第16話 正論を言ったら嫌われた
「ですから、毎日書き直せばいいのです」
俺がそう言った瞬間。
部屋の空気が死んだ。
本当に。
見事なくらい。
誰も何も言わない。
目の前には三人の役人が座っている。
一人は四十代。
一人は三十代。
もう一人は、まだ二十代だろう。
三人とも。
俺を見ている。
いや。
正確には。
四十代の男は俺を見ている。
三十代の男は床を見ている。
二十代の男は、俺を見ないように頑張っている。
そして。
俺の隣では、佐久間が目を閉じていた。
「……何ですか」
俺は聞いた。
誰も答えない。
「何か問題が?」
やはり答えない。
「佐久間殿」
「はっ」
「なぜ皆、黙っているのです」
「考えておるのでございましょう」
「何を?」
「どう答えれば、若君がお怒りにならないかを」
「怒りませんよ!」
三人の役人の肩が、同時に少しだけ動いた。
信用されていない。
「本当に怒りません」
俺はもう一度言った。
すると。
三十代の男が。
ほんの少し。
隣の男を見た。
その視線は。
お前が言え。
いや、お前が言え。
という。
実に分かりやすいものだった。
「何ですか」
「いえ」
「今、目で会話しましたよね」
「しておりませぬ」
「しました」
「気のせいにございます」
「父上と同じことを言わないでください!」
役人たちが。
また黙った。
しまった。
父上の名前を出すと。
余計に緊張する。
俺は一度、息を吐いた。
「いいですか」
「はっ」
「今の帳面では、実際に働いている人数と合っていない」
「は」
「辞めた人間が残っている」
「は」
「新しく入った人間が載っていない」
「は」
「給金を受け取っていない人までいる」
「は」
「なら」
俺は帳面を叩いた。
「毎日、変更があれば書き直せばいいでしょう」
正論だ。
間違っていない。
俺はそう思った。
すると。
四十代の役人が。
「若君」
と。
静かに言った。
「はい」
「恐れながら」
「何です」
「誰が、でございましょう」
「……何が?」
「誰が、毎日書き直すのでございましょう」
俺は少し黙った。
「それは」
帳面を見る。
「帳面を担当する者が」
「私にございます」
「では、あなたが」
「では」
男は続けた。
「今しております仕事は、誰がするのでございましょう」
俺は黙った。
「他の人に」
「皆、それぞれ仕事がございます」
「では、人を増やして」
「その者の給金は?」
「……」
「どこから出すのでございましょう」
「それは」
「それに」
男は。
まだ声を荒らげない。
むしろ。
静かだった。
だから余計に。
俺は何も言えなかった。
「毎日、何かが変わります」
「はい」
「病で休む者がおります」
「はい」
「親が倒れたので、村へ戻る者も」
「……」
「急に人手が足りなくなり、知り合いを連れてくる者も」
「……」
「今日だけのつもりが、ひと月になる者も」
「……」
「明日戻ると言って、そのまま戻らぬ者もおります」
「……はい」
「それを」
男は俺を見る。
「毎日、正確に」
一度。
言葉を切った。
「すべて」
もう一度。
「誰が確認するのでございましょう」
俺は答えられなかった。
すると。
二十代の役人が、小さく言った。
「しかも」
四十代の男が、ちらりと見る。
若い役人は一瞬ひるんだが。
続けた。
「人は」
「……はい」
「本当のことを申さないこともございます」
俺は彼を見る。
「どういう意味です」
「休みたいので、母が病だと申す者もおります」
「……」
「借金取りから逃げるため、急にいなくなる者も」
「……」
「給金を多く欲しくて、働いた日数をごまかす者も」
「……」
「逆に」
若い役人は少し声を落とした。
「家が貧しいので」
「……」
「本当は病でも、休んでいないと言い張る者もおります」
俺は。
完全に黙った。
前世なら。
データの正確性。
統計精度。
行政記録の標準化。
そんな言葉で説明できる。
しかし。
今。
目の前にいるのは。
データではない。
