第19話 若君、あなたは面倒です
三日後。
小野寺新吾は、約束通り帳面を直し終えた。
そして。
「もう二度と呼ばないでください」
と言った。
俺は笑顔で答えた。
「では次は、この帳面を」
「人の話を聞いておられましたか?」
「もちろん」
「何と申しました」
「もう二度と呼ばないでください、と」
「では、なぜ二冊目を出すのです」
「まだ帰っていないからです」
「そういう問題ではございません」
「でも、まだいますよね」
「今から帰ります」
「では、その前に」
「嫌です」
「まだ何も言っていません!」
「どうせ仕事でしょう」
「そうです」
「嫌です」
「早い!」
小野寺が深いため息をついた。
この男。
二十二歳のくせに。
最近。
俺を見るたびに、四十歳くらい老け込んだ顔をする。
まだ三日しか一緒にいないのだが。
「若君」
「はい」
「私は」
「はい」
「三日だけ、と申し上げました」
「覚えています」
「では、本日は?」
「四日目です」
「分かっているではありませんか」
「はい」
「帰ります」
「待ってください」
「嫌です」
「話くらい聞いてください!」
「若君の『話くらい』は危険です」
「なぜです」
「話を聞くだけのはずが、気づけば帳面を三冊抱えております」
「まだ二冊です」
「増える予定なのですか!」
しまった。
余計なことを言った。
小野寺の目が冷たい。
「違います」
「何が」
「今のは言葉の綾です」
「便利ですね」
「夢ほどではありません」
「ご自分で先に言わないでください」
先手を取った。
最近は皆が、
『便利な夢ですね』
と言うので。
その前に自分から言うことにしている。
悲しい進歩だ。
「とにかく」
俺は最初の帳面を開いた。
「素晴らしいです」
「そうですか」
「はい」
「では帰ります」
「待ってください!」
「なぜです」
「もう少し褒められてください!」
「結構です」
「遠慮しなくても」
「遠慮ではございません」
「では何です」
「褒められると、次の仕事を押しつけられそうです」
鋭い。
本当に鋭い。
「そんなことは」
「その二冊目は何です」
「……帳面です」
「知っております」
「少しだけ」
「嫌です」
「まだ何も!」
「若君」
小野寺が。
俺をまっすぐ見る。
「あなたは」
「はい」
「本当に、面倒です」
「昨日も聞きました!」
「今日も思いました」
「毎日言うつもりですか!」
「必要であれば」
「必要ありません!」
俺は腹を立てた。
だが。
小野寺は平然としている。
むしろ。
俺が怒るほど。
少しだけ面白そうに見える。
「小野寺」
「はい」
「あなたは私が嫌いですか」
聞いてから。
少し後悔した。
何を聞いているのだ。
五歳児が。
二十二歳の男に。
嫌いですか、なんて。
妙な質問だ。
だが。
小野寺は笑わなかった。
「まだ分かりません」
「まだ?」
「三日しかお会いしておりませんので」
「四日目です」
「そこは重要ですか」
「一日増えています」
「そうですか」
「はい」
「では四日です」
どうでもよさそうだ。
腹が立つ。
「それで」
俺は聞いた。
「嫌いではない?」
「分かりません」
「好きでも?」
「ございません」
「そこは即答するのですね!」
「好きになる理由がまだございませんので」
「正直すぎませんか!」
「遠慮なく物を言える者が欲しいと」
「それは言いましたけれど!」
「では、私を選んだのは若君です」
「そうです!」
「後悔しましたか」
俺は。
少し黙った。
「……少し」
「では、よかった」
「何がです!」
「人選には慎重になられるでしょう」
「他人事ですね!」
「他人ですので」
お喜乃と同じことを言う。
どうして俺の周りには。
こういう人間しかいないのだろう。
もっとこう。
『若君のお考えは素晴らしい!』
『一生ついていきます!』
みたいな忠臣はいないのか。
いや。
いたらいたで。
多分、三日で疑う。
何か裏があるのではないか、と。
俺は自分でも。
かなり面倒な性格をしているらしい。
「小野寺」
「はい」
「あなたは、この帳面を見てどう思いました」
「ひどいと思いました」
「それは聞きました」
「では何を」
「なぜ、ひどくなったのだと思います」
小野寺が。
少しだけ表情を変えた。
そして。
帳面を見る。
「誰かが怠けたから」
「それだけですか」
「いいえ」
即答だった。
俺は黙る。
小野寺は頁をめくった。
「書く者が変わった」
「はい」
「書き方も変わった」
「はい」
「前の帳面を見ずに、新しい帳面を作った者もいる」
「……」
「急いでいたので、名前だけ書いた者も」
「……」
「同じ名の者を、同じ人間だと思った者も」
「……」
「単純に足し算を間違えた者もおります」
「はい」
