第18話 初めての部下は、私に仕えるのを嫌がった
「嫌です」
男は言った。
はっきりと。
迷いもなく。
「……はい?」
「ですから」
俺の前に座った男は、もう一度言った。
「若君にお仕えするのは、嫌でございます」
俺は黙った。
聞き間違いではなかったらしい。
「佐久間殿」
「はっ」
「今のは」
「私にも、そう聞こえました」
「そうですか」
「はい」
「では、私の耳がおかしくなったわけでは」
「ございません」
「そうですか」
俺はもう一度、目の前の男を見る。
二十二歳。
名を。
小野寺新吾。
下級の武士の家に生まれた。
剣術は、人並み。
馬術も、人並み。
身分も低い。
特別な家柄でもない。
だが。
算術に強い。
帳面を見るのが得意。
そして何より。
言いたいことを言う。
と。
佐久間から聞いていた。
なるほど。
確かに。
言いたいことを言う。
言いすぎではないだろうか。
「小野寺」
「はっ」
「もう一度聞きます」
「はい」
「私に仕える気は?」
「ございません」
「少しは考えてください!」
「考えました」
「いつ!」
「ここへ来る途中に」
「短い!」
「十分でございました」
「何が十分なのです!」
「若君にお仕えすると面倒だと判断するには」
俺は絶句した。
佐久間が。
横を向いた。
「佐久間殿」
「はっ」
「今、笑いました?」
「いいえ」
「右の頬が動きました」
「癖にございます」
「便利すぎますよ、その癖!」
小野寺新吾は。
俺たちを見ていた。
しかも。
かなり冷静な顔で。
それがまた腹立たしい。
「小野寺」
「はい」
「なぜ面倒なのです」
「本当に申し上げても?」
「そのために聞いているのです!」
「では」
小野寺は。
一度。
俺を見る。
五歳児を見る目ではない。
いや。
どんな目だ、これは。
面倒な仕事を前にした役人の目だ。
「若君は」
「はい」
「思いついたら、すぐやろうとなさいます」
「悪いですか」
「悪いとは申しません」
「では」
「周りが困ります」
「……」
いきなり来た。
「例えば」
小野寺は続ける。
「人を数える」
「はい」
「帳面を正す」
「はい」
「役人が休む理由まで記す」
「はい」
「英語を学ぶ」
「それは父上です」
「若君もでしょう」
「私は元から――」
危ない。
「夢で少し知っています」
「便利な夢ですね」
こいつまで。
まだ会ったばかりだぞ。
なぜ皆、こんなに早く俺の逃げ道を使いこなすのだ。
「とにかく」
小野寺は言った。
「一つ一つは、もっともでございます」
「でしょう」
「ですが」
嫌な予感がした。
最近。
「ですが」が怖い。
「何です」
「若君は」
小野寺は。
真顔で言った。
「自分が五歳であることを忘れておられます」
「……」
「外へ自由に出られぬ」
「はい」
「筆もまだ上手くない」
「それは関係ないでしょう!」
「ございます」
「どこが!」
「帳面を直したいと申されても、若君自身は綺麗な帳面を書けませぬ」
痛い。
物凄く痛い。
佐久間が顔を伏せた。
「佐久間殿!」
「何も申しておりませぬ」
「笑っています!」
「咳でございます」
「まだ咳!」
「長引いております」
「半年くらい長引いていませんか!」
「難しい病で」
「嘘をつけ!」
小野寺が少し眉を動かした。
「若君」
「何です!」
「やはり」
「何がです」
「面倒です」
「まだ何も始まっていません!」
「既に十分です」
失礼な男だ。
本当に。
失礼な男だ。
「では聞きます」
俺は言った。
「なぜ来たのです」
「呼ばれたからです」
「断ればいいでしょう」
「佐久間様から、殿のご意向でもあると」
俺は佐久間を見る。
「父上が?」
「殿には」
佐久間が答える。
「若君が、帳面に明るく、遠慮なく物を言える者を欲しておられると申し上げました」
「はい」
「すると」
「はい」
「『そんな物好きがおるのか』と」
「ひどくありませんか!」
「私もそう思いました」
「思っただけで父上に言ってください!」
「それはちょっと」
「なぜ!」
「私にも生活がございますので」
