
相手にも理由がある。
俺は。
最近。
少しだけ学んだ。
「何が困ります?」
聞く。
役人が。
少し驚いた顔をした。
「何が?」
「清吉を学ばせると」
「……」
「誰が困ります?」
「それは」
「武士が?」
「はい」
「なぜ」
「町人と同じ扱いを受けたと」
「……」
「不満を持つ者が」
「なるほど」
分かる。
納得はしない。
でも。
分かる。
「では」
俺は言った。
「別の場所で」
「はい?」
「清吉だけ」
「……」
「学ばせます」
役人が黙った。
「それなら?」
「しかし」
「何です」
「前例が」
「ありません?」
「はい」
「では作ります」
役人が。
ものすごく嫌そうな顔をした。
「若君」
「はい」
「そのお言葉」
「何です」
「最近、役人たちの間で」
「……」
「一番恐れられております」
「なぜです!」
「仕事が増えるので」
俺は。
何も言えなくなった。
その後ろで。
小野寺が。
肩を震わせていた。
「小野寺」
「はい」
「笑っていますね」
「少し」
「正直ですね!」
「若君に習いました」
「便利に使わないでください!」
◇
その日の夜。
俺は帳面に書いた。
**身分が低いから駄目。**
少し考えて。
その下に。
**それで失う才能が、どれだけある。**
さらに。
**ただし、身分を無視すればよいわけではない。人は、自分の誇りや立場を簡単には捨てない。**
そして。
最後に。
**ならば、最初は一人でいい。**
一人。
清吉。
鍛冶職人の息子。
粗い図を描く。
滑車を考える。
もっと学びたい。
それだけ。
でも。
その一人を。
『町人だから』
で捨てるのは。
嫌だった。
「父上」
俺は。
背後を見ずに言った。
「なんだ」
やっぱりいた。
「今日は驚きません」
「つまらんな」
「そればかりですね!」
父が。
俺の隣に座る。
「清吉を学ばせるのか」
「はい」
「反対されるぞ」
「されました」
「嫌われるぞ」
「もう少し嫌われています」
「増やすな」
「努力します」
「努力?」
「人間なので!」
「最初から逃げ道を作るな!」
俺は少し笑った。
「父上」
「なんだ」
「才能は」
「うむ」
「身分を見て生まれます?」
父は。
少しだけ。
黙った。
「知らん」
「では」
「だが」
「はい」
「世の中は身分を見る」
「……」
「それも忘れるな」
俺は頷いた。
「はい」
変える。
でも。
現実を無視しない。
正しいことだけで。
人を傷つけない。
一人ずつ。
一冊ずつ。
少しずつ。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
水戸の片隅で。
一人の町人の少年が。
初めて。
身分の外側へ。
ほんの少しだけ。
足を踏み出そうとしていた。
俺は。
まだ知らなかった。
この小さな一歩が。
やがて。
武士だけではない。
百姓。
町人。
職人。
身分を越えて学ぶ。
最初の小さな学び舎へ。
つながることを。
そして。
その学び舎を作るために。
父上が。
「金は出さん!」
と。
また。
大声で怒鳴ることになるのを。
……まあ。
それは。
だいたい予想していた。