「そして」
小野寺は。
俺を見る。
「誰も」
一度。
言葉を切る。
「本気では困らなかった」
俺の眉が動いた。
「どういう意味です」
「この帳面が三人ずれていても」
「はい」
「昨日の飯は出た」
「……」
「給金も、大体は払われた」
「……」
「屋敷も動いた」
「……」
「だから」
小野寺は言った。
「後回しになったのでしょう」
俺は。
以前の佐久間の言葉を思い出した。
今日の仕事を回す。
そうしているうちに。
帳面の一つや二つ。
後になる。
「では」
俺は聞いた。
「このままでいいと?」
「いいとは申しません」
「なら」
「ただ」
まただ。
でも。
最近は。
この『ただ』の先に。
自分が見えていなかったものがある。
それを。
少し分かるようになった。
「ただ?」
「若君は」
小野寺が言う。
「正しい帳面が欲しい」
「はい」
「ですが」
「はい」
「帳面を直す者は」
自分の胸を指した。
「別に、正しい帳面が欲しいわけではございません」
俺は黙った。
「……どういう意味です」
「私は」
小野寺は淡々と言う。
「早く帰りたい」
「……」
「母の具合を見たい」
「……」
「妹がまた、どこかから縁談を持ち込まれて困っているかもしれない」
「……」
「腹も減ります」
「……」
「眠くもなる」
「……」
「つまり」
小野寺は少しだけ笑った。
「若君の理想より、私には私の暮らしの方が大事です」
胸に刺さった。
だが。
嫌ではなかった。
多分。
必要な痛みだ。
「それは」
俺は言った。
「悪いことですか」
小野寺が。
少し驚いた顔をした。
「若君は、悪いと?」
「いいえ」
俺は首を振る。
「むしろ普通だと思います」
「……」
「国を救うために」
一度。
苦笑する。
「全員が私と同じくらい必死になってくれると思う方が、おかしい」
小野寺は黙った。
「でも」
俺は続ける。
「それでも」
「はい」
「国は変えなければなりません」
「なぜ」
「滅びるからです」
「夢で?」
「はい」
「便利ですね」
「今は言わせてください」
小野寺の口元が。
少しだけ緩んだ。
「私の夢では」
俺は言った。
「この国は、大きく揺れます」
「……」
「人が死にます」
「……」
「戦も起きる」
「……」
「家も焼ける」
「……」
「そして」
少しだけ。
喉が詰まった。
「幕府はなくなります」
小野寺は何も言わない。
佐久間も。
いつの間にか。
右頬の笑いを消していた。
「私は」
俺は続けた。
「それを変えたい」
「……」
「でも」
自分の手を見る。
小さい。
五歳の手。
「私一人では何もできません」
「……」
「字もまだ下手です」
小野寺が少し頷く。
「そこは強く頷かないでください!」
「事実です」
「知っています!」
空気が少し緩んだ。
俺は息を吐く。
「だから」
「はい」
「人を使うしかない」
小野寺の目が少し変わった。
「使う?」
「言い方が悪かったですね」
「かなり」
「すみません」
「素直ですね」
「今日は」
「普段は?」
「あなた、本当に失礼ですね!」
また少し笑いが起きる。
だが。
俺は言い直した。
「力を借りるしかありません」
「……」
「でも」
「はい」
「借りるなら」
一度。
言葉を選ぶ。
「その人が、何を大事にしているのかも考えなければならない」
小野寺の目が。
ほんの少し。
細くなった。
「母上ですか」
「……はい?」
「小野寺の」
「……」
「妹も」
「なぜ」
「先ほど言ったでしょう」
「覚えておられたのですか」
「覚えています」
俺は答えた。
「全部は無理です」
「……」
「でも」
「……」
「覚えていない人間に、ついてこいと言うのは」
少し苦く笑う。
「多分、違う」
小野寺は黙った。
長い。
佐久間も何も言わない。
やがて。
小野寺が口を開いた。
「若君」
「はい」
「それで」
「はい」
「その二冊目を私にやらせるために、ここまで話したのでございますか」
「違います!」
「本当に?」
「半分くらいは!」
「半分はそうなのですね」
「……」
しまった。
小野寺が深いため息をつく。
「やはり」
「はい」
「面倒です」
「それはもう聞きました!」
「何度でも申します」
「なぜです!」
「若君が、何度でも面倒だからです」
ひどい。
本当に。
ひどい男だ。
「小野寺」
「はい」
「では」
俺は二冊目を差し出す。
「これは?」
「嫌です」
「まだ」
「嫌です」
「少しだけ!」
「嫌です」
「三日!」
「嫌です」
「二日!」
「なぜ減るのです」
「一日!」
「若君」
「何です!」
「交渉が下手です」
「では、あなたなら?」
「帰ります」
「交渉を放棄しないでください!」
佐久間が。
とうとう声を上げて笑った。
◇
結局。
