第22話 父に隠し事はできない
「七郎麻呂」
「はい」
「これは何だ」
「帳面です」
「それは見れば分かる」
「では、なぜ聞いたのです?」
「そういう意味ではない!」
朝から。
父は怒っていた。
いや。
訂正しよう。
父は大体いつも怒っている。
だから。
今日だけ特別というわけではない。
ただ。
今日の父は。
いつもの三割ほど。
余計に怒っていた。
「説明しろ」
「何を?」
「これを!」
父が。
畳の上に置かれた帳面を、ばん、と叩いた。
俺は見る。
昨日。
小野寺と榊原と俺で。
あれこれ言い争い。
腹を空かせ。
一度休憩し。
もう一度言い争い。
最終的に。
どうにか形にした帳面だ。
「ですから」
俺は言った。
「人別帳を、少し使いやすくしたものです」
「なぜわしが知らん」
「……」
来た。
嫌なところを突かれた。
「父上」
「なんだ」
「お忙しいかと」
「忙しい」
「ですから」
「だが聞いておらん」
「小さなことです」
「どこがだ!」
父の声が響く。
障子が少し震えた気がする。
多分、気のせいではない。
「人の数を調べる!」
「はい」
「帳面を直す!」
「はい」
「役人どもを集める!」
「はい」
「小野寺とかいう男まで引っ張り込む!」
「引っ張り込んでいません!」
「では何だ!」
「本人が勝手に帰らないだけです!」
言った瞬間。
横にいた小野寺が。
「若君」
と、低い声で言った。
「何です」
「それは違います」
「どこが?」
「若君が帰らせないのです」
「私は止めているだけです」
「それを帰らせないと申します」
「言葉の違いです」
「意味は同じです」
「細かいですね!」
「若君に言われたくありません」
「二人とも!」
父が怒鳴った。
俺と小野寺が黙る。
そして。
同時に父を見る。
「わしを置いて話を進めるな!」
「父上」
「なんだ!」
「今、少し寂しかったです?」
「違う!」
「本当に?」
「違う!」
「二度言いましたね」
「七郎麻呂!」
「はい!」
怒られた。
小野寺が。
少しだけ横を向いた。
「小野寺」
「はい」
「今、笑いました?」
「いいえ」
「口元が」
「若君」
「何です」
「今は殿のお話を」
「そうでした!」
危ない。
また脱線するところだった。
父は俺たち二人を睨んでいる。
怖い。
本当に怖い。
この人。
俺が息子でなければ。
とっくに庭へ放り出されているのではないだろうか。
「七郎麻呂」
「はい」
「わしは聞いた」
「何を」
「なぜ知らぬのだ」
「ですから、父上はお忙しいので」
「それは理由にならぬ」
「では」
俺は少し考えた。
「……言ったら反対されると思ったからです」
部屋が。
静かになった。
しまった。
正直に言いすぎた。
小野寺が。
ほんの少しだけ。
俺から距離を取った。
「小野寺」
「はい」
「なぜ離れるのです」
「巻き込まれたくありません」
「もう十分巻き込まれています!」
「それでも少しは」
「逃げないでください!」
「七郎麻呂」
父の声が。
低い。
非常に低い。
「はい」
「今」
「はい」
「何と申した」
「……」
「申せ」
「言ったら反対されると思った、と」
「もう一度」
「嫌です」
「申せ!」
「言ったら反対されると思いました!」
言った。
言ってしまった。
父は黙る。
怒鳴ると思った。
だが。
怒鳴らなかった。
その方が怖い。
「若君」
小野寺が小声で言う。
「何です」
「私は帰っても?」
「駄目です」
「なぜ」
「一人にしないでください」
「子供ですか」
「五歳です!」
「都合のよい時だけ」
「あなたまで!」
父の眉が動く。
「楽しそうだな」
「全然楽しくありません!」
「わしを除いて」
「だから寂しいのです?」
「違う!」
やっぱり。
