第23話 兵士はどこから来る
「七郎麻呂」
「はい」
「今日は何も企んでおらぬな」
「はい」
「本当か」
「本当です」
「嘘だな」
「なぜです!」
「顔に出ておる」
朝。
父――徳川斉昭は、俺の顔を見るなりそう言った。
ひどい。
まだ何もしていない。
今日は本当に。
今のところは。
何もしていない。
「父上」
「なんだ」
「人を疑うのはよくありません」
「お前が言うな」
「なぜです!」
「昨日も『何もない』と言った後で、帳面を三冊持ってきた」
「二冊です!」
「同じだ!」
「一冊違います!」
「細かい!」
「帳面の数を適当にしないでください!」
朝から。
もう喧嘩である。
お喜乃が少し離れたところで笑っていた。
小野寺なら、
『朝からお元気で』
と、ものすごく嫌そうな顔をするだろう。
「それで」
父が茶を飲む。
「今日は何だ」
「何もありません」
「本当か」
「……」
「ほら」
「まだ何もありません!」
「まだ?」
しまった。
父の目が細くなる。
「七郎麻呂」
「はい」
「今、『まだ』と申したな」
「言葉の綾です」
「便利だな」
「夢ほどではありません」
「自分で先に言うな!」
もう駄目だ。
この屋敷では。
俺の逃げ道が日に日に減っていく。
俺はため息をついた。
「では」
父が言う。
「今日はわしについて来い」
「どこへ?」
「見せるものがある」
「何を?」
「来れば分かる」
「父上」
「なんだ」
「そういう言い方をされると、不安になります」
「なぜだ」
「父上だからです」
「どういう意味だ!」
「そのままです!」
結局。
俺は連れていかれた。
◇
そこには。
人がいた。
たくさんの。
男たち。
槍。
刀。
弓。
鉄砲。
訓練場で。
掛け声が響いている。
「おおおっ!」
「前へ!」
「止まれ!」
「構え!」
土煙。
足音。
男たちの荒い息。
俺は。
黙って見た。
歴史書の中では。
兵力。
何千。
何万。
そう書かれる。
だが。
目の前にいるのは。
数字ではない。
一人一人。
顔がある。
汗を流している。
疲れている。
槍を持つ手に豆がある。
隣の男と何か言い合っている者もいる。
失敗して怒鳴られている若者もいる。
「どうだ」
父が聞いた。
「何がです?」
「我が水戸の兵だ」
少し。
誇らしそうだった。
俺は答えなかった。
それを。
父は見逃さなかった。
「何だ」
「いえ」
「申せ」
「言うと怒るので」
「怒らん」
「本当に?」
「努力はする」
「それ、前にも聞きました」
「早く申せ!」
もう少しで怒っている。
俺は。
訓練する男たちを見る。
「何人です」
「何が」
「この人たち」
「今日は」
父が側にいた家臣を見る。
家臣が人数を答える。
俺は頷いた。
「では」
次に聞いた。
「全員、戦になれば行くのですか」
「当然だ」
「どこへ」
「敵が来た場所へ」
「どうやって」
「どうやってとは?」
「歩いて?」
「そうなる場合もある」
「何日かかります」
「場所による」
「食糧は?」
「運ぶ」
「誰が?」
父の顔が。
早くも。
嫌そうになる。
「また始まったな」
「何がです」
「お前の質問だ」
「大事です」
「知っておる」
「では答えてください」
「お前は」
父が俺を見る。
「訓練を褒めるということを知らんのか」
「見事だと思います」
「先に言え!」
「でも質問もあります!」
「褒めてから質問しろ!」
「面倒ですね!」
「お前に言われたくない!」
訓練場の端にいた家臣が。
少しだけ。
こちらを見た。
多分。
父と俺の喧嘩は。
もう珍しくない。
困ったものだ。
「父上」
「なんだ」
「この人たちは」
俺は訓練中の男たちを見る。
「普段、何をしているのです」
「侍だ」
「侍なのは分かっています」
「なら聞くな」
「生活です!」
「せいかつ?」
「毎日、朝から晩まで戦の訓練だけを?」
「いや」
「では」
「役目のある者もおる。家のこともある」
「領地を持つ者も」
「おる」
「では」
俺は。
少しずつ。
言葉を選んだ。
「戦が始まったら」
「うむ」
「その仕事は誰がするのです」
父が黙った。
「田畑を管理する者が兵になれば」
「……」
「誰かが代わる」
「誰が?」
「家族。家臣。村の者」
「その人も兵に取られたら?」
「七郎麻呂」
「はい」
「お前は」
「はい」
「戦をする前から、戦が嫌になってくるようなことばかり申すな」
「実際、面倒ですから」
「戦は気合だ!」
「またそれ!」
父の声が訓練場に響いた。
何人かが。
ちらりとこちらを見る。
俺は恥ずかしくなった。
「父上」
「なんだ!」
「声を少し」
「何だ!」
