第25話 私は正しい。でも、それだけでは駄目だった
刀は重かった。
本当に。
想像していたより、ずっと重かった。
「半兵衛殿」
「はい」
「もう下ろしていいですか」
「まだ三息ほどしか経っておりませぬ」
「五歳ですよ!」
「昨日、若君は申されましたな」
「何を?」
「刀一本では軍艦には勝てません、と」
「それとこれとは別でしょう!」
「ならば」
塚原半兵衛は、腕を組んだまま言った。
「まず刀一本の重さくらいは知っておかれた方がよろしいかと」
「だから知りました!」
「本当に?」
「腕が震えています!」
「それは見れば分かります」
「では助けてください!」
「嫌です」
「なぜ!」
「若君ご自身がお望みになったので」
「こんなに重いとは思わなかったのです!」
「世の中には」
半兵衛が真顔で言う。
「やってみなければ分からぬこともございます」
「今、絶対に昨日の仕返しをしていますよね!」
「まさか」
「少し笑っています!」
「気のせいでしょう」
「父上みたいなことを言わないでください!」
少し離れた場所で。
本当にその父が笑っていた。
腹が立つ。
「父上!」
「何だ」
「見ていないで助けてください!」
「自分で持ちたいと言ったのであろう」
「言いましたけれど!」
「なら持て」
「親ですか!」
「親だから見ておる」
「見ているだけではありませんか!」
さらに。
その隣では。
小野寺までいた。
「小野寺!」
「はい」
「あなたも何か言ってください!」
「では」
小野寺は少し考え。
「頑張ってください」
「他人事!」
「他人ですので」
「まだそれを言いますか!」
駄目だ。
味方がいない。
俺は歯を食いしばった。
両手で刀を持つ。
腕が震える。
足も少し震える。
「もう」
俺は言った。
「軍艦に勝てなくていいので下ろしていいですか」
半兵衛が。
とうとう声を出して笑った。
「どうぞ」
「早く言ってください!」
刀を下ろす。
重かった。
心から。
重かった。
昨日。
俺は言った。
刀では軍艦に勝てない。
正しい。
今でも。
そう思っている。
だが。
今日。
実際に持ってみて。
少しだけ。
分かったことがある。
この重さを。
何年も。
何十年も。
腰に差して生きてきた人間がいる。
父から子へ。
祖父から父へ。
家と。
名前と。
誇りと一緒に。
受け継いできた人間がいる。
その者に。
『これからは役に立ちません』
と。
簡単に言えば。
そりゃ。
怒る。
当たり前だ。
◇
「若君」
半兵衛が言った。
「はい」
「重かったですか」
「はい」
「刀が?」
「それも」
「それも?」
俺は。
少し考えた。
「昨日言ったことが」
半兵衛が黙る。
「重かったです」
「……」
「私は」
一度。
言葉を探す。
「間違ったことを言ったとは思っていません」
半兵衛の顔が。
少し険しくなる。
「やはり」
「最後まで聞いてください」
「……」
「刀では」
俺は言った。
「軍艦には勝てません」
「……」
「勇気だけでも」
「……」
「忠義だけでも」
「……」
「大砲の弾は止められない」
半兵衛は何も言わない。
「でも」
俺は。
地面に置かれた刀を見る。
「だからといって」
「……」
「刀を持って生きてきた人に」
「……」
「あなたの人生は古い」
「……」
「もう役に立たない」
「……」
「そう聞こえる言い方をしたのは」
息を吐く。
「私の失敗です」
半兵衛の目が動いた。
「若君」
「はい」
「私に」
「はい」
「謝っておられるのですか」
「……そうです」
父が。
少し離れた場所で。
「珍しいな」
と呟いた。
「父上!」
「何だ」
「今は黙っていてください!」
「父に向かって!」
「今は!」
半兵衛が。
ぶふっと吹き出した。
「笑いましたね」
「少し」
「せっかく真面目な話をしていたのに!」
「申し訳ございません」
「絶対に思っていないでしょう!」
小野寺が。
「若君」
「何です!」
「話を戻されては」
「あなたに言われると腹が立ちます!」
「なぜ」
「分かりません!」
本当に。
俺の周りは。
真面目な話を最後まで真面目にさせてくれない。
だが。
多分。
それで助かっている時もある。
俺は。
半兵衛に向き直った。
「昨日は」
「はい」
「すみませんでした」
頭を下げる。
五歳の俺が。
五十歳ほどの武士に。
「正しいことを言えば」
「……」
