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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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28/31

第27話 父上、これ、かなり苦しくありません?

「父上」


「なんだ」


「これ」


「うむ」


「……かなり苦しくありません?」


 父――徳川斉昭の顔が。


 怖くなった。


 本当に。


 分かりやすく。


 怖くなった。


「七郎麻呂」


「はい」


「表へ出ろ」


「なぜです!」


「よいから出ろ!」


「嫌です!」


「なぜだ!」


「絶対に怒っているでしょう!」


「怒っておらん!」


「怒っている人は皆そう言います!」


「わしは怒っておらん!」


「声が大きい!」


「元からだ!」


 それは。


 否定できない。


 父は。


 元から声が大きい。


 怒っていなくても怒っているように見えるし。


 怒ると。


 もっと怒って見える。


 非常に分かりにくい。


 いや。


 分かりやすいのか。


「若君」


 隣に座っていた小野寺新吾が。


 小声で言った。


「何です」


「今のは」


「はい」


「言い方が悪かったかと」


「どこがです」


「『かなり苦しくありません?』のあたりです」


「そこ全部ではありませんか!」


「はい」


「では、何と言えばよかったのです」


「例えば」


 小野寺は。


 少し考えた。


「非常に堅実なご運営でございますが、今後のさらなる発展のために、少々見直しの余地が」


「長いです!」


「では」


「はい」


「金がありませんね」


「私より悪い!」


「分かりやすさを優先しました」


「優先しなくていいところです!」


「二人とも!」


 父が怒鳴った。


 俺と小野寺が黙る。


「わしの前で!」


「はい」


「わしの金の話を!」


「はい」


「勝手に進めるな!」


「父上」


「なんだ!」


「藩のお金です」


 一瞬。


 静かになった。


 小野寺が。


 そっと顔を逸らした。


「小野寺」


「はい」


「また逃げようとしましたね」


「巻き込まれたくないので」


「もう遅いです!」


「七郎麻呂」


 父の声が。


 さらに低くなる。


「はい」


「藩の金だと?」


「はい」


「では」


「はい」


「誰の責任だ」


「父上です」


 言った。


 小野寺が目を閉じた。


 佐久間は。


 今度こそ。


 一歩。


 後ろへ下がった。


「佐久間殿!」


「はっ」


「なぜ離れるのです!」


「少々」


「何が少々です!」


「若君」


 小野寺が静かに言った。


「今はご自分の心配を」


「あなたも一緒です!」


「違います」


「違いません!」


「七郎麻呂!」


「はい!」


 また怒鳴られた。


 今日は。


 長い一日になりそうだった。


     ◇


 ようやく。


 俺は。


 水戸藩の金に関する帳面の。


 ほんの一部を。


 見せてもらうことになった。


 本当に。


 ほんの一部だ。


 父は最初。


「五歳児に見せられるか!」


 と言った。


 俺は言った。


「では、五歳児に国を救わせないでください!」


 父が言った。


「わしは頼んでおらん!」


 俺は言った。


「でも滅びます!」


 父が怒鳴った。


 俺も怒鳴った。


 結果。


 佐久間が。


「一部だけなら」


 と。


 間に入った。


 多分。


 これ以上。


 親子の喧嘩を聞きたくなかったのだと思う。


「父上」


「なんだ」


「入るお金は」


「うむ」


「米ですか」


「主にはな」


「他には」


「様々だ」


「様々では分かりません」


「細かい!」


「お金の話で細かくなくてどうするのです!」


「お前は五歳だぞ!」


「それが何です!」


「もっとこう」


「何です」


「虫でも追いかけておれ!」


「嫌です!」


「甘い物でも食って!」


「それは食べます!」


「そこは食うのか!」


「別問題です!」


 小野寺が。


 とうとう。


 小さく笑った。


「今、笑いましたね」


「少し」


「正直ですね!」


「若君の周りでは、そうした方がよいらしいので」


「誰が決めたのです!」


「若君では」


「違います!」


 父が。


 額を押さえた。


「話を進めろ」


「はい」


「誰のせいで逸れたと」


「七郎麻呂」


「はい!」


 黙った。


     ◇


 俺は。


 帳面を見る。


 分からない。


 いや。


