第15話 父上、帳簿が合いません
人間を数える。
言葉にすれば簡単だ。
一人。
二人。
三人。
それだけである。
しかし。
俺は三日で悟った。
「……合わない」
朝から俺は帳面を睨んでいた。
「何がでございます?」
お喜乃が、俺の前に湯気の立つ茶を置く。
「人数です」
「まあ」
「まあ、ではありません」
「では、まあまあ?」
「増やしてどうするのです!」
お喜乃が笑った。
俺は笑えない。
本当に合わないのだ。
父から渡された帳面。
そこには、この屋敷で働く者の名前が書かれている。
侍。
小者。
中間。
女中。
料理人。
馬の世話をする者。
庭を整える者。
他にも色々。
問題は。
「帳面では百二十三人」
「はい」
「実際に聞いて回ったら百二十九人」
「六人多いですね」
「そうです!」
「よかったではありませんか」
「何がです?」
「人が増えました」
「そういう問題ではありません!」
頭が痛い。
六十二歳まで生きて。
政治。
社会。
歴史。
軍事。
国際関係。
色々研究した。
統計の大切さも知っている。
でも。
まさか。
五歳で。
屋敷の人数が六人合わない問題に悩むとは思わなかった。
「お喜乃」
「はい」
「六人はどこから来たのです」
「普通に働いておられるのでは」
「そうではなく!」
「では、どのように?」
「帳面にいないのです!」
「でも、屋敷にはいる」
「そうです!」
「なら、いるのでしょう」
「お喜乃!」
「はい」
「あなた、わざと私を困らせています?」
「少しだけ」
「認めましたね!」
最近。
本当に。
皆。
俺への遠慮がない。
少しは若君として敬ってほしい。
五歳だから無理なのか。
いや。
父への態度を見る限り、この屋敷の人間は慣れると誰に対しても強くなるらしい。
「それで」
俺は帳面をめくる。
「この六人です」
名前を読み上げる。
「新吉。留五郎。お松。お峰。勘八。弥作」
「はい」
「知っています?」
「何人かは」
「どの人を?」
「お松は台所におります」
「帳面にはいません」
「でもおります」
「それは分かっています!」
「お峰は?」
「洗濯を」
「帳面には?」
「いません」
「でも?」
「おります」
「お喜乃」
「はい」
「これを繰り返すつもりです?」
「若君が聞くので」
「聞き方を変えます」
俺は額を押さえた。
「なぜ帳面に載っていないのです」
「さあ」
「さあ?」
「私には分かりません」
「では誰なら?」
「帳面を作った方では」
正論だ。
腹が立つほど正論だ。
「分かりました」
俺は立ち上がる。
「聞きに行きます」
「どちらへ」
「帳面を作った役人のところへ」
「若君」
「何です」
「朝餉は?」
「あとで」
「駄目です」
「なぜ!」
「若君は空腹になると機嫌が悪くなります」
「元からです!」
言ってから。
違う。
そんな自覚はない。
「今のは違います」
「そうですか?」
「はい」
ぐううううう。
腹が鳴った。
俺は黙った。
お喜乃も黙った。
「……若君」
「何です」
「まず朝餉にしましょう」
「はい」
政治より。
統計より。
帳簿より。
五歳児の腹は強かった。
◇
朝餉を食べた後。
俺は父のところへ向かった。
なぜ役人のところではなく父のところか。
理由は簡単だ。
五歳児が一人で役人を呼びつけても、まず周囲が困る。
俺も困る。
相手も困る。
結局。
父の権力を借りるしかない。
悔しい。
だが。
政治とは。
使えるものを使うことでもある。
「父上」
「なんだ」
「帳簿が合いません」
「そうか」
「……」
「なんだ」
「それだけです?」
「他に何がある」
「驚いてください」
「なぜだ」
「六人も違うのです!」
「六人か」
「はい!」
「少ないな」
「少ない?」
俺は思わず聞き返した。
父は茶を飲む。
「それくらいなら、よくある」
「よくあっては駄目でしょう!」
「七郎麻呂」
「はい」
「世の中は、お前が思っておるほど綺麗には揃わぬ」
「でも」
「人が死ぬ」
「……」
「辞める」
「……」
「勝手にいなくなる」
「……」
「誰かの代わりに入る」
「……」
「届けが遅れる」
「……」
「忘れる」
「……」
「面倒だから後回しにする」
「最後のは駄目でしょう!」
「人間はする」
父があまりにも当然のように言った。