人間だ。
嘘をつく。
ずるをする。
でも。
その嘘にも。
理由がある。
「それでも」
俺は言った。
「正確な数字は必要です」
空気が変わった。
少しだけ。
冷たくなった。
分かった。
今。
嫌われた。
はっきりと。
「……はい」
四十代の男が答えた。
短い。
丁寧。
それだけ。
「必要なのです」
俺は繰り返した。
「人の数が分からなければ、食糧も。給金も。戦の備えも。何も決められません」
「ごもっともにございます」
「なら」
「若君」
男は。
初めて。
俺の言葉を遮った。
「正しいことを申されるのは」
静かな声だった。
「簡単にございます」
胸に刺さった。
「……簡単?」
「はい」
「私は」
「若君は、お間違いではございません」
「なら」
「ですが」
男の顔が。
ほんの少しだけ。
歪んだ。
「正しいからこそ」
言う。
「私どもは、困るのでございます」
俺は。
何も言えなかった。
「帳面を正せ」
「……」
「毎日書け」
「……」
「間違えるな」
「……」
「人に聞け」
「……」
「確かめろ」
「……」
「すべて」
男は言った。
「正しゅうございます」
でも。
その正しさを。
全部やる人間が。
ここにいる。
俺ではない。
彼らだ。
「……私が」
俺は言った。
「手伝います」
三人の役人が。
同時に俺を見た。
「何です」
「いえ」
「笑いたいなら笑ってください」
「滅相も」
「今、笑いましたよね」
「笑っておりませぬ」
「では、なぜ」
四十代の男が。
少し困った顔をした。
「若君」
「はい」
「字が」
「……」
「まだ」
「……」
「お上手ではないと」
俺は黙った。
佐久間が。
思い切り顔を伏せた。
「佐久間殿」
「はっ」
「今、笑いました?」
「いいえ」
「肩が揺れています」
「咳にございます」
「皆それですね!」
少しだけ。
空気が緩んだ。
ほんの少しだけ。
俺も。
悔しいが笑った。
「分かりました」
俺は言った。
「では」
帳面を見る。
「毎日書き直す案はやめます」
三人の役人が。
露骨に。
ほんの少しだけ。
安心した。
分かりやすいな。
「ただし」
その瞬間。
三人の顔がまた固くなった。
「そんな顔をしないでください!」
「いえ」
「今、絶対に嫌な予感をしましたよね!」
「滅相も」
「しました!」
「若君」
佐久間が言う。
「そこはお気づきにならぬ方が」
「気づきますよ!」
俺はため息をついた。
「毎日はやめます」
「は」
「十日に一度」
三人が黙る。
「多いですか」
誰も答えない。
「多いですね」
沈黙。
「では月に一度」
三人の視線が。
ほんの少しだけ。
互いに動いた。
俺は見逃さない。
「今、相談しました?」
「いいえ」
「しました」
「目が合っただけにございます」
「便利ですね!」
四十代の男が。
初めて。
少しだけ笑った。
「月に一度なら?」
俺が聞く。
彼は考える。
「……変更があった箇所だけならば」
「全部ではなく」
「はい」
「新しく入った者。辞めた者。長く休んでいる者」
「それなら」
男は。
隣の二人を見る。
二人も。
小さく頷いた。
「できると思います」
俺は。
少しだけ。
嬉しくなった。
「では、それで」
「は」
「それと」
三人の顔が。
また固くなる。
「だからそんな顔をしないでください!」
「若君の『それと』には、仕事が増える気配がございます」
三十代の男がぼそりと言った。
俺は固まった。
佐久間が。
とうとう声を出して笑った。
「佐久間殿!」
「申し訳ございませぬ」
「笑いすぎです!」
「若君」
四十代の男も。
少しだけ口元を緩めていた。
「何です」
「もう一つとは?」
「ああ」
俺は言った。
「何が面倒だったか、書いてください」
「……何が?」
「この変更をするのに」
俺は帳面を指す。
「どこが大変だったか」
「……」
「誰に聞くのが難しかったか」
「……」
「何が足りなかったか」
「……」
「それを」
少し考えて。
「正直に」
言った。