 数字は分かる。


 だが。


 現代の予算書とは。


 何もかも違う。


 米。


 金。


 物。


 人。


 未納。


 貸し。


 借り。


 年ごとの違い。


 書き方も。


 同じではない。


「小野寺」


「はい」


「分かります?」


「少しは」


「少し?」


「若君よりは」


「なぜ一言多いのです!」


「正直に申せと」


「もう少し優しく正直に!」


 俺は。


 帳面を指す。


「これは?」


「こちらは、入る予定だったもの」


「予定?」


「はい」


「入ったものではなく?」


「違います」


「では、こちらは」


「実際に納められたもの」


「違いますね」


「違います」


「なぜ」


 小野寺が俺を見る。


「予定通りにならないからです」


「……」


「豊作も」


「……」


「凶作も」


「……」


「病も」


「……」


「災害もございます」


「……」


「そして」


 一度。


 言葉を切る。


「人は、払いたくないものは払いたくありません」


 あまりにも。


 人間的だった。


「ごまかす?」


「者もおります」


「隠す?」


「者も」


「役人側が?」


「それも」


「村側も?」


「それも」


「……」


 俺は頭を抱えた。


「父上」


「なんだ」


「国を救う前に」


「うむ」


「帳面を読むだけで十年かかりそうです」


「黒船まで十五年だぞ」


「分かっています!」


「では急げ」


「父上も手伝ってください!」


「わしは忙しい!」


「便利ですね、その言葉!」


 父が鼻を鳴らした。


 でも。


 俺は。


 少しずつ。


 気づき始めていた。


 単純に。


 金がない。


 そうではない。


 入るべきものが。


 予定通り入らない。


 出すべきところは。


 予定より増える。


 しかも。


 金だけではない。


 米も。


 物も。


 人の労働も。


 全部が絡む。


「父上」


「なんだ」


「一つ聞いても?」


「もう十分聞いておる」


「もう一つ」


「申せ」


「この」


 俺は帳面の一箇所を指した。


「借り入れは?」


 父が黙った。


 佐久間も。


 小野寺も。


 少しだけ。


 空気が変わった。


「父上?」


「……」


「聞こえています?」


「聞こえておる」


「では」


「借りた」


「誰から」


「商人だ」


「どれくらい」


「七郎麻呂」


「はい」


「細かい」


「金の話で!」


「分かった!」


 父が。


 ものすごく嫌そうな顔をした。


「それで」


 俺は聞く。


「返すのですか」


「当たり前だ!」


「いつ」


「……」


「父上?」


「返せる時に」


 俺は黙った。


 小野寺も。


 黙った。


「父上」


「なんだ」


「それ」


「うむ」


「返せない人が言う言葉です」


「七郎麻呂!」


「だって!」


 父が立ち上がった。


 俺も。


 反射的に立とうとした。


 だが。


 五歳児の足が。


 畳に引っかかった。


「うわっ」


 前へ倒れそうになる。


 父が。


 片手で俺の襟を掴んだ。


「危ない!」


「父上!」


「何だ!」


「苦しいです!」


「転ぶよりましだ!」


「首が!」


「じっとしておれ!」


「子供の扱いが雑です!」


「お前が勝手に転ぶからだ!」


 小野寺が。


 完全に顔を伏せている。


「小野寺!」


「はい」


「笑っています?」


「いいえ」


「肩が!」


「咳です」


「皆それ!」


 父は俺を座らせる。


 そして。


 何事もなかったように座った。


 だが。


 俺は見た。


 父が。


 一瞬。


 本気で焦った顔をしたのを。


 ……少しだけ。


 嬉しかった。


 もちろん。


 言わない。


 からかわれるから。


     ◇


「父上」


「なんだ」


「真面目に聞きます」


「今までは何だったのだ」


「全部真面目です!」


「なら申せ」


「何に一番お金を使っています?」


 父は黙った。


 俺は待つ。


「色々だ」


「色々では」


「分かっておる!」


 父が。


 帳面を見る。


「藩を動かす」


「はい」


「人を抱える」


「はい」


「江戸にも金がかかる」


「はい」


「備えも」


「はい」


「学問も」


「はい」


「武具も」


「はい」


「そして」


 父が。


 少しだけ嫌そうに。


「見栄もだ」


 俺は。


 一瞬。


 聞き間違えたかと思った。


「見栄?」


「聞こえたであろう」


「はい」


「なら聞き返すな」


「父上が認めると思わなかったので」