「分かってもらえると思っていました」
「……」
「でも」
俺は言った。
「正しいことは」
一度。
少し迷う。
「人を傷つけない言い方まで」
「……」
「教えてはくれません」
半兵衛が。
俺を見る。
「それに気づいたのですか」
「昨日」
「一日で」
「はい」
「早いですな」
「五歳なので」
「都合のよい時だけ」
「もう!」
この屋敷で。
俺にそれを言わない人間はいないのか。
◇
「七郎麻呂」
父が呼んだ。
「はい」
「では」
父が。
俺と半兵衛の前まで来る。
「どうする」
「何をです?」
「武士だ」
「……」
「刀では軍艦に勝てぬ」
「はい」
「だが」
父は半兵衛を見る。
「武士に」
「……」
「もう古いから黙って大砲を撃て、と申すのも違う」
「はい」
「なら」
俺を見る。
「どうする」
難しい。
分からない。
正直。
まだ。
答えはない。
でも。
「武士を」
俺は言った。
「なくすのではありません」
「それは昨日も聞いた」
「はい」
「では何をする」
「役目を増やします」
父の眉が動く。
半兵衛も。
小野寺も。
少しだけこちらを見る。
「刀を使う武士」
「うむ」
「鉄砲を使う武士」
「うむ」
「大砲を学ぶ武士」
「……」
「船を操る武士」
「……」
「外国語を学ぶ武士」
「……」
「地図を作る武士」
「……」
「医術を学ぶ武士」
「……」
「帳面を――」
「また帳面ですか」
小野寺が言った。
「大事です!」
「若君は本当に帳面がお好きですな」
半兵衛まで。
「違います!」
「では嫌い?」
「仕事として必要なのです!」
「好きではない?」
「嫌いではありませんけれど!」
「ほら」
「何がほらです!」
父が。
「続けろ」
と言った。
「はい」
俺は息を整える。
「武士だから」
「……」
「刀だけを使わなければならない」
「……」
「それを変えたいです」
半兵衛が。
静かに聞いている。
「そして」
「まだあるか」
「あります」
俺は続ける。
「侍ではない人にも」
「……」
「できることがあります」
「……」
「鉄砲が上手い農民」
「……」
「計算が得意な町人」
「……」
「船を造る職人」
「……」
「言葉を覚える者」
「……」
「身分が違っても」
俺は言う。
「必要な場所に」
一度。
言葉を選ぶ。
「必要な人を置きたい」
父の顔が。
少し険しくなる。
分かっている。
簡単ではない。
身分制度。
家。
禄。
役職。
誰をどこへ置くかは。
誰が何を失うかでもある。
「若君」
半兵衛が言った。
「はい」
「それでは」
「……」
「武士である意味がなくなるのでは?」
俺は。
すぐには答えなかった。
「分かりません」
正直に言う。
「若君」
父が少し強い声を出す。
「でも」
俺は続けた。
「武士である意味を」
「……」
「刀を持つことだけにしたら」
半兵衛を見る。
「それこそ」
「……」
「刀が役に立たない時代が来たら」
ゆっくり。
「武士そのものが」
言う。
「いらないと言われます」
半兵衛の表情が。
変わった。
父も。
何も言わない。
「私は」
続ける。
「それが嫌です」
「なぜ」
「昨日」
刀を見る。
「少しだけ」
笑う。
「重さを知ったので」
半兵衛の目が。
ほんの少し。
柔らかくなった。
「武士が」
「……」
「国を守る人なら」
「……」
「守り方が変わっても」
「……」
「武士でいていいはずです」
言った。
自分でも。
まだ粗い。
穴だらけの考えだと思う。
でも。
今は。
それしかない。
「刀を捨てろではなく」
「……」
「刀以外も持ってください」
「……」
「それなら」
一度。
息を吸う。
「次の時代にも」
言う。
「一緒に行けます」
◇
半兵衛は。
長い間。
何も言わなかった。
その後。
刀を拾い上げる。
鞘へ戻す。
「若君」
「はい」
「今のお言葉」
「はい」
「すべては納得できませぬ」
「はい」
「私は」
腰に刀を差す。
「やはり刀を誇りに思います」
「はい」
「父も」
「……」
「祖父も」
「……」
「そして」
自分も。
そう言いたいのだと思う。
「それを」
半兵衛は言った。
「時代が古いからと」
「……」
「簡単には手放せませぬ」
「はい」
「ですが」
その言葉。
最近。
俺は。
『ですが』
の後が怖い。
でも。
今は。
少し違った。
「刀以外も持て」
「……」
「それならば」
半兵衛は。