少し寂しいのではないか。
いや。
今はやめよう。
本当に怒られる。
◇
「つまり」
父は言った。
「わしが邪魔だと思ったのだな」
「そこまでは」
「どこまでだ」
「反対するだろう、と」
「同じではないか!」
「違います!」
「何が!」
「邪魔と反対は違います!」
「結果は同じだ!」
「違います!」
「同じだ!」
「父上!」
「なんだ!」
また喧嘩になった。
小野寺は。
もう完全に諦めた顔で座っている。
「小野寺」
「はい」
「助けてください」
「嫌です」
「早い!」
「親子喧嘩に入るほど命知らずではございません」
「あなた、私の部下でしょう!」
「違います」
「まだ?」
「最初から一度もなっておりません」
「そろそろなってください!」
「嫌です」
「今それを話している場合か!」
また父に怒鳴られた。
本当に。
今日は忙しい。
「七郎麻呂」
「はい」
「なぜ、わしが反対すると思った」
「……」
「申せ」
俺は。
少し迷った。
そして。
帳面を見る。
「父上は」
「うむ」
「大きなことには興味を持ちます」
「……」
「異国」
「うむ」
「大砲」
「うむ」
「船」
「うむ」
「攘夷」
「当然だ」
「でも」
「なんだ」
「帳面を一冊直すようなことは」
俺は言葉を選ぶ。
「小さいと」
「……」
「そんなことをしている暇があるのかと」
「……」
「そう言うと思いました」
父は。
何も言わない。
「それで」
俺は続けた。
「先にやりました」
「わしに黙って」
「はい」
「勝手に」
「……はい」
「小野寺」
「なぜ私に」
「お前も知っておったな」
小野寺が。
ほんの少し。
嫌そうな顔をした。
「殿」
「なんだ」
「私は、何度も帰ろうと」
「そこは聞いておらん」
「では」
「知っておったか」
「……はい」
「止めなかったか」
「止めました」
俺は小野寺を見る。
「止めました?」
「何度も」
「いつ!」
「『若君、あなたは面倒です』と」
「それは止めるではなく悪口です!」
「違います」
「どこが!」
「忠告です」
「私はあなたの主君でもないのに!」
「ですから帰りたいと」
「二人とも!」
父が。
また怒鳴る。
俺と小野寺。
二人で黙る。
「お前たちは」
父が頭を抱えた。
「なぜ、一つの話を最後までできんのだ」
俺は。
小野寺を見る。
小野寺も俺を見る。
「若君のせいです」
「あなたもでしょう!」
「今!」
父がまた怒鳴った。
「はい!」
黙る。
今日。
何度目だろう。
◇
「七郎麻呂」
「はい」
「一つ聞く」
「何です」
「その帳面」
「はい」
「前より使いやすくなったのか」
俺は。
少し意外に思った。
「はい」
「本当か」
「榊原殿は、そう言っています」
「小野寺は」
「以前よりはましです」
「なぜそんなに素直に褒められないのです!」
「若君」
「何です」
「殿のお話を」
「そうでした!」
父が深く息を吐く。
「では」
続けた。
「誰が困った」
「え?」
「その帳面を直して」
「……」
俺は考える。
「最初は」
「うむ」
「榊原殿が少し」
「なぜ」
「仕事が増えると思ったので」
「うむ」
「小野寺も」
「なぜ」
「帰りたかったからです」
「それは今もです」
「黙ってください!」
「事実です」
「小野寺!」
「二人とも黙れ!」
「はい!」
また怒られた。
「続けろ」
「はい」
「結果は」
「少し」
俺は言った。
「楽になりました」
「少し?」
「はい」
「それだけか」
「それだけです」
父が。
鼻を鳴らした。
「なるほどな」
俺の胸に。
少し。
棘が刺さった。
やっぱり。
そうなのか。
父にとっては。
小さい。
そんなこと。
「父上」
「なんだ」
「やはり」
「何がだ」
「小さいと思っています?」
「思う」
即答だった。