「七郎麻呂」


「はい」


「世の中はな」


 父が。


 苦い顔をした。


「正しいことだけでは回らん」


「……」


「藩主が」


「はい」


「みすぼらしい」


「……」


「家臣が食えぬ」


「……」


「城も屋敷も傷んでおる」


「……」


「他家との付き合いもできぬ」


「……」


「それで」


 父が俺を見る。


「人はついてくると思うか」


 俺は黙った。


 金。


 食糧。


 軍備。


 教育。


 必要なもの。


 それだけではない。


 格式。


 体面。


 儀礼。


 贈答。


 付き合い。


 現代の俺なら。


 無駄だ。


 削れ。


 そう言ったかもしれない。


 だが。


 それで。


 政治的信用を失えば。


 別のところで。


 もっと大きな代償を払うこともある。


「では」


 俺は聞いた。


「何を削れます?」


「簡単に聞くな」


「でも削らなければ」


「誰かが困る」


「……」


「どこを削っても」


 父は言った。


「誰かが困る」


 俺は。


 何も言えなかった。


「家臣の禄を減らすか」


「……」


「飯を減らすか」


「……」


「学問をやめるか」


「……」


「武具を減らすか」


「……」


「役人を減らすか」


「……」


「誰かを江戸へ出さぬか」


「……」


「何を削る」


 父が。


 俺を見る。


「言ってみろ」


 答えられない。


 頭では。


 分かる。


 歳出削減。


 優先順位。


 費用対効果。


 だが。


 項目の向こうに。


 人がいる。


 家族がいる。


 面子がある。


 生活がある。


「……難しいです」


「そうだ」


「父上」


「なんだ」


「今」


「何だ」


「少し嬉しそうですね」


「何がだ」


「私が困ったので」


「そんなことはない」


「あります」


「ない」


「あります!」


「ない!」


 小野寺が。


 ぼそりと。


「似ておられますね」


 と言った。


 俺と父が。


 同時に振り向く。


「どこがだ!」


「どこがです!」


 声が。


 完全に重なった。


 小野寺が。


 今度こそ。


 はっきり笑った。


     ◇


「でも」


 俺は。


 帳面を見ながら言った。


「一つだけ分かりました」


 父が聞く。


「何がだ」


「新しいことを始める前に」


「うむ」


「今、何に使っているか知らないと駄目です」


「……」


「そして」


 俺は続ける。


「削る前に」


「……」


「なぜ、それがあるのかを聞く」


 父の目が。


 少し変わる。


「見た目だけで」


「……」


「無駄と決めない」


 小野寺が。


 こちらを見る。


「ですが」


「はい」


「本当に無駄なものもあります」


 即答だった。


 俺は笑った。


「ありますよね」


「ございます」


「小野寺!」


 父が怒鳴る。


「事実でございます」


「お前は誰の味方だ!」


「事実の」


「一番面倒な答え!」


 俺は吹き出した。


 父が俺を見る。


「何がおかしい!」


「いえ」


「申せ!」


「小野寺らしいな、と」


「若君」


「何です」


「私はまだ若君の家臣ではございません」


「まだ言いますか!」


「事実です」


「では」


 俺は言った。


「この帳面を一緒に」


「嫌です」


「まだ全部!」


「嫌です」


「少しだけ!」


「嫌です」


「話だけ!」


「信用できません」


「なぜ!」


「ここ十日ほどで学びました」


「何をです!」


「若君の『少しだけ』は長い」


 佐久間が。


 とうとう。


 声を出して笑った。


「佐久間殿!」


「申し訳ございませぬ」


「絶対に思っていません!」


     ◇


 その日。


 結論は出なかった。


 当然だ。


 水戸藩の財政を。


 五歳児が。


 一日。


 帳面を見て。


 解決できるはずがない。


 むしろ。


 分からないことが増えた。


 米。


 金。


 税。


 借り入れ。


 人件費。


 軍備。


 教育。


 格式。


 付き合い。


 凶作。


 災害。


 未納。


 そして。


 人間の都合。


 全部。


 絡んでいる。


 夜。


 俺は。


 自分の帳面を開いた。


 書く。


 **金がない。**


 少し考える。


 その下に。


 **正確には、使いたい金がない。**


 さらに。


 **どの支出にも、理由がある。**


 筆が止まる。


 もう一行。


 **だが、理由があることと、変えられないことは同じではない。**


 そして。


