第17話 役人にも生活がある
「若君」
「はい」
「本日は、帳面の確認を休ませていただけませんでしょうか」
その言葉を聞いた時。
俺は。
正直に言うと。
少し腹が立った。
昨日。
ようやく決めたのだ。
毎日すべてを書き直すのは無理。
だから月に一度。
新しく入った者。
辞めた者。
長く休んでいる者。
変更があった部分だけを確認する。
役人たちと話した。
譲った。
妥協した。
相手の事情も聞いた。
俺なりに。
かなり考えたつもりだった。
それなのに。
翌朝になって。
「休む?」
「は」
俺の目の前には。
昨日もいた四十代の役人が座っていた。
名は。
榊原庄兵衛。
昨日。
俺に、
『正しいことを申されるのは簡単にございます』
と言った男だ。
「なぜです?」
俺は聞いた。
「本日は、人手が足りませぬ」
「昨日も足りないと言っていました」
「はい」
「だから仕事を減らしました」
「はい」
「毎日の確認を月に一度にした」
「はい」
「変更箇所だけでいいとも」
「はい」
「何が問題です?」
俺の声が。
少し強くなった。
榊原は黙った。
その沈黙が。
余計に俺を苛立たせた。
「榊原殿」
「は」
「言ってください」
「……」
「昨日、正直に話してくれと言ったでしょう」
「はい」
「なら」
「若君」
榊原が顔を上げた。
「何です」
「昨日、この仕事を手伝っておりました甚兵衛が」
「はい」
「本日、休んでおります」
「なぜです」
「娘が熱を出しました」
「……」
俺は止まった。
「娘?」
「はい」
「何歳です」
「七つにございます」
「医者は?」
「呼んだと」
「病状は」
「まだ」
俺は何も言えなくなった。
榊原は続ける。
「もう一人」
「……はい」
「佐吉という者がおります」
「はい」
「妻が産気づきまして」
「……」
「昨日の夜より家へ戻っております」
「はい」
「それから」
「まだ?」
「はい」
榊原が申し訳なさそうに言った。
「帳面を運んでおりました文蔵が」
「今度は何です」
「腰を痛めました」
「……」
「立てぬほどではないのですが」
「でも運べない」
「はい」
俺は黙った。
何だ。
これは。
昨日。
役人たちと相談した。
これならできる。
そう思った。
そして。
翌日。
娘が熱を出す。
妻が産気づく。
腰を痛める。
「……聞いていません」
俺は言った。
榊原が少し困った顔をした。
「昨日は、まだ」
「違います」
「はい?」
「そうではなくて」
俺は額を押さえる。
「こういうことが起きるとは」
「……」
「聞いていません」
榊原は黙った。
すると。
部屋の隅にいた佐久間が。
「若君」
と声をかけた。
「何です」
「人は」
少しだけ。
右頬が動いた。
笑ってはいない。
今日は。
「予定通りには生きませぬ」
俺は。
反論できなかった。
◇
「でも」
俺は帳面を見る。
「今日休めば、仕事は遅れます」
「は」
「変更箇所の確認も」
「はい」
「給金に関わる者もいるのでは?」
「おります」
「なら」
言いかけた。
やれ。
そう言おうとした。
必要な仕事だ。
誰かがやらなければならない。
正しい。
間違っていない。
でも。
甚兵衛には七歳の娘がいる。
熱を出している。
佐吉の妻は。
今。
子供を産もうとしている。
文蔵は腰を痛めた。
「……他の人には頼めませんか」
「頼めぬことはございません」
「では」
「ただ」
まただ。
最近。
俺はこの「ただ」が怖くなってきた。
「ただ?」
「他の者にも仕事がございます」
「……」
「誰かをこちらへ回せば」
「……」
「その者がしていた仕事が遅れます」
「……」
「その遅れを補うため、また誰かを」
「分かりました」
俺は止めた。
「もう分かりました」
頭が痛い。
本当に。
頭が痛い。
「若君」
「何です」
「申し訳ございません」
「なぜ謝るのです」
「若君がお考えになったことを」
「……」
「予定通り進められませぬゆえ」
その言葉が。
妙に嫌だった。
「謝らないでください」
「しかし」
「私が」
一度。
言葉に詰まる。
「私が、勝手に予定を決めただけです」
榊原が俺を見る。
「でも」
俺は帳面を指す。
「困ります」
「は」
「仕事は必要です」
「はい」
「娘が熱を出しても」
「……」
「子供が生まれても」
「……」
「腰が痛くても」
「……」
「仕事そのものは消えません」
「はい」
これが。
嫌だった。
人に事情がある。
分かる。
休ませたい。
それも分かる。
でも。
じゃあ。
必要な仕事を誰がする。
優しさだけで。
帳面は直らない。
給金も払えない。
兵糧も準備できない。
「難しいですね」
