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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第20話 なら、この帳簿一冊から始めよう

「帰ります」


「待ってください」


「嫌です」


「まだ何も言っていません!」


「分かります」


「何がです」


「若君の顔を見れば」


 小野寺新吾は、深いため息をついた。


「また何か頼むおつもりでしょう」


「……」


「ほら」


「何です」


「黙りました」


「考えていただけです」


「何を」


「どう頼めば、あなたが逃げないかを」


「逃げます」


「即答しないでください!」


 朝。


 俺が目を覚ますと。


 昨夜、小野寺が直した二冊目の帳面が置いてあった。


 しかも。


 本人まで来ていた。


 俺は喜んだ。


 お喜乃には、


『顔に出ております』


 と言われた。


 小野寺には、


『嫌な予感がします』


 と言われた。


 失礼な男である。


 だが。


 その予感は。


 正しい。


「小野寺」


「はい」


「一つだけです」


「その言葉を信じられません」


「本当に!」


「昨日も二冊目は一冊だけと」


「それは一冊でした!」


「では今日は?」


「一冊です」


「明日は?」


「明日のことは、明日考えます」


「ほら」


 またため息。


「だから嫌なのです」


「何がです!」


「終わりがない」


 俺は。


 少し黙った。


「終わりならあります」


「いつです」


「幕府が滅びなくなった時です」


「帰ります」


「待ってください!」


「長すぎます!」


「だから少しずつ!」


「私の人生が終わります!」


「縁起でもないことを言わないでください!」


「若君」


「何です」


「ご自分で私を何十年働かせるつもりですか」


「……」


「今、考えましたね」


「少し」


「帰ります」


「待って!」


 俺は。


 小野寺の袖を掴んだ。


 本当に。


 物理的に。


 五歳の手で。


 ぎゅっと。


 小野寺が下を見る。


 俺も見る。


 沈黙。


「若君」


「はい」


「何をなさっているのです」


「引き止めています」


「離してください」


「嫌です」


「子供ですか」


「五歳です!」


「そういう時だけ!」


 とうとう。


 小野寺まで言うようになった。


 俺は袖を離した。


 少し恥ずかしい。


「……すみません」


「素直ですね」


「私も反省します」


「珍しい」


「あなた、本当に失礼ですね!」


「事実です」


「どこが!」


「三日前、私が帰ろうとした時」


「はい」


「若君は二冊目の帳面を差し出しました」


「はい」


「昨日は?」


「少しだけ相談を」


「帳面三冊でした」


「結果的には」


「今日は?」


「一冊です」


「減りましたね」


「でしょう!」


「喜ぶところですか」


 違う気がする。


 でも。


 少しは成長している。


 多分。


     ◇


「それで」


 小野寺は。


 仕方なさそうに座り直した。


「何でございます」


「これです」


 俺は。


 新しい帳面を一冊。


 目の前へ置いた。


 まだ。


 何も書かれていない。


 真っ白だ。


 小野寺の眉が動く。


「何も書いてありませんが」


「はい」


「直しようがございません」


「直すのではありません」


「では」


「最初から作ります」


「……何を」


「使いやすい帳面を」


 小野寺が。


 真っ白な頁を見る。


「誰にとって」


 その質問に。


 俺は止まった。


「え?」


「使いやすい帳面と申されました」


「はい」


「誰にとって、です」


「それは」


 俺は少し考える。


「皆に」


「無理です」


「早い!」


「見る者によって欲しいものが違います」


「例えば?」


「給金を払う者は、働いた日数が知りたい」


「はい」


「人手を割り振る者は、誰が何をできるか知りたい」


「はい」


「殿は」


 小野寺が少し考えた。


「全部知りたがるかもしれません」


「父上ですからね」


「若君も」


「私は必要だからです!」


「殿もそう申されるのでは」


「……」


 否定できない。


 悔しい。


「では」


 俺は聞いた。


「あなたなら、誰に合わせます?」


「一番よく使う者です」


 即答。


「なぜ」


「毎日使う者が使いにくければ」


「はい」