ほんの少しだけ笑う。
「話くらいは聞いてもよい」
俺は。
思わず笑った。
「本当ですか」
「話だけです」
「では大砲を」
「早い!」
「まだ何も!」
「顔に出ております」
「皆それを言う!」
父が笑った。
小野寺も。
少し。
笑っている。
「小野寺」
「はい」
「あなたも大砲に興味は?」
「ございません」
「なぜ!」
「帳面より重そうなので」
「基準がそこですか!」
「腰を痛めたくありません」
「現実的すぎます!」
半兵衛が。
とうとう。
腹を抱えて笑った。
◇
帰る途中。
俺は。
父と並んで歩いた。
今日も。
父の歩幅は。
少しだけ。
俺に合わせている。
「父上」
「なんだ」
「私は正しかったと思います」
「うむ」
「刀では軍艦に勝てない」
「うむ」
「勇気だけでは大砲を止められない」
「うむ」
「身分だけで役目を決めるのも」
一度。
「これからは」
言う。
「変えなければならない」
父は何も言わない。
「でも」
「なんだ」
「正しいだけでは」
俺は言った。
「駄目でした」
父が。
こちらを見る。
「なぜだ」
「人がいるからです」
「……」
「私の正しさの向こうに」
「……」
「その人が生きてきた時間がある」
「……」
「父親がいる」
「……」
「祖父がいる」
「……」
「家がある」
「……」
「恥も」
「……」
「誇りも」
「……」
「全部」
言う。
「私が正しいからといって」
一度。
息を吐いた。
「消えてはくれません」
父は。
しばらく。
何も言わなかった。
「七郎麻呂」
「はい」
「では」
「何です」
「正しくないことを申すのか」
「違います」
「では何だ」
「正しいことを」
俺は答えた。
「人が受け取れる形にします」
父が少し笑う。
「できるか」
「分かりません」
「またか」
「でも」
俺も笑った。
「やります」
「そうか」
「はい」
「なら」
父は言った。
「まず」
「何です」
「もう少し上手く刀を持て」
「なぜです!」
「昨日は笑ったぞ」
「五歳です!」
「都合のよい時だけ!」
「父上まで!」
また。
喧嘩になった。
でも。
昨日とは少し違う。
刀一本では。
軍艦に勝てない。
今でも。
それは正しいと思う。
だが。
正しい言葉を。
正しいまま。
人の胸へ突き刺せば。
それは。
時に。
刀より鋭い。
改革とは。
理屈を言うことではない。
相手を論破することでもない。
勝つことでもない。
その人が。
自分の足で。
次の時代へ歩ける道を。
一緒に探すことだ。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
俺は。
ようやく。
一つ知った。
私は正しい。
でも。
それだけでは。
人はついてこない。
その日の夜。
俺は帳面へ。
こう書いた。
**正論は、武器だ。**
少し考える。
その下に。
**武器なら、振るう相手を間違えるな。**
さらに。
**改革したい相手を、改革の途中で敵にするな。**
そこまで書いた時。
背後から。
「ほう」
「父上」
「今日は驚かぬのか」
「分かっていました」
「つまらんな」
「何を期待しているのです!」
父が帳面を覗く。
「改革したい相手を敵にするな、か」
「はい」
「では」
父は。
少しだけ。
意地悪そうに笑った。
「わしを敵にするなよ」
「それは父上次第です」
「何だと!」
「すぐ怒るでしょう!」
「お前が怒らせるのだ!」
「ほら!」
結局。
その夜も。
屋敷には。
親子の怒鳴り声が響いた。
そして。
数日後。
俺は知ることになる。
武士を。
刀を。
誇りを。
次の時代へ連れていくなら。
ただ。
「新しい役目を与えればいい」
では済まない。
その役目で。
食べていけるのか。
家族を養えるのか。
今までの禄はどうなる。
身分は。
名誉は。
誰が上で。
誰が下か。
人は。
誇りだけでは生きられない。
飯を食う。
家族を養う。
歳を取る。
だから。
次に俺がぶつかるのは。
もっと。
身も蓋もない問題だった。
**武士を新しい時代へ連れていくなら、その給金を誰が払うのか。**
そして。
その答えを探した先に。
俺は。
幕府を救うために。
最も避けて通れないものを見ることになる。
金。
税。
借金。
藩の財政。
つまり。
父上の懐事情である。
……たぶん。
また怒る。
いや。
絶対に怒る。