「前回の話を便利に使わないでください!」
小野寺が。
少しだけ。
笑った。
見逃さない。
「今、笑いましたね」
「はい」
「認めるのですか!」
「嘘をつく必要がございませんので」
「少しは遠慮してください!」
「それが必要でしたら」
小野寺は淡々と言った。
「別の者をお選びください」
俺は。
言葉を失った。
本気だ。
この男。
本当に。
俺に仕える気がない。
「小野寺」
「はい」
「私が誰か分かっています?」
「七郎麻呂様」
「徳川斉昭の息子です」
「存じております」
「将来は」
言いかける。
一橋家当主。
十五代将軍。
だが。
今、それは言えない。
「……偉くなるかもしれません」
我ながら。
かなり情けない言い方になった。
小野寺が一瞬黙る。
佐久間の右頬が動く。
「笑わないでください!」
「何も」
「今、絶対に笑いました!」
「若君」
小野寺が言う。
「何です」
「自分で申して悲しくなりませんでしたか」
「なりましたよ!」
正直に答えた。
悔しい。
「では」
俺は気を取り直す。
「もし私に仕えたら」
「はい」
「将来、重く用いるかもしれません」
「かもしれません?」
「今は約束できません!」
「では、お断りします」
「早い!」
「将来の不確かな出世と」
「はい」
「今すぐ確実に増える面倒」
「……」
「どちらを取るかと言われれば」
小野寺は言った。
「今の平穏を取ります」
正しい。
腹が立つほど。
正しい。
「小野寺」
「はい」
「あなた、出世欲はないのですか」
「ございます」
「あるのですか!」
「人並みには」
「では!」
「しかし」
小野寺は少しだけ表情を変えた。
「出世した結果」
「はい」
「朝から晩まで、若君の思いつきに振り回されるのであれば」
「思いつきではありません!」
「五歳の若君が国中の人間を数えたいと申されるのは、周囲から見れば十分思いつきです」
「必要だからです!」
「それを説明するのは誰です」
「……」
「反対する役人を説得するのは」
「……」
「帳面を作るのは」
「……」
「若君が嫌われた後、間を取り持つのは」
「……」
「若君が父君と喧嘩した後、周囲に頭を下げるのは」
「待ってください」
「はい」
「最後のは誰から聞いたのです!」
小野寺が佐久間を見る。
俺も見る。
佐久間は。
天井を見た。
「佐久間殿!」
「何でしょう」
「何でしょう、ではありません!」
「事実のみを」
「どこまで話したのです!」
「少々」
「絶対に少々ではない!」
ひどい。
俺の知らないところで。
俺の面倒くささが共有されている。
「若君」
小野寺が言った。
「何です」
「私には」
「はい」
「老いた母がおります」
俺は黙った。
声の調子が。
少し変わった。
「それと」
「はい」
「嫁入り前の妹が」
「……はい」
「家は貧しい」
小野寺は淡々と続ける。
「父は早くに亡くなりました」
「……」
「私が無茶をして職を失えば」
「……」
「困るのは私一人ではございません」
俺は。
言葉を失った。
また。
やってしまった。
俺は。
人材を見つけた。
算術ができる。
帳面が読める。
遠慮なくものを言える。
なら。
欲しい。
使いたい。
そう考えた。
でも。
この男には。
生活がある。
母がいる。
妹がいる。
守るものがある。
「……そうですか」
俺は言った。
「はい」
「では」
一度。
息を吸う。
「お断りします」
小野寺が。
初めて。
少し驚いた顔をした。
「よろしいので?」
「嫌なものを無理に仕えさせても」
「……」
「いい仕事はしないでしょう」
「それは」
「それに」
俺は少し笑った。
「あなたの言う通りです」
「何がです」
「私に仕えれば」
少し考える。
「多分、かなり面倒です」
「多分ではなく」
「そこは黙ってください!」
佐久間が笑った。
小野寺も。
ほんの少し。
笑った。
「では」
俺は言う。
「最後に一つだけ」
「何でしょう」
「この帳面を見てください」
俺は。
例の。
人数が合わない帳面を差し出した。