 最後に。


 **まず、金の流れを知る。人を責めるのは、その後だ。**


「ほう」


 背後から声。


「父上」


「今日は驚かぬな」


「分かっていました」


「つまらん」


「何を期待しているのです!」


 父が帳面を覗く。


「人を責めるのは、その後か」


「はい」


「では」


「何です」


「今まで、わしを責めておったのは何だ」


「……」


「七郎麻呂」


「はい」


「何だ」


「途中経過です」


「便利な言葉を使うな!」


「だって!」


「お前は最初に『かなり苦しくありません?』と言ったではないか!」


「事実でしょう!」


「表へ出ろ!」


「また!」


 俺は逃げた。


 本気で。


 廊下へ。


 父が追ってくる。


「待て!」


「嫌です!」


「待て、七郎麻呂!」


「怒っている人から逃げるのは正しい判断です!」


「反対する人間から逃げるなと教えたであろう!」


「こういう時だけ使わないでください!」


「待て!」


「嫌です!」


 お喜乃が。


 廊下の端で。


 腹を抱えて笑っていた。


「お喜乃!」


「はい!」


「笑っていないで助けてください!」


「どちらを?」


「私を!」


「殿がお気の毒ですので」


「なぜ!」


「息子にお金がないと言われて」


「事実です!」


「七郎麻呂!」


「来た!」


 俺はさらに逃げた。


 五歳の足で。


 全力で。


 そして。


 その夜。


 布団に入ってから。


 俺は思った。


 大砲を作る。


 学校を作る。


 軍を変える。


 人を学ばせる。


 全部。


 金がいる。


 なら。


 増やすしかない。


 使える金を。


 ただし。


 百姓から。


 もっと取る。


 それでは駄目だ。


 今でも。


 十分に。


 背負っている者がいる。


 では。


 どうする。


 商い。


 産業。


 流通。


 新しい稼ぎ。


 無駄の削減。


 金の使い道。


 考えることは。


 いくらでもある。


 だが。


 その前に。


 もっと。


 根本的なことがあった。


 誰が。


 何を。


 どれだけ作っている。


 水戸には。


 何がある。


 米だけか。


 鉄は。


 木は。


 馬は。


 職人は。


 薬草は。


 港は。


 道は。


 人は。


 俺は。


 まだ。


 この国どころか。


 この藩が。


 何を持っているのかすら。


 十分に知らない。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 俺が。


 本当に金を増やしたいなら。


 まず。


 数えなければならない。


 人だけではない。


 田畑も。


 山も。


 海も。


 職人も。


 物も。


 技も。


 全部。


 翌朝。


 俺は。


 父のところへ行った。


「父上」


「なんだ」


「昨日は」


「うむ」


「言い方が悪かったです」


 父が。


 少し驚いた顔をした。


「謝るのか」


「はい」


「珍しいな」


「やっぱりやめます」


「待て!」


「だって!」


「謝ると言ったであろう!」


「最後まで聞いてください!」


「申せ!」


「かなり苦しい、ではなく」


「うむ」


 俺は。


 少し考え。


 言った。


「思ったより、だいぶ大変ですね」


「同じだ!」


「違います!」


「どこが!」


「少し柔らかくしました!」


「全然柔らかくない!」


 結局。


 朝から。


 また喧嘩になった。


 ただ。


 その後。


 父は。


 もう一冊。


 別の帳面を。


 俺の前に置いた。


「父上」


「なんだ」


「これは?」


「見たいのであろう」


「……いいのですか」


「一部だけだ」


「本当に?」


「嫌なら返せ」


「嫌ではありません!」


 俺は。


 思わず。


 帳面を抱えた。


 父は鼻を鳴らす。


「七郎麻呂」


「はい」


「国を変えるなら」


「はい」


「まず」


 父は言った。


「今あるものを見ろ」


 俺は。


 帳面を見た。


 そして。


 少しだけ笑った。


「はい」


 水戸を変える。


 幕府を変える。


 日本を変える。


 そのために。


 まず。


 俺は。


 水戸が何を持っているのか。


 そこから。


 知ることにした。


 大きな改革は。


 やっぱり。


 地味な帳面から始まるらしい。


 ……小野寺に言ったら。


 絶対。


 嫌な顔をするだろうけれど。


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