「もういいです!」
無理だ。
この人に小声を求めるのが間違いだった。
◇
俺たちは。
少し離れた場所へ移った。
木陰。
座る。
俺は。
まだ訓練場を見ていた。
「父上」
「なんだ」
「兵士は、どこから来ます?」
「……」
「この人たちは侍です」
「そうだ」
「では」
俺は言った。
「侍だけで、これからの戦争に勝てます?」
父の顔が変わった。
「何を申したい」
「侍を馬鹿にしているのではありません」
「なら」
「数です」
「数?」
「英国は」
一度。
言葉を切る。
「国として戦います」
「……」
「海軍」
「……」
「陸軍」
「……」
「砲兵」
「……」
「船を造る職人」
「……」
「火薬を作る者」
「……」
「運ぶ者」
「……」
「金を出す者」
「……」
「全部」
俺は言った。
「国の力です」
父は黙る。
「日本は?」
俺は続ける。
「水戸は水戸」
「……」
「薩摩は薩摩」
「……」
「長州は長州」
「……」
「幕府は幕府」
「それが幕藩体制だ」
「はい」
「何が悪い」
「悪いとは言っていません」
「では」
「でも」
俺は父を見る。
「外国が攻めてくる時」
「……」
「相手は水戸だけを見ません」
「……」
「日本全部を見ます」
父の指が。
膝の上で。
ゆっくり動いた。
「父上」
「なんだ」
「もし」
俺は言った。
「異国船が江戸へ来たら」
「うむ」
「水戸は戦います?」
「当然だ」
「薩摩は?」
「知らぬ」
「長州は?」
「知らぬ」
「他の藩は?」
「七郎麻呂」
「はい」
「何が申したい」
声が低い。
俺は。
少し緊張した。
「同じ敵を前にして」
「……」
「誰が戦い」
「……」
「誰が金を出し」
「……」
「誰が船を造り」
「……」
「誰の命令を聞くのか」
俺は言った。
「決まっていますか」
父は。
答えなかった。
それが。
答えだった。
◇
「なら」
父が言った。
「お前はどうしたい」
俺は。
少し驚いた。
以前なら。
まず怒鳴った。
否定した。
五歳児が何を言う。
そう言った。
今は。
聞く。
それが。
少し嬉しかった。
「兵を」
俺は答えた。
「侍だけのものにしたくありません」
父の顔が。
瞬時に変わった。
しまった。
「何だと」
「最後まで!」
「侍を何だと思っておる!」
「だから最後まで聞いてください!」
「武士には武士の役目がある!」
「分かっています!」
「農民に刀を持たせるのか!」
「必要なら!」
「七郎麻呂!」
「はい!」
来た。
やっぱり来た。
でも。
ここは避けられない。
「父上」
「なんだ!」
「今後の戦争は」
俺も声を張る。
「刀の上手い人だけでは勝てません!」
「なら何だ!」
「大砲!」
「……」
「鉄砲!」
「……」
「船!」
「……」
「測量!」
「……」
「医者!」
「……」
「輸送!」
「……」
「帳面!」
「帳面?」
「必要です!」
「そこまで帳面を出すか!」
「兵糧を数えるのに必要でしょう!」
「それはそうだが!」
「ほら!」
「腹が立つ!」
「なぜ!」
また喧嘩だ。
だが。
俺は続けた。
「農民の中に」
「……」
「鉄砲が上手い者がいるかもしれない」
「……」
「町人の中に」
「……」
「大砲の計算ができる者がいるかもしれない」
「……」
「職人の中に」
「……」
「船を造れる者がいる」
「それはおる」
「なら」
俺は言った。
「身分だけで役目を決めて」
「……」
「その力を使わないのは」
少し迷い。
それでも言った。
「もったいないです」
父は黙る。
「もったいない?」
「はい」
「人を」
「はい」
「使えるのに使わぬのが?」
「そうです」
父が。
訓練場を見る。
俺も。
同じ方向を見る。
「七郎麻呂」
「はい」
「侍は」
父の声は。
さっきより静かだった。
「ただ戦うためだけにおるのではない」
「分かっています」
「家を守る」
「はい」
「主君に仕える」
「はい」
「誇りがある」
「はい」
「それを」
父は俺を見る。
「数の足りぬところへ、別の身分を入れればよいという話ではない」
俺は。
すぐには答えなかった。
その通りだ。
現代人の俺から見れば。
能力に応じて。
適材適所。
簡単に言える。
でも。
この時代の武士にとって。
身分は。
仕事だけではない。
生き方だ。
家だ。
父祖だ。
誇りだ。
それを。
『非効率だから変えます』
と言って。
人が納得するわけがない。
「……はい」
俺は言った。
父の眉が動く。
「分かるのか」
「少しは」
「少しか」
「まだ五歳なので」
「都合のよい時だけ使うな!」
「でも」
俺は笑った。
「だから」
「なんだ」