「続きません」


 俺は黙った。


 最近。


 何度も聞いた。


 続かなければ意味がない。


 正しい制度でも。


 立派な仕組みでも。


 使う人間が嫌になれば。


 終わる。


「小野寺」


「はい」


「あなた」


「はい」


「本当に私に仕える気はありません?」


「ございません」


「今、少し間がありました?」


「ございません」


「ありましたよね」


「気のせいです」


「父上みたいなことを言わないでください!」


 小野寺の口元が少し緩んだ。


「それで」


 俺は白紙の帳面を見る。


「一番使うのは」


「おそらく、榊原殿でしょう」


「では」


「ただ」


 小野寺が止める。


「若君」


「はい」


「榊原殿本人に聞きましたか」


 また。


 俺は黙った。


「……まだ」


「では、なぜここで決めるのです」


「考えてから聞こうと」


「聞いてから考えては」


「……」


 痛い。


「若君」


「はい」


「今、傷つきましたか」


「少し」


「では言い方を変えます」


「お願いします」


「勝手に決めるな」


「悪化しています!」


「分かりやすく」


「分かりやすすぎます!」


 小野寺が少し笑った。


 俺も。


 不本意ながら笑った。


「分かりました」


 俺は言う。


「榊原殿を呼びます」


「はい」


「小野寺」


「何でしょう」


「あなたも残ってください」


「嫌です」


「なぜ!」


「呼んで終わりではないでしょう」


「まあ」


「ほら」


「でも」


「嫌です」


「話を聞くだけ」


「昨日も」


「今日は本当です!」


「信用できません」


「私の信用はそんなにないですか!」


「まだ四日です」


「五日目では?」


「そこは重要ですか」


「一日増えています!」


「そうですか」


「そうです!」


 どうして。


 俺はこの男と話すと。


 本題までにこんなに時間がかかるのだろう。


 いや。


 父も同じか。


 もしかすると。


 原因は。


 俺かもしれない。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 そう思った。


     ◇


 ほどなく。


 榊原庄兵衛が呼ばれた。


 部屋に入って。


 小野寺を見る。


 俺を見る。


 白紙の帳面を見る。


 そして。


「若君」


「はい」


「本日は、何を」


 声が。


 少し警戒している。


「そんなに身構えないでください」


「失礼いたしました」


「顔に出ています」


「若君も最近、よくおっしゃいますな」


「周囲が皆言うので」


 榊原の口元が少し緩む。


「新しい帳面を作りたいのです」


 その瞬間。


 榊原の顔が戻った。


 真顔。


「若君」


「はい」


「これ以上、帳面を?」


「増やしません!」


「本当ですか」


「疑いますね!」


「昨日までのお話を思えば」


「分かりました!」


 俺は手を上げる。


「増やしません」


「では」


「今ある帳面を」


 少し考える。


「減らせないかと思って」


 榊原が。


 俺を見る。


「減らす?」


「はい」


「若君が?」


「何です、その反応!」


「いえ」


「今、絶対に驚きましたよね!」


「少し」


「正直ですね!」


 小野寺が横で笑う。


「何がおかしいのです」


「若君」


「はい」


「信用とは」


「はい」


「積み重ねです」


「五日でそれを言わないでください!」


 榊原まで笑った。


 ひどい。


 だが。


 空気は少し緩んだ。


「榊原殿」


「は」


「今、帳面はいくつあります?」


「何の帳面でしょう」


 俺は止まる。


「……え?」


「人の帳面」


「どの人の」


「屋敷の」


「どの役目の」


「……」


 小野寺が目を閉じた。


 やめろ。


 笑うな。


「たくさんあるのですね」


「はい」


「どれくらい」


「数えたことはございません」


「数えましょう」


「若君」


「何です」


「また仕事が増えます」


「……」


 しまった。


 自分でも分かるようになってきた。


 何かを減らそうとして。


 そのために仕事を一つ増やす。


 俺の悪い癖かもしれない。


「では」


 俺は訂正した。


「全部は数えません」


「はい」


「まず」


 白紙の帳面を開く。


「榊原殿が一番面倒だと思っている帳面は?」


 榊原が。


 黙った。


「正直に」


「よろしいので?」


「はい」