「私に教えてください」
四十代の男が。
俺を見る。
長く。
「なぜでございます」
「次に直すためです」
「帳面を?」
「いいえ」
俺は首を振った。
「やり方を」
男は黙った。
「皆が怠けていると思っていました」
「……」
「違いました」
「……」
「少なくとも」
俺は言った。
「全部が全部、怠けではなかった」
佐久間が。
静かに俺を見る。
「だから」
俺は続けた。
「今度は」
一度。
息を吐く。
「使う側が困る仕組みを」
少し笑った。
「なるべく減らしたいです」
四十代の男が。
初めて。
本当に。
少しだけ。
表情を緩めた。
「若君」
「はい」
「正直に申し上げても?」
「はい」
「最初は」
「はい」
「面倒な若君だと思っておりました」
「最初は?」
「……」
「今は?」
「……」
「今も?」
「……」
「今もですね!」
三人の役人が。
とうとう笑った。
俺も。
少し遅れて。
笑った。
正直だ。
本当に。
正直すぎる。
◇
その日の夜。
俺は帳面を開いた。
新しく書く。
**正論を言えば、人は動く。**
一度。
止まる。
違う。
その文字に線を引いた。
もう一度。
**正論を言えば、人は怒ることがある。**
これも少し違う。
考える。
そして。
書いた。
**正しいことを言うだけなら簡単だ。**
その下に。
**正しいことを、誰が、いつ、どの金で、どの時間を使ってやるのかまで考えろ。**
さらに。
少し迷って。
最後に。
**制度を作る者は、その制度のために残業する人間の顔を想像しろ。**
書いてから。
俺は固まった。
「残業?」
しまった。
この時代に。
通じるのか。
いや。
通じない。
消そう。
そう思った時。
「若君」
「うわっ!」
お喜乃だった。
「また妙なことを書いておられますね」
「見ました?」
「少し」
「どこから」
「ざんぎょう、とは?」
「そこだけ見ないでください!」
「何でございます?」
「長い夢の言葉です!」
「便利ですね」
「本当に便利です!」
俺は慌てて墨で消した。
お喜乃が笑う。
「若君」
「何です」
「今日はお疲れですか」
「少し」
「嫌われました?」
俺は固まった。
「なぜ分かるのです」
「お顔に」
「またですか!」
「はい」
「そんなに分かりやすいです?」
「かなり」
俺はため息をついた。
「嫌われました」
「まあ」
「正しいことを言ったのに」
「若君」
「はい」
「正しい人は」
お喜乃が言った。
「時々、一番面倒です」
「……」
「自分が正しいと知っておりますから」
胸に刺さった。
「それ」
「はい」
「今日二回目の痛いやつです」
「では、もう言わない方が?」
「いえ」
俺は首を振った。
「覚えておきます」
「そうですか」
「はい」
そして。
心の中で。
もう一つ。
書き加える。
**人間は、正しさで動くのではない。**
正しいから。
納得するとは限らない。
正しいから。
喜ぶとも限らない。
正しいからこそ。
誰かが困る。
誰かが怒る。
誰かが。
俺を嫌う。
それでも。
制度は変えなければならない。
だが。
変える側が。
正しさを振り回して。
人間を見なくなったら。
それは。
多分。
未来を救う改革ではない。
ただの。
迷惑な独善だ。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
俺が初めて知った。
正しい人間ほど。
時に。
自分が一番面倒な人間になっていることに。
気づかない。
ということを。
……もっとも。
その夜。
父にその話をしたところ。
「今頃気づいたのか」
と言われたので。
俺は本気で腹を立てた。
「父上にだけは言われたくありません!」
「なぜだ!」
「自覚がないのですか!」
「何の!」
「そこからです!」
結局。
屋敷には。
またいつものように。
親子の怒鳴り声が響いた。
正しい人間は面倒だ。
そして。
たぶん。
面倒な人間同士は。
今日も。
簡単には分かり合えない。