思わず呟いた。
榊原が。
少しだけ笑った。
「はい」
「笑いました?」
「少し」
「正直ですね」
「若君が正直に申せと」
「そうでした」
俺も。
少し笑った。
「榊原殿」
「は」
「あなたならどうします?」
「私が?」
「はい」
「……」
「私が五歳だから、などと言わずに」
「まだ何も」
「顔に出ています」
「若君も最近、人の顔を読むようになられましたな」
「周りが皆そうなので」
父。
お喜乃。
佐久間。
みんな。
俺の顔を勝手に読む。
だから。
俺も覚えた。
「で?」
聞く。
榊原は少し考えた。
「本日の確認は休みます」
「やはり」
「ただし」
「また、ただし」
「はい」
「どうぞ」
「甚兵衛の分は、娘御の具合が落ち着いてから」
「はい」
「佐吉は」
榊原が少し困った顔をした。
「子が無事に生まれれば、三日ほどで戻ると言っております」
「三日?」
「はい」
俺は眉を寄せた。
「短くないです?」
「そうでしょうか」
「妻が子供を産んだのでしょう?」
「はい」
「三日で?」
「本人がそう申しております」
「なぜ」
「給金が減ると困るからです」
また。
何も言えなくなった。
「休めば給金が減る?」
「働かなければ」
「でも」
「若君」
榊原が静かに言った。
「役人にも」
一度。
間を置く。
「家族がおります」
「……」
「食わせねばなりませぬ」
「……」
「米を買います」
「……」
「薬も」
「……」
「子が増えれば、なおさら」
俺は。
俯いた。
当たり前だ。
こんなこと。
当たり前なのに。
俺は。
役人を。
仕事をする存在としてしか見ていなかった。
帳面を直す人。
数字を確認する人。
制度を動かす人。
でも。
家へ帰れば。
父親かもしれない。
夫かもしれない。
息子かもしれない。
借金があるかもしれない。
病人を抱えているかもしれない。
夫婦喧嘩をしているかもしれない。
酒を飲みたい日もある。
仕事をしたくない朝もある。
「……三日は」
俺は言った。
「短いです」
「しかし」
「五日にしましょう」
「若君」
「給金は減らさない」
榊原の顔が変わった。
「それは」
「無理ですか」
「前例が」
「前例」
「はい」
「では作ります」
「若君」
「駄目ですか」
榊原が困る。
佐久間も黙っている。
俺は。
少し嫌な予感がした。
「また何かあります?」
「若君」
佐久間が言った。
「一人に認めれば」
「はい」
「他の者も申します」
「……」
「なぜ佐吉だけ五日休んで給金が減らぬのか、と」
「なら」
俺は答えた。
「子供が生まれた人は、皆そうすれば」
「今度は」
「はい」
「誰がその分の仕事を」
「……」
戻った。
また。
同じところへ。
「では、どうすればいいのです!」
思わず声が大きくなった。
誰も答えない。
「休ませたい」
「……」
「でも仕事はある」
「……」
「給金を減らしたくない」
「……」
「でも金は無限ではない」
「……」
「何ですか、これ!」
俺は本気で腹が立った。
誰に。
分からない。
制度に。
現実に。
人間に。
自分に。
「全部正しいではありませんか!」
声が響いた。
「休むのも正しい!」
「……」
「仕事をするのも正しい!」
「……」
「給金が必要なのも!」
「……」
「金が足りないのも!」
俺は息を切らした。
五歳児なので。
少し怒鳴るだけで疲れる。
情けない。
すると。
榊原が。
静かに言った。
「ですから」
「はい」
「政治は、面倒なのでございましょう」
俺は固まった。
佐久間の右頬が。
少しだけ動いた。
「何です」
「いえ」
「今、笑いました?」
「いいえ」
「笑いましたね」
「若君が」
佐久間が言う。
「やっと、そのことにお気づきになったようですので」
「父上と同じようなことを言わないでください!」
「殿も喜ばれるでしょう」
「絶対に言わないでください!」
「なぜです」
「一生からかわれます!」
榊原が。
とうとう笑った。
俺も。
不本意ながら笑った。
◇
結局。
その日の帳面確認は休みにした。
代わりに。
俺は。
一つ決めた。
「人が休む理由を書きます」
「理由を?」
榊原が聞く。
「はい」
「何のために」
「何度も同じことが起きるなら」
俺は言った。
「仕組みにできるかもしれません」
「仕組み?」
「例えば」
考える。
「子供が生まれた」
「はい」
「家族が病気になった」
「はい」
「本人が病気になった」
「はい」
「そういう理由を」
俺は帳面を指した。
「記録します」
「……」
「同じ理由で休む人が多いなら」
「……」
「その時にどうするか、先に決められる」
榊原は黙った。
「仕事を代わる人」