小野寺は帰らなかった。
正確には。
「日が暮れるまで」
という条件で。
二冊目を見ることになった。
俺は。
勝ったと思った。
だが。
小野寺は言った。
「勘違いなさらないでください」
「何を」
「若君に仕えるのではございません」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「私は」
帳面を持ち上げる。
「これが気持ち悪いだけです」
「はい」
「足し算の間違いが」
「はい」
「同じ名前が二度出るのも」
「はい」
「嫌なのです」
「分かっています」
「ですから」
「はい」
「嬉しそうな顔をしないでください」
「していません」
「しております」
「していません」
「しております」
「していません!」
「若君」
「何です!」
「面倒です」
「またそれ!」
でも。
多分。
俺は嬉しかった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
人が残る。
俺の命令だからではない。
徳川斉昭の息子だからでもない。
出世を約束したからでもない。
ただ。
目の前の仕事が気持ち悪かったから。
それだけ。
でも。
それでいい。
人は。
国のためだけに動かない。
正義のためだけにも。
未来のためだけにも。
家族。
金。
意地。
腹立ち。
好奇心。
気持ち悪いから。
負けたくないから。
誰かに認められたいから。
たぶん。
そういう。
綺麗ではない理由を。
全部使って。
国は動く。
その日の夜。
俺は帳面に書いた。
**人を使うということは、その人の人生を使うということだ。**
少し考え。
書き直した。
**違う。借りるのだ。**
もう一行。
**ならば、返すものを考えろ。金か。地位か。安心か。誇りか。それとも、別の何かか。**
そこまで書いた時。
「七郎麻呂」
背後から声。
俺は振り返らなかった。
「父上」
「なんだ」
「そこにいるのは分かっています」
「ほう」
「毎回、後ろから覗くので」
「では驚かんのか」
「今日は驚きません」
「そうか」
「はい」
肩に。
突然。
大きな手が置かれた。
「うわっ!」
「驚いたな」
「卑怯です!」
「油断する方が悪い」
「父親のすることですか!」
「父だからするのだ」
「意味が分かりません!」
父が笑った。
俺は腹を立てた。
「何を書いた」
「見せません」
「なぜ」
「笑うからです」
「笑わん」
「本当に?」
「たぶん」
「信用できません!」
父は。
それでも少し覗き込み。
最後の一文だけ読んだ。
「返すものを考えろ、か」
「はい」
「小野寺とかいう男に、何を返す」
俺は少し考えた。
「まだ分かりません」
「分からんのか」
「はい」
「では逃げられるな」
「縁起でもないことを言わないでください!」
父が笑う。
でも。
少しして。
「覚えておけ」
と言った。
「何を」
「人は」
父は。
いつになく静かな声で。
「働いた分だけでは、ついてこぬ」
「……」
「だからといって」
「はい」
「情だけでも、ついてこぬ」
「では?」
「知らん」
「知らないのですか!」
「人による」
それだけ言って。
父は出ていった。
俺は。
しばらく。
その背中を見ていた。
人による。
腹が立つほど。
当たり前だ。
そして。
多分。
一番正しい。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
小野寺新吾が、正式に俺の家臣になるまで。
まだ。
もう少しかかる。
ただ。
その翌朝。
俺が目を覚ますと。
二冊目の帳面は。
完全に直っていた。
そして。
その横には。
小さな紙が一枚。
**次からは、先に話を通してください。**
と書いてあった。
俺は。
しばらくそれを見て。
笑った。
「お喜乃」
「はい」
「小野寺は、今日も来ます?」
「さあ」
「来ますよね?」
「どうでしょう」
「呼んでください」
「若君」
「何です」
「嫌がられておりますよ」
「知っています」
「では、なぜ」
俺は答えた。
「嫌だと言いながら、二冊目まで直したからです」
お喜乃が笑う。
「若君」
「はい」
「あなたも」
「何です」
「かなり面倒な相手を気に入りましたね」
俺は少し考え。
答えた。
「お互い様でしょう」
その時。
廊下の向こうから。
聞き覚えのある声がした。
「だから、もう呼ばないでくださいと申したでしょう!」
俺は立ち上がった。
「来ました!」
「嬉しそうですね」
「していません!」
だが。
多分。
ものすごく嬉しそうな顔をしていたのだと思う。
そして俺は。
この面倒な男を。
絶対に逃がさないと。
心の中で決めた。
……本人には。
もちろん。
まだ言わなかった。