胸が。
少し痛んだ。
だが。
父は続けた。
「小さいが」
「……」
「悪くない」
俺は顔を上げた。
「え?」
「何だ」
「今」
「悪くないと言った」
「父上が?」
「わしが」
「本当に?」
「七郎麻呂」
「はい」
「わしを何だと思っておる」
「すぐ怒る父です」
「それは知っておる!」
「自覚が!」
「そこではない!」
危ない。
また逸れる。
俺は口を閉じた。
父は。
帳面を手に取る。
頁をめくる。
「小さい」
「はい」
「だが」
父は言った。
「大きなことだけで国が動くなら」
頁をめくる。
「わしも苦労せん」
俺は黙った。
「大砲を作れ」
「……」
「船を造れ」
「……」
「異人を追い払え」
「……」
「そう叫ぶのは簡単だ」
父が。
俺を見る。
「誰が金を出す」
「……」
「誰が人を集める」
「……」
「誰が鉄を運ぶ」
「……」
「誰が帳面につける」
「……」
「誰が足りぬ分を探す」
俺は。
何も言えなかった。
「七郎麻呂」
「はい」
「大きなことは」
父が言う。
「小さなことの上にしか乗らん」
それは。
意外だった。
本当に。
意外だった。
「父上」
「なんだ」
「すごく良いことを」
「またか!」
「だって!」
「普段は何も考えておらぬように言うな!」
「そこまでは!」
「顔に出ておる!」
やっぱり。
俺の顔はそんなに分かりやすいのか。
「それで」
父が帳面を閉じた。
「なぜ黙った」
「……」
「なぜわしに言わなかった」
俺は。
さっきと同じ答えをしようとした。
反対されると思った。
でも。
少し違う。
「怖かったのです」
父の顔が変わった。
「何が」
「馬鹿にされるのが」
「……」
「そんな小さなことをして、何になると」
「……」
「五歳児の遊びだと」
父は黙る。
小野寺も。
何も言わない。
「私は」
俺は続けた。
「未来を知っています」
「うむ」
「だから」
自分の手を見る。
「本当は」
一度。
息を吸う。
「もっと大きなことをしなければならないと思っています」
黒船。
外交。
軍制。
教育。
財政。
産業。
身分制度。
幕府そのもの。
「なのに」
俺は苦笑した。
「今、しているのは帳面一冊です」
「……」
「人の名前を書く順番で半日喧嘩して」
「……」
「小野寺を帰さないようにして」
「若君」
「今は黙っていてください」
「はい」
「たった一冊」
俺は言った。
「そんなことをしている自分が」
少し。
情けなくなる時があります。
父は。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「馬鹿だな」
と言った。
「父上!」
「最後まで聞け!」
「……はい」
珍しい。
俺が言われた。
「お前は」
父が言う。
「五歳だ」
「またそれですか」
「黙れ」
「はい」
「五歳で」
父は帳面を叩く。
「一冊直した」
「……」
「十分であろう」
俺は。
何も言えなかった。
「十五年後に黒船が来るのであろう」
「はい」
「なら、一日で十五年分をやろうとするな」
「……」
「倒れるぞ」
その言い方が。
妙に父親だった。
藩主ではない。
烈公でもない。
ただ。
息子を見ている。
俺は。
少しだけ。
目を逸らした。
「父上」
「なんだ」
「優しいことも言えるのですね」
「やはり馬鹿にしておるな!」
「違います!」
「顔に出ておる!」
「違います!」
結局。
また怒鳴られた。
◇
だが。
話は。
それで終わらなかった。
「七郎麻呂」
「はい」
「今後」
「はい」
「何か始める時は申せ」
「……」
「返事は」
「はい」
「聞こえぬ」
「はい!」
俺は答えた。
でも。
少し不満だった。
「父上」
「なんだ」
「反対するでしょう」
「する時もある」
「ほら!」