「……」
「何日までなら給金を減らさないか」
「……」
「全部は無理でも」
少し笑う。
「毎回、一から喧嘩しなくて済みます」
榊原が。
少しだけ。
目を細めた。
「若君」
「はい」
「それもまた」
「何です」
「仕事が増えますな」
「……」
俺は固まった。
佐久間が吹き出した。
「佐久間殿!」
「申し訳ございませぬ!」
「笑いすぎです!」
「若君があまりにも」
「何です!」
「何かを減らそうとして、一つ仕事を増やすので」
「私も今気づきました!」
榊原まで笑った。
ひどい。
本当に。
だが。
俺も笑った。
「では」
言う。
「最初は簡単に」
「はい」
「印だけにします」
「印?」
「病気なら丸」
「はい」
「家族なら三角」
「はい」
「他の理由なら」
「四角?」
「なぜ分かったのです」
「何となく」
「では、それで」
「随分簡単ですな」
「簡単でいいのです」
俺は答えた。
「続かなければ意味がありませんから」
昨日までの俺なら。
もっと細かくしようとした。
本人の年齢。
家族構成。
病名。
日数。
原因。
全部。
でも。
やめた。
まず続くこと。
それから直す。
完璧は。
後だ。
◇
その日の夕方。
俺は。
甚兵衛の家へ、薬と少しの菓子を届けさせた。
自分で行くと言ったら。
父に止められた。
「なぜです!」
「お前は五歳だ!」
「それが何です!」
「病人の家へ勝手に行くな!」
「でも!」
「お前まで熱を出したら、わしが困る!」
「父上が?」
「皆がだ!」
「今、父上が困ると言いましたよね!」
「言っておらん!」
「言いました!」
「聞き間違いだ!」
「都合が良すぎます!」
結局。
行けなかった。
代わりに。
お喜乃が届けてくれた。
夜。
戻ってきたお喜乃が言った。
「喜んでおられましたよ」
「娘さんは?」
「まだ熱はございますが、医者は峠ではないと」
「そうですか」
胸の力が抜けた。
「よかった」
「はい」
「本当に」
「若君」
「何です」
「甚兵衛殿が」
「はい」
「明日は出ると」
俺は固まった。
「なぜ!」
「若君にご迷惑をかけたからと」
「迷惑ではありません!」
「そう申しておりました」
「休んでください!」
「私に言われても」
「お喜乃!」
「はい」
「今からもう一度行って!」
「嫌です」
「早い!」
「夜です」
「では明日の朝!」
「若君が直接おっしゃれば?」
「父上が外に出してくれません!」
「では殿を説得してください」
「そっちの方が難しいです!」
お喜乃が笑った。
俺は。
ため息をついた。
人間は。
本当に。
面倒だ。
休めと言えば。
働くと言う。
働けと言えば。
休みたいと言う。
優しくすれば。
申し訳ながる。
厳しくすれば。
傷つく。
正論を言えば。
嫌われる。
黙っていれば。
何も変わらない。
その夜。
俺は帳面へ。
一つ書いた。
**役人にも生活がある。**
当たり前だ。
あまりにも。
当たり前のことだ。
なのに。
俺は忘れていた。
もう一行。
**制度は、人間が制度のために生きるのではない。人間が生きるために使うものだ。**
そして。
少し考えた。
最後に。
**ただし、人間は勝手なので、こちらの思い通りには使ってくれない。**
「……これでいい」
「何がだ」
「うわっ!」
父がいた。
「なぜ勝手に入るのです!」
「ここはわしの屋敷だ」
「またそれ!」
父は帳面を覗く。
俺は慌てて隠した。
「見るな!」
「何を書いた」
「何でもありません!」
「見せろ」
「嫌です!」
「なぜだ」
「父上にからかわれます!」
「何を今さら」
「それが嫌なのです!」
父が笑った。
「そうか」
「何です!」
「お前にも」
「はい」
「少しは人の心が分かるようになったかと思ってな」
胸に。
何かが。
小さく刺さった。
「……少しは?」
「少しだ」
「父上は?」
「わしは昔から分かっておる」
「嘘です!」
「何だと!」
「昨日も玄庵先生を三回怒鳴ったでしょう!」
「あれは必要なことだ!」
「何のために!」
「気合を入れるためだ!」
「また気合ですか!」
結局。
また喧嘩になった。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
この時。
俺はまだ知らなかった。
間もなく。
俺の前に現れることになる。
最初の部下。
いや。
正確には。
**俺の部下になることを、真顔で拒否する男**を。
しかも。
その理由は。
「若君に仕えるのは、絶対に面倒だからです」
だった。
……失礼な男である。
もっとも。
後になって思えば。
彼は。
最初から。
かなり正しかった。