小野寺が見る。
受け取る。
頁をめくる。
一枚。
二枚。
三枚。
表情が変わった。
「……ひどいですね」
「でしょう!」
「若君」
「はい」
「喜ぶところではございません」
「すみません」
つい。
分かってくれる人がいた。
嬉しかった。
「どこがひどいです?」
「まず」
小野寺が指を置く。
「書き方が統一されていません」
「はい」
「同じ者の名が二度ある」
「やはり!」
「逆に」
次の頁。
「この者」
「はい」
「名字だけです」
「はい」
「同じ名字が三人おります」
「私も困りました!」
「それから」
「はい」
「この数字」
「何です」
「足し算が間違っています」
「……」
俺は固まった。
「もう一度」
「合計が三つ違います」
「なぜ今まで誰も!」
「確認しなかったからでしょう」
「小野寺!」
「はい」
「やはり仕えてください!」
「嫌です」
「早い!」
小野寺が帳面を閉じる。
「ただ」
「ただ?」
最近。
嫌なことばかりではないのかもしれない。
その「ただ」に。
俺は少し期待した。
「この帳面だけなら」
「……」
「直しても構いません」
俺は目を瞬いた。
「本当ですか」
「はい」
「なぜ」
「気持ちが悪いので」
「気持ちが悪い?」
「間違った足し算が、そのまま残っているのが」
俺は。
小野寺を見る。
こいつ。
もしかして。
「細かいですね」
「若君に言われたくありません」
「それはそうですね」
俺は素直に認めた。
小野寺が苦笑する。
「期間は?」
「三日」
「短いですね」
「これ以上は嫌です」
「四日」
「三日」
「五日」
「交渉が逆です」
「では七日」
「増やさないでください」
「十日」
「若君」
「何です」
「面倒です」
「まだ仕えてもいないのに!」
「だから断ったのです」
佐久間が。
とうとう声を上げて笑った。
◇
その日の夕方。
小野寺新吾は。
俺の家臣にはならなかった。
ただ。
三日だけ。
帳面を直すことになった。
その夜。
俺は自分の帳面に書いた。
**最初の部下――獲得失敗。**
少し考えて。
その下に。
**ただし、三日だけ手伝う。**
さらに。
**面倒だから仕えたくないと言われた。**
書いていると。
背後から声がした。
「その男、賢いな」
「うわっ!」
父だった。
「なぜ勝手に入るのです!」
「わしの屋敷だからだ」
「もう聞き飽きました!」
「なら慣れろ」
「嫌です!」
父は帳面を覗く。
「面倒だから仕えたくない、か」
「笑わないでください」
「笑っておらん」
「笑っています!」
「いや」
父は肩を揺らした。
「随分と人を見る目がある男だと思ってな」
「父上!」
「何だ」
「私はそれほど面倒ですか!」
「うむ」
「少しは迷ってください!」
「なぜだ!」
「息子ですよ!」
「だから知っておる!」
即答だった。
ひどい。
本当に。
ひどい父親だ。
でも。
後になって思えば。
あの日。
小野寺新吾が。
俺に仕えるのを断ったことは。
多分。
大事だった。
俺は。
権力があれば。
人は来ると思っていた。
未来を知っていれば。
優秀な者を集められると。
違った。
人には。
生活がある。
家族がある。
恐れがある。
面倒を避けたい気持ちもある。
そして。
何より。
こちらが欲しいからといって。
相手もこちらを選ぶとは限らない。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
小野寺新吾が。
正式に俺の家臣になるまで。
まだ。
少し時間が必要だった。
もっとも。
三日後。
帳面を直し終えた彼は。
真顔で。
「もう二度と呼ばないでください」
と言った。
そして俺は。
「では次は、この帳面を」
と。
二冊目を差し出した。
小野寺は。
しばらく俺を見た後。
深いため息をついた。
「……若君」
「はい」
「あなたは」
「はい」
「本当に、面倒です」
その時。
俺はまだ知らなかった。
その台詞を。
この男から。
この先。
何十年も聞かされることになるとは。