「だが」
「何です」
「反対されるから黙るなら」
父は俺を見る。
「お前は、この先何もできんぞ」
胸に刺さった。
「国を変えるのであろう」
「はい」
「なら」
「……」
「反対する人間と話せ」
「……」
「黙って逃げるな」
「……」
「わしからも」
父は言った。
強い声ではなかった。
むしろ。
少し寂しそうに聞こえた。
「逃げるな」
俺は。
言葉を失った。
父も。
俺に。
置いていかれたくないのかもしれない。
未来を知る息子。
意味の分からない言葉を使う。
五歳なのに。
異国を語る。
幕府の滅亡を語る。
父にとって。
俺は。
時々。
とても遠い場所にいるのかもしれない。
「……分かりました」
俺は言った。
「本当か」
「はい」
「次から申すな」
「はい」
「隠すな」
「努力します」
「努力?」
「人間ですから!」
「今から逃げ道を作るな!」
「父上だって全部話しているわけではないでしょう!」
「わしは父だ!」
「便利に使わないでください!」
小野寺が。
とうとう。
小さく笑った。
「何がおかしい」
父が睨む。
「いえ」
「申せ」
「殿と若君は」
「何だ」
「本当に似ておられます」
「どこがだ!」
「どこがです!」
俺と父の声が。
綺麗に重なった。
小野寺が。
今度こそはっきり笑った。
「小野寺!」
「申し訳ございません」
「何がおかしいのです!」
「若君」
「何です!」
「帰ってよろしいですか」
「駄目です!」
「なぜだ!」
今度は父が聞いた。
「まだ次の帳面が!」
「七郎麻呂!」
「はい!」
怒られた。
小野寺は。
深いため息をついた。
いつもの顔だ。
◇
その夜。
俺は帳面に書いた。
**父に隠し事はできない。**
少し考えて。
その下に。
**正確には、隠しても大体ばれる。**
さらに。
**反対されるのが怖いから黙るな。反対する人間と話せ。**
そこで。
筆が止まった。
反対する人間と話す。
簡単ではない。
父一人でも。
あれほど大変だ。
これから。
俺は。
武士と話す。
百姓と。
商人と。
役人と。
諸藩と。
幕府と。
朝廷と。
そして。
いずれ。
俺を本気で敵と考える人間とも。
話さなければならない。
父との喧嘩なんて。
多分。
まだ。
優しい。
「若君」
「うわっ!」
お喜乃だった。
「何を驚いておられるのです」
「父上かと思いました」
「残念でした?」
「いえ」
「本当に?」
「……少しだけ」
お喜乃が笑う。
「今日は殿と長くお話しでしたね」
「聞いていました?」
「少し」
「どこから」
「『わしからも逃げるな』のあたりから」
「ほとんど最後ではありませんか」
「はい」
「どう思いました」
お喜乃は少し考えた。
「殿も」
「はい」
「寂しいのでしょうね」
やっぱり。
「そう思います?」
「はい」
「でも、本人は絶対認めません」
「そこまで含めて、殿でございますので」
俺は。
少しだけ笑った。
そうだ。
あの人は。
頑固で。
怒鳴って。
意地を張って。
寂しいと言えない。
だから。
『隠すな』
と言う。
『逃げるな』
と言う。
面倒だ。
本当に。
面倒くさい父だ。
でも。
俺は。
多分。
少し嬉しかった。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
俺が。
父に何も隠さず話せるようになるまで。
……これは。
黒船より。
だいぶ難しいかもしれない。
なぜなら翌朝。
父が。
「七郎麻呂。今日は何を企んでおる」
と聞いてきたので。
俺は反射的に。
「何も」
と答えてしまったからだ。
父の目が細くなる。
「嘘だな」
「なぜ分かるのです!」
「顔に出ておる!」
結局。
父に隠し事は。
やっぱり。
できなかった。