「若君がお作りになろうとしている、この新しい帳面です」


「まだ何も書いていません!」


 小野寺が吹き出した。


「小野寺!」


「失礼」


「絶対に失礼だと思っていないでしょう!」


「少しは」


「少し!」


 榊原も笑っている。


「榊原殿!」


「申し訳ございません」


「もう!」


 俺は。


 少し腹を立てた。


 だが。


 やがて。


 自分も笑った。


「分かりました」


 白紙の帳面を閉じる。


「新しい帳面は作りません」


「よろしいので?」


「はい」


「せっかく」


「今、少し残念そうでは?」


「いえ」


「本当に?」


「少しだけ」


「なぜ!」


「若君が、どのような面倒を増やされるのか」


「楽しみにしないでください!」


 また笑われた。


 本当に。


 最近。


 皆。


 俺への遠慮がない。


「では」


 俺は聞く。


「一番面倒なのは?」


 榊原が。


 今度こそ。


 少し真面目な顔になる。


「人別の帳面と、給金の帳面でございます」


「二つ?」


「はい」


「内容は重なります?」


「一部は」


「なら」


 言いかける。


 一つに。


 まとめればいい。


 そう言おうとした。


 だが。


 止まった。


 榊原を見る。


「一つにすると」


「はい」


「困ります?」


 榊原が。


 少し驚いた顔をした。


「……困るかもしれませぬ」


「どこが?」


「人別の帳面を見る者と、給金の帳面を見る者は違います」


「はい」


「一冊にすると」


 榊原は考える。


「同時に使えませぬ」


 なるほど。


 紙だ。


 現代のように。


 複製もできない。


 共有の電子記録もない。


 一冊にまとめれば。


 確かに。


 その一冊しかない。


「では」


 俺は言った。


「同じところだけ」


「同じところ?」


「書き方を揃えませんか」


 小野寺がこちらを見る。


「名前の順」


「はい」


「呼び方」


「はい」


「役目の書き方」


「……」


「同じ人間が」


 一冊では名字だけ。


 別の帳面では通称。


 別では父親の名前付き。


 それを。


 できるだけ揃える。


「そうすれば」


 俺は言う。


「見比べる時に少し楽になる」


 榊原が。


 帳面を思い浮かべるように目を細めた。


「少しは」


「少しでいいです」


 俺は答えた。


「全部変えません」


 小野寺が。


 こちらを見る。


 俺は気づいた。


「何です」


「いえ」


「言ってください」


「若君」


「はい」


「少し賢くなられましたね」


「失礼ですね!」


「昨日よりは」


「父上と同じことを言わないでください!」


「殿も?」


「言います!」


「なるほど」


「納得しないでください!」


 榊原が笑った。


 だが。


 少しして。


「それなら」


 と。


 言った。


「できますか」


「すぐには無理でございます」


「はい」


「次に書き直す時からなら」


「それで」


「全部ではなく」


「一つずつ」


「ならば」


 榊原が頷く。


「やってみてもよいかと」


 俺は。


 嬉しかった。


 本当に。


 以前なら。


 すぐ全部変えようとした。


 書式を統一する。


 毎日更新する。


 正確に数える。


 全部。


 でも。


 人は。


 そんなに早く変われない。


 仕組みも。


 同じだ。


「では」


 俺は白紙の帳面を。


 榊原の前に置く。


「最初の一冊だけ」


「はい」


「次に作り直す時」


「はい」


「三人で相談しませんか」


「三人?」


「榊原殿」


 指す。


「小野寺」


「私は帰ります」


「まだ言っていません!」


「入っていました」


「入っています!」


「嫌です」


「話だけ!」


「嫌です」


「小野寺」


「何でしょう」


「あなた」


「はい」


「さっきからもう一刻近くここにいます」


 小野寺が黙った。


「……」


「しかも」


 俺は続ける。


「帳面の話に口も出しました」


「……」


「もう十分巻き込まれています」


「……」


「諦めてください」


 小野寺が。


 ものすごく嫌そうな顔をした。


「若君」


「はい」


「それ」


「何です」


「人を使う者の顔ではありません」


「では何です」


「罠にかかった獣を見る猟師です」


「そんな顔しています?」


「かなり」


 榊原が。


 そっと。


 視線を逸らした。


