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『五歳の徳川慶喜に転生した大学教授、幕府滅亡まであと二十七年』 〜本能寺で信長を救えなかった俺は、今度こそ江戸幕府を終わらせない〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第14話 まず、人間を数えよう

「父上」


「なんだ」


「水戸には何人の人間が住んでいるのですか」


「……」


 朝。


 父――徳川斉昭は、茶を飲む手を止めた。


 俺は待った。


 父も黙っている。


「父上?」


「聞こえておる」


「では何人です?」


「たくさんだ」


「それは分かっています」


「なら聞くな」


「そういう問題ではありません!」


 父が不機嫌そうに眉を寄せた。


 俺も負けずに見返す。


 最近思う。


 俺たち親子が向かい合っている時。


 大体どちらかが眉間に皺を寄せている。


 あるいは両方だ。


 将来。


 俺も父のような顔になるのだろうか。


 嫌だ。


 いや。


 父の顔が悪いと言っているわけではない。


 ただ。


 もう少し穏やかに歳を取りたい。


「七郎麻呂」


「はい」


「今、何か失礼なことを考えておったな」


「なぜ分かるのです」


「顔に出ておる」


「最近、皆それを言います」


「なら直せ」


「どうやって?」


「知らん」


「無責任ですね!」


 また脱線した。


 俺は咳払いする。


「とにかくです。水戸藩には何人の人間がいます?」


「だから、たくさんおる」


「男は?」


「おる」


「女は?」


「おる」


「子供は?」


「おる」


「老人は?」


「おる」


「全部『おる』ではありませんか!」


「実際おるのだから仕方あるまい!」


「人数を聞いているのです!」


「細かい男だな!」


「国を治めるのに必要なのです!」


 俺は思わず声を上げた。


 すると。


 部屋の隅に控えていた年配の家臣が、少しだけ視線を上げた。


 名を佐久間というらしい。


 ここ数日、父との話し合いに同席することが増えた男だ。


 年は五十前後。


 痩せている。


 口数は少ない。


 だが。


 笑いを堪える時に右の頬だけ動くので分かりやすい。


「佐久間」


 俺は呼んだ。


「はっ」


「今、笑いました?」


「いいえ」


「本当に?」


「はい」


「右の頬が」


「若君」


「何です」


「それより、人数のお話では」


 逃げた。


 この家臣も最近強い。


 父が鼻を鳴らす。


「ほら。お前が話を逸らしておる」


「父上に言われたくありません!」


「わしは逸らしておらん」


「最初に『たくさん』で終わらせようとしたでしょう!」


「あれで十分だ」


「十分ではありません!」


「なぜだ!」


 ようやく。


 本題に戻った。


 俺は一度、息を吐いた。


「父上」


「なんだ」


「戦になった時、兵を何人出せます?」


「……」


「食糧は何日分?」


「……」


「病人は何人?」


「……」


「働ける人間は?」


「……」


「田畑を耕す者は?」


「……」


「鉄砲を使える者は?」


「七郎麻呂」


「はい」


「お前は人に答えられぬ質問を立て続けにする癖があるな」


「答えられないのが問題なのです」


「知らぬものは知らぬ!」


「威張らないでください!」


 父は腕を組んだ。


 開き直った。


 本当に。


 この人は時々、潔いほど開き直る。


「なら聞く」


 父が言った。


「なぜ、人の数が必要なのだ」


「国を知るためです」


「国?」


「はい」


 俺は少し考える。


 どう説明する。


 現代なら。


 国勢調査。


 人口統計。


 年齢別人口。


 産業別就業者数。


 出生率。


 死亡率。


 税収。


 識字率。


 様々な数字がある。


 もちろん。


 数字がすべてではない。


 だが。


 数字すらなければ。


 国がどんな状態なのか。


 まともに判断できない。


「父上」


「なんだ」


「例えば、この屋敷に米が百俵あるとします」


「うむ」


「食べる者が十人なら?」


「しばらく困らぬ」


「千人なら?」


「足りぬ」


「では、人の数を知らずに米だけ数えて意味があります?」


「……」


「逆もです」


「逆?」


「人が百人いる。それだけ分かっても、全員子供なら戦には出せません」


「当然だ」


「全員老人でも」


「当然だ」


「全員男でも、田を耕す者がいなければ?」


「困る」


「病人ばかりなら?」


「もっと困る」


「だから」


 俺は言った。


「人間を数えたいのです」


 父は黙った。


「ただ何人いるかだけではありません」


「他に何を数える」


「年齢。男女。仕事。住んでいる場所。家族。病気。田畑。家畜。できれば読み書きができるかも」


「待て」


「はい」


「多すぎる」


「最初から全部は無理です」


「当たり前だ!」


「ですが、少しずつなら」


「誰がやる」


「役人が」


「嫌