俺は黙った。
「父上」
「なんだ」
「それでいいのですか」
「よくはない」
「では」
「だが、ある」
「……」
「あるものを、あってはならぬと言って消えるなら苦労せぬ」
また。
時々。
この人は。
妙に核心を突く。
腹が立つ。
「父上」
「なんだ」
「また良いことを言いましたね」
「またとは何だ!」
「最近増えています」
「普段は言わぬように申すな!」
「褒めたのです!」
「褒め方が悪い!」
いつもの喧嘩になった。
少し安心する。
「それで」
父が帳面を受け取る。
「この六人か」
「はい」
「誰に聞いた」
「本人に」
「本人?」
「はい」
「お前が一人一人?」
「そうです」
父が俺を見る。
「何です」
「暇なのか」
「ひどい!」
「いや」
「私は真剣に!」
「分かっておる」
「ではなぜ!」
「五歳児が朝から屋敷を回って、名前と年を聞いておる姿を想像しただけだ」
「笑っていますね!」
「笑っておらん」
「口元が!」
「気のせいだ」
「父上!」
絶対に笑った。
この人。
最近。
俺をからかう楽しさを覚えていないか。
「それより」
父は帳面を見る。
「年齢も聞いたのか」
「はい」
「全員に?」
「はい」
「女にも?」
「……」
「聞いたのか」
「一部には」
父が笑った。
今度ははっきり。
「何です!」
「いや」
「笑うところではありません!」
「で」
「何です」
「怒られたか」
「……」
「怒られたのだな」
「少し」
「誰に」
「言いません」
「なぜだ」
「生きたいからです」
父がまた笑った。
腹が立つ。
でも。
実際。
聞いてはいけない人間はいる。
俺は学んだ。
一日で。
「ともかく」
俺は帳面を指した。
「この六人がなぜ載っていないのか、調べたいのです」
「佐久間」
父が呼んだ。
隣の部屋から。
「はっ」
例の右頬だけで笑う家臣が現れた。
俺はもう驚かない。
多分。
ずっと近くにいた。
「これを見ろ」
「は」
佐久間が帳面を見る。
六人の名前。
しばらく。
黙った。
「知っています?」
俺が聞く。
「何人かは」
「なぜ帳面にいないのです」
「……」
「佐久間殿?」
「若君」
「はい」
「世の中には」
「前にも聞きました」
「まだ何も申しておりませぬ」
「『答えない方が皆幸せな問いもある』でしょう」
「よく覚えておられますな」
「嫌な言葉なので」
佐久間が苦笑した。
そして。
帳面を指でなぞる。
「新吉は、前任の小者が病に倒れたため、急遽その代わりに入った者です」
「届けは?」
「まだ」
「いつから?」
「三月ほど」
「三月!」
「はい」
「三ヶ月もまだ?」
「忙しく」
「誰が?」
「皆です」
「便利ですね、その言葉!」
俺は次の名前を指す。
「留五郎は?」
「臨時で」
「いつから」
「半年ほど」
「臨時が半年!」
「長い臨時もございます」
「では、お松は?」
「台所の者の親類です」
「なぜ働いているのです」
「人手が足りず」
「給金は?」
「……」
「佐久間殿?」
「正式には出ておりませぬ」
俺は黙った。
「では」
少し嫌な予感がする。
「誰が払っているのです」
「台所の者たちが、少しずつ」
「自腹?」
「はい」
「なぜ?」
佐久間が。
困ったように笑った。
「そうしないと、仕事が回らぬからです」
俺は。
何も言えなかった。
父も黙っている。
「お峰は?」
「同じようなものです」
「勘八は?」
「父親が高齢になりまして、その手伝いを」
「弥作は?」
「……」
佐久間が止まった。
「何です」
「その」
「はい」
「帳面から消すのを忘れられた者の代わりです」
「……?」
「つまり?」
「帳面にいる者が、実際にはもうおりません」
俺は。
ゆっくり。
帳面を見る。
「待ってください」
「はい」
「では」
指で数える。
「六人多いのではなく」
「はい」
「本当は、他にも違う?」
「おそらく」
「どれくらい」
「調べてみなければ」
「……」
俺は頭を抱えた。
「父上」
「なんだ」
「帳簿が合いません」
「最初に聞いた」
「思ったより合いません!」
「そういうものだ」
「それで済ませないでください!」
思わず声が大きくなる。
「人の数が違う」
「うむ」
「働いているのに給金もない人がいる」
「うむ」