「榊原殿」


「は」


「今、同意しました?」


「いえ」


「しましたよね」


「何も申し上げておりませぬ」


「顔が!」


「若君」


 小野寺が言った。


「人の顔を読むのは得意になられましたね」


「あなたたちのせいです!」


     ◇


 結局。


 小野寺は。


「次の一冊だけ」


 という条件で。


 残ることになった。


 俺は聞いた。


「次の一冊が終わったら?」


「帰ります」


「その次は?」


「帰ります」


「でも」


「帰ります」


「まだ何も」


「帰ります」


「しつこい!」


「若君に言われたくありません」


 榊原が。


 とうとう笑った。


 俺も笑った。


 その日の夜。


 俺は帳面に書いた。


 **人を使うな。**


 書いて。


 止まる。


 違う。


 消す。


 もう一度。


 **人を動かそうとするな。**


 これも。


 少し違う。


 考える。


 そして。


 書いた。


 **人は、自分の理由で動く。**


 小野寺は。


 俺の未来のために残ったのではない。


 幕府を救うためでもない。


 間違った足し算が気持ち悪いから。


 榊原は。


 改革のためではなく。


 自分の仕事が少し楽になるなら。


 やってみてもいいと思った。


 それでいい。


 いや。


 多分。


 それがいい。


 正義を押しつけなくても。


 同じ方向へ進めるなら。


 それでいい。


 もう一行。


 **大きな理想を語る前に、目の前の一冊を直せ。**


 そして。


 最後に。


 **なら、この帳簿一冊から始めよう。**


「ほう」


 背後から声がした。


「父上」


「なんだ」


「今日は驚きません」


「そうか」


「毎回同じなので」


「つまらんな」


「何を期待しているのです!」


 父が笑う。


 帳面を見る。


「一冊から始めるのか」


「はい」


「日本を変えると言っていた男が」


「五歳です」


「都合のよい時だけ」


「いいでしょう!」


 俺は少し笑った。


「一冊ずつです」


「遅いぞ」


「知っています」


「黒船まで十五年なのであろう」


「はい」


「間に合うのか」


 俺は。


 少し黙った。


「分かりません」


 父が俺を見る。


「ですが」


「なんだ」


「千冊を一度に変えろと言って」


「うむ」


「誰も動かなければ、ゼロです」


「……」


「一冊なら」


 俺は言った。


「一冊は変わります」


 父は。


 何も言わなかった。


 しばらくして。


「そうか」


 それだけ。


 そして。


 部屋を出る前に。


「七郎麻呂」


「はい」


「その小野寺という男」


「はい」


「まだ逃げておらんのか」


「まだです」


「では」


 父が笑った。


「急いで捕まえろ」


「父上!」


「何だ」


「人を獣みたいに!」


「お前も似たような顔をしておるらしいではないか」


「誰から聞いたのです!」


 父は笑いながら出ていった。


 絶対に。


 誰かが告げ口した。


 小野寺か。


 榊原か。


 佐久間か。


 あるいは全員か。


 ひどい。


 本当に。


 ひどい。


 でも。


 翌朝。


 小野寺は。


 また来た。


「若君」


「はい」


「次の一冊はどれです」


 俺は。


 一瞬。


 何も言えなかった。


「……小野寺」


「何でしょう」


「自分から聞きましたね」


「帰ります」


「待って!」


「今のは忘れてください」


「嫌です!」


「若君」


「はい」


「面倒です」


「知っています!」


 俺は。


 笑った。


 小野寺も。


 ほんの少しだけ。


 笑った。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 国を変えるには。


 まだ。


 何も足りない。


 人も。


 金も。


 時間も。


 でも。


 俺には。


 真っ白な帳面が一冊。


 面倒だと言いながら帰らない男が一人。


 そして。


 少しずつなら。


 やってみてもいいと言う役人が一人いた。


 歴史を変えるには。


 あまりにも小さい。


 けれど。


 最初なんて。


 多分。


 それくらいでいい。


 問題は。


 三人集まれば。


 人間は。


 今度は。


 **意見が割れる**ということだった。


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