第21話 三人寄れば派閥になる
三人いれば。
知恵が増える。
俺はそう思っていた。
実際。
一人では気づけなかったことに、三人なら気づける。
俺が未来の知識から案を出す。
榊原庄兵衛が、役人として現実に使えるか考える。
小野寺新吾が、帳面を見て間違いを見つける。
素晴らしい。
完璧だ。
これなら改革は進む。
そう思った。
甘かった。
「ですから、この順では駄目だと申しているのです」
「なぜです」
「使いにくいからです」
「小野寺殿が使う帳面ではございません」
「ならば誰が使うのです」
「私どもです」
「では、あなたが死んだ後は?」
「朝から縁起の悪いことを申さないでください!」
俺は。
二人の間で。
茶を飲んでいた。
いや。
正確には。
飲もうとしていた。
「若君」
榊原が俺を見る。
「はい」
「若君からも、小野寺殿におっしゃってください」
「何を」
「人の名は、役目ごとに分けた方が使いやすいと」
すると。
反対側から。
「若君」
小野寺も俺を見る。
「はい」
「役目は変わります」
「そうですね」
「なら、人を探すたびに帳面のあちこちを見ることになる」
「なるほど」
「若君!」
榊原の声が少し大きくなる。
「はい!」
「今、納得されましたね!」
「話は聞かないと」
「昨日は私の意見にも納得されたでしょう!」
「昨日は昨日です!」
「ひどい!」
榊原が本気で傷ついた顔をした。
俺は慌てた。
「違います! そういう意味では!」
「ではどういう意味でございます!」
「昨日の意見も大事です!」
「ではこちらを」
「でも小野寺の意見にも」
「ほら!」
「若君」
今度は小野寺。
「何です!」
「八方美人は嫌われます」
「誰のせいですか!」
「若君ご自身の性格かと」
「あなた、本当に失礼ですね!」
「五日ほど前から存じております」
「そこは数えるのですね!」
もう駄目だ。
話が進まない。
問題は。
本当に。
些細なことだった。
人の名前を。
帳面のどの順番で書くか。
それだけ。
俺は思った。
五十音順。
いや。
この時代に現代式の五十音順をそのまま持ち込む必要はない。
では。
役目ごと。
身分ごと。
住んでいる場所ごと。
年齢ごと。
どれにも利点がある。
そして。
どれにも欠点がある。
「榊原殿」
「は」
「なぜ役目ごとがいいのです?」
「人を割り振る時に楽だからです」
「例えば?」
「台所で人が足りなければ、台所の者がまとまっておれば、すぐ分かります」
「なるほど」
「若君」
小野寺が呼ぶ。
「何です」
「その台所の者が、明日、馬の世話に回されたら?」
「……」
「帳面を書き直しますか」
「変更を」
「誰が」
「榊原殿が」
榊原の顔が固まった。
「なぜ私が!」
「使う方なので」
「若君!」
「すみません!」
まただ。
何かを思いつく。
やるのは別の人。
本当に。
危ない。
「では」
俺は考える。
「一人につき、一行」
「はい」
「名前。年齢。今の役目。前の役目」
榊原が渋い顔をする。
「欄が増えますな」
「では前の役目は無し」
小野寺が言う。
「異動の経緯が分かりません」
「では残す」
「若君」
榊原が。
ものすごく嫌そうな顔をした。
「何です」
「増えております」
「……」
「減らすお話では?」
「そうでした」
俺は頭を抱えた。
すると。
部屋の外から。
小さな笑い声がした。
「お喜乃」
「はい」
「そこにいますね」
「おります」
「笑いました?」
「少し」
「入ってください」
「嫌です」
「なぜです!」
「巻き込まれたくありません」
「正直!」
襖の向こうで。
また笑っている。
「お喜乃」
「はい」
「あなたならどうします?」
「何をでございます」
「帳面です」
「使う方に聞きます」
「聞いています!」
「では、その方々で決めてください」
「決まらないから困っているのです!」
「では若君がお決めになれば」
「そうすると後で二人に文句を言われます!」
「もう十分お分かりではありませんか」
「何がです!」
「上に立つ者は」
お喜乃は。
襖の向こうから言った。
「大変でございますね」
「絶対に楽しんでいますよね!」
「まさか」
「声が笑っています!」
「気のせいでは?」
「父上の真似をしないでください!」
駄目だ。
味方がいない。
◇
それでも。
午前中には決めるつもりだった。
午前中には。
だが。
昼になった。
「名前からです」
小野寺が言った。
「役目からです」
榊原が言った。
「間を取って」
俺が言う。
「年齢から」
二人が同時に俺を見た。
「なぜです?」
「何となく」
「若君」
「はい」
「帰ってもよろしいですか」
「駄目です!」
榊原まで苦笑した。
「若君」
「何です」
「間を取ればよいというものではございません」
「知っています!」
「ではなぜ」
「何か言わないと二人が私を見るからです!」
俺だって。
五歳なのだ。
いや。
中身は六十二歳だが。
それでも。
六十二歳だって困るものは困る。
大学教授時代。
会議は嫌いだった。
誰も決めない。
でも意見はある。
決めたら不満を言う。
黙っていた者ほど。
会議が終わってから廊下で文句を言う。
何百年経っても。
人間はあまり変わらないらしい。
「一度」
俺は言った。
「休みましょう」
「まだ決まっておりません」
榊原。
「だからです」
「今日中に終わらせると」
「小野寺」
「何でしょう」
「あなたはどう思います?」
「帰りたいです」
「帳面について!」
「空腹では良い案は出ません」
「珍しくまともなことを」
「若君」
「すみません!」
失言だった。
でも。
本当に腹が減った。
五歳児の腹は。
会議の都合など考えない。
ぐうううう。
鳴った。
沈黙。
小野寺が俺の腹を見る。
榊原も見る。
「見ないでください」
「若君」
榊原が。
少し笑いながら言う。
「まず昼餉にいたしましょう」
「はい」
「その方が」
小野寺も続ける。
「少しは機嫌も良くなるでしょう」
「私、そんなに機嫌が悪いです?」
二人。
黙った。
「答えてください!」
◇
昼餉の後。
俺たちは。
庭に出た。
座りっぱなしでは。
頭が固くなる。
そう言ったのは俺だ。
すると小野寺に、
「もう十分固まっております」
と言われた。
誰の頭かと聞いたら。
「全員です」
と答えた。
少しは遠慮しろ。
「若君」
榊原が言う。
「何でしょう」
「私は」
少し間。
「小野寺殿が嫌いなわけではございません」
「はあ」
「ただ」
「はい」
「現場を知らぬ」
少し離れたところを歩いていた小野寺が。
聞こえたらしい。
振り返る。
「私も」
「何です」
「榊原殿が嫌いなわけではございません」
「ならば何です」
「慣れすぎです」
空気が変わった。
俺は。
二人を見る。
榊原の顔が固い。
小野寺も笑っていない。
「慣れすぎとは」
榊原が聞く。
「今のやり方に」
「……」
「不便でも」
「……」
「昔からそうだからと」
小野寺は言う。
「変えない」
「簡単に申されますな」
「簡単とは申しておりません」
「現場を知らぬから言える」
「現場にいるから見えないこともございます」
「何だと」
「二人とも」
俺が割って入った。
だが。
遅かった。
「帳面を一冊直した程度で」
榊原。
「では間違った帳面を使い続けろと?」
小野寺。
「そうは申しておらぬ!」
「なら、どこが間違いです」
「言い方だ!」
「中身ではないのですか」
「小野寺!」
「榊原殿!」
「二人とも!」
俺も怒鳴った。
静かになる。
三人で。
庭の真ん中。
黙る。
最悪だ。
「……すみません」
俺が先に言った。
すると。
二人がこちらを見る。
「なぜ若君が」
「私が集めたので」
「それは」
「でも」
俺は続けた。
「二人とも、今」
言葉を選ぶ。
「帳面の話をしていませんでしたね」
榊原が黙る。
小野寺も。
「何の話でした?」
「……」
「小野寺が現場を知らないとか」
「……」
「榊原殿が慣れすぎているとか」
「……」
「それ」
俺は言った。
「帳面と関係あります?」
沈黙。
ああ。
こういうことか。
三人寄れば。
知恵が増える。
でも。
同時に。
立場も増える。
意地も。
感情も。
誰に何を言われたか。
誰の案が採用されたか。
誰が上か。
誰が古参か。
誰が現場を知っているか。
誰が頭だけで考えているか。
そんなものまで。
ついてくる。
「若君」
小野寺が言った。
「何です」
「今、呆れておられますか」
「少し」
「正直ですね」
「あなたに習いました」
榊原が。
苦笑した。
「若君」
「はい」
「私も」
一度。
息を吐く。
「少し、言いすぎました」
「私にではなく」
俺は小野寺を見る。
榊原も見る。
小野寺は。
ものすごく嫌そうな顔をした。
「何です」
「いえ」
「言いたくない?」
「はい」
「正直ですね!」
「若君に習いました」
同じことを言った。
腹が立つ。
「小野寺」
榊原が言う。
「先ほどは」
「……」
「言いすぎた」
「……」
「悪かった」
小野寺が黙る。
「小野寺?」
俺が呼ぶ。
「分かっています」
「何を」
「次は私でしょう」
「そうです」
「若君」
「何です」
「面倒です」
「今は言わない!」
榊原が。
吹き出した。
小野寺も。
少しだけ。
笑った。
そして。
「私も」
と言った。
「言い方が悪うございました」
「それだけです?」
榊原。
「まだ何か?」
小野寺。
「ほら!」
俺が止める。
「もう一回喧嘩しないでください!」
◇
結局。
帳面は。
名前を基本にして。
役目を横に書くことになった。
ただし。
役目が変わった時は。
古いものを消さず。
小さく印を付け。
新しい役目を追記する。
完璧ではない。
でも。
榊原は、
「これなら使える」
と言った。
小野寺は、
「以前よりましです」
と言った。
俺は言った。
「二人とも、もう少し素直に褒められません?」
「若君」
「何です」
「これを考えたのは三人です」
「はい」
「なぜ若君を褒めるのです」
「……」
確かに。
「では」
俺は言い直す。
「私たちを褒めません?」
榊原が笑った。
「よくできました」
「子供扱い!」
「五歳ですので」
「都合の悪い時だけ!」
小野寺まで笑った。
その日の夜。
俺は帳面に書いた。
**三人寄れば文殊の知恵。**
少し考える。
その下に。
**ただし、三人寄れば派閥もできる。**
さらに。
**意見が違うことと、相手が嫌いなことを混ぜるな。**
そして。
少し迷って。
もう一行。
**混ざったら、一度飯を食え。腹が減っているだけの時もある。**
「何を書いておる」
「うわっ!」
父だった。
「今日は驚きましたね」
「父上!」
「何だ」
「いつまで続けるのです!」
「お前が驚かなくなるまで」
「永遠にやめない気ですか!」
父が笑う。
帳面を覗く。
「三人寄れば派閥か」
「はい」
「早かったな」
「何がです」
「たった三人で」
「笑わないでください!」
「だが」
父は。
少しだけ。
真面目な顔をした。
「三人でそれなら」
「はい」
「三百人ならどうする」
俺は黙った。
「三千人なら」
「……」
「三万なら」
「……」
「国中なら」
父が俺を見る。
「お前は日本を変えるのであろう」
「はい」
「なら」
父は言った。
「皆が同じことを考えると思うな」
その言葉が。
妙に重かった。
「父上」
「なんだ」
「皆が違うことを考えていたら」
「うむ」
「どうやって国を動かすのです」
父は少し考えた。
そして。
「知らん」
「またですか!」
「だから政治は面倒なのだ!」
「そこで開き直らないでください!」
「お前が考えろ!」
「父上も考えてください!」
「わしはもう十分考えておる!」
「本当ですか!」
「七郎麻呂!」
「はい!」
結局。
また。
親子で喧嘩になった。
だが。
その夜。
俺は一つだけ。
分かった。
国を変える。
制度を変える。
そんな言葉は大きい。
でも。
実際に変える時。
相手にするのは。
制度ではない。
人だ。
榊原のように。
現場を守りたい人間。
小野寺のように。
間違いが気持ち悪い人間。
父のように。
異人が嫌いでも。
国は守りたい人間。
お喜乃のように。
笑いながら。
時々。
妙に核心を突く人間。
皆。
違う。
面倒だ。
そして。
それでいい。
同じ人間しかいない国は。
多分。
もっと危ない。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
三人でさえ意見が割れるのに。
これから俺は。
何千。
何万。
何百万という。
面倒な人間たちを。
同じ国の中で。
どうにか一緒に生かさなければならない。
……正直。
黒船より。
そちらの方が。
ずっと怖い気がした。