「武士をなくすとは言っていません」
「……」
「武士に」
一度。
言葉を選ぶ。
「新しい役目を増やしたいのです」
父が。
こちらを見る。
「新しい役目?」
「はい」
「何だ」
「大砲を学ぶ武士」
「……」
「測量を学ぶ武士」
「……」
「外国語を学ぶ武士」
「……」
「医術を学ぶ武士」
「……」
「船を動かす武士」
「……」
「帳面を」
「もうよい」
「なぜ!」
「お前は帳面が好きすぎる!」
「大事です!」
「分かった!」
父が。
初めて。
少し笑った。
「父上」
「なんだ」
「笑いましたね」
「笑っておらん」
「口元が」
「気のせいだ」
「便利ですね!」
「お前に言われたくない!」
俺も笑った。
だが。
すぐ。
真面目な顔に戻る。
「そして」
「まだあるのか」
「あります」
「多いな」
「十五年しかありません」
「十五年もある」
「またその話ですか!」
「続けろ!」
「はい」
俺は言った。
「侍ではない人も」
「……」
「必要なら」
「……」
「国を守る側に入れる」
父の顔が。
また険しくなる。
「簡単にはいきません」
「当然だ」
「反対されます」
「当然だ」
「怒る人も」
「おるだろうな」
「それでも」
俺は。
訓練場を見る。
「あの人たちだけに」
「……」
「全部背負わせるのは」
言った。
「違うと思います」
父は。
長い間。
何も言わなかった。
そして。
「七郎麻呂」
「はい」
「お前は」
「はい」
「侍が嫌いなのか」
「違います」
即答した。
「なら」
「むしろ」
俺は答えた。
「死なせたくないのです」
父の目が。
少し動いた。
「勇気があるから」
「……」
「忠義があるから」
「……」
「侍だから」
「……」
「だから死んでこいと」
俺は。
自分でも分かるほど。
声を強くした。
「言いたくありません」
あの日。
父と。
初めて本気で喧嘩した時。
俺は言った。
勝てない戦に。
家臣を送るのかと。
父を傷つけるために。
正しい言葉を使った。
今は。
少し違う。
「生きて」
「……」
「戦って」
「……」
「帰ってきてほしい」
俺は言った。
「だから」
「……」
「刀だけでは駄目なんです」
父は。
何も言わなかった。
訓練場から。
掛け声が聞こえる。
「構え!」
「撃て!」
鉄砲の音。
乾いた破裂音が。
空気を震わせる。
俺の小さな身体が。
少しだけ揺れた。
「怖いか」
父が聞いた。
「音は」
「そうか」
「でも」
「なんだ」
「もっと怖いのは」
俺は。
煙の向こうを見る。
「この人たちが」
一度。
息を吸った。
「何も知らないまま」
言う。
「未来の戦争へ行くことです」
父は。
黙った。
その日。
結論は出なかった。
当然だ。
身分。
軍。
武士の誇り。
五歳児と父親が。
一日話して変えられるほど。
簡単ではない。
帰り道。
父は。
俺の歩幅に合わせて。
少しだけ。
ゆっくり歩いた。
「父上」
「なんだ」
「一つだけ」
「まだあるのか」
「はい」
「申せ」
「これから」
俺は聞いた。
「大砲について、もっと調べてもいいですか」
「好きにしろ」
「本当に?」
「ただし」
「はい」
「わしに隠すな」
俺は。
少し笑った。
「まだ気にしています?」
「当たり前だ!」
「根に持ちますね」
「お前が言うな!」
「では」
俺は言った。
「一緒に調べます?」
「嫌だ」
「なぜ!」
「大砲はよい」
「はい」
「英語は嫌だ」
「まだ言いますか!」
「嫌なものは嫌だ!」
「父上!」
「何だ!」
また。
怒鳴り合った。
でも。
その日の夜。
俺は帳面に。
一つだけ書いた。
**兵士は、どこから来る。**
その下に。
**武士だけでよいのか。**
そして。
少し考え。
もう一行。
**国を守るとは、誰に守らせるかを決めることでもある。**
筆を置く。
だが。
俺はまだ。
気づいていなかった。
次に父とぶつかるのは。
兵士を。
どこから集めるかではない。
もっと。
根深い問題だった。
刀。
誇り。
武士として生きてきた者たちの。
その人生そのもの。
俺が。
「刀一本で軍艦には勝てません」
と言った時。
父ではなく。
別の武士が。
本気で怒ることになる。
そして俺は。
初めて知る。
正しいことを言えば。
人は納得するとは限らない。
むしろ。
正しいからこそ。
その人の人生を。
一番深く。
傷つけることがあるのだと。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
俺が。
武士の誇りというものを。
本当に理解するまで。
まだ。
少し時間が必要だった。