「辞めた人が帳面に残っている」
「うむ」
「臨時が半年!」
「うむ」
「誰もおかしいと思わないのですか!」
部屋が静かになった。
佐久間が俺を見る。
父も。
「おかしいとは思っておる」
佐久間が言った。
「ではなぜ」
「若君」
「はい」
「今日直せば、明日また別の者が病になります」
「……」
「誰かが辞める」
「……」
「新しく入る」
「……」
「その度に報告し、書き直す」
「当然では」
「そのための者を増やしますか」
「……」
「その者の給金は?」
「……」
「紙は?」
「……」
「誰が確認を?」
俺は黙った。
佐久間は続ける。
「正しくするには、金も人も時も要ります」
「でも」
「はい」
「だから間違っていていいわけでは」
「もちろん」
「なら」
「ただ」
佐久間は。
少し疲れた顔をした。
「今ある人手で」
「……」
「今ある金で」
「……」
「今日の仕事を回す」
「……」
「そうしているうちに」
苦笑する。
「帳面の一つや二つ、後になります」
俺は何も言えなかった。
前世なら。
こう言ったかもしれない。
非効率だ。
管理が甘い。
制度を整えろ。
数字を正確にしろ。
でも。
現場にいる人間は。
怠けているとは限らない。
むしろ。
仕事を回すために。
正式ではない人間を雇う。
自分たちで金を出す。
帳面を後回しにする。
それで。
今日を何とかする。
「……正論を言えば」
俺は呟いた。
「何だ」
父が聞く。
「皆、動くと思っていました」
「誰が」
「人が」
俺は帳面を見る。
「正しい仕組みにすれば」
「……」
「皆、喜ぶと」
佐久間が少し笑った。
「若君」
「はい」
「正しい仕組みは」
「……」
「大抵、誰かの仕事を増やします」
痛い。
ものすごく痛い。
「そして」
「はい」
「増えた仕事をするのは」
「……」
「仕組みを考えた人ではないことが多い」
さらに痛い。
俺は父を見る。
父が。
少しだけ。
得意そうな顔をしている。
「何です」
「いや」
「笑いたいなら笑ってください」
「珍しく弱気だな」
「今、少し傷ついています」
「そうか」
「優しくしてください」
「嫌だ」
「即答!」
佐久間が右頬を動かした。
今度は。
俺も少し笑った。
「でも」
俺は言った。
「やめません」
父を見る。
佐久間を見る。
「帳簿は直します」
「うむ」
「ただし」
少し考える。
「誰か一人に全部やらせません」
佐久間の表情が変わった。
「無理に一日で全部正しくもしない」
「……」
「まず、誰が困るか聞きます」
「……」
「何が面倒か」
「……」
「どうすれば続けられるか」
俺は。
自分に言い聞かせるように言った。
「正しい制度を作る前に」
少し間を置く。
「その制度を使わされる人間の話を聞きます」
父が。
何も言わずに俺を見た。
やがて。
「少しは賢くなったな」
と言った。
「失礼ですね!」
「昨日よりは」
「一日単位で評価しないでください!」
「五歳だからな」
「また年齢!」
佐久間が。
今度ははっきり笑った。
その日の夕方。
俺は帳面の最初の頁に。
新しく一行を書き加えた。
**数字が間違っている時、人間が怠けているとは限らない。**
もう一行。
**正しさには、費用がかかる。**
そして。
最後に。
**制度を作る者は、その制度で面倒を背負う人間の顔を忘れるな。**
そこまで書いた時。
お喜乃が俺の後ろから覗き込んだ。
「何を書いておられるのです?」
「人の大切さです」
「まあ」
「何です、その反応」
「いえ」
「言ってください」
「若君」
「はい」
「私の年齢は、まだ帳面に書かないでくださいね」
「……」
「若君?」
「聞いてもいません」
「本当に?」
「はい」
「では、よろしいです」
お喜乃が笑顔で去っていく。
俺はその背中を見送った。
そして。
帳面を開いた。
お喜乃の欄。
年齢。
空白。
「……これは」
呟く。
国家改革より。
難しい問題かもしれない。
黒船来航まで、あと十五年。
幕府滅亡まで、あと二十七年。
そして。
俺が初めて知った。
正論を言うだけでは。
人は動かない。
むしろ。
正論だからこそ。
時に。
一番嫌われる。
その事実を。
俺はまだ。
この時。
身をもって知ることになるとは思っていなかった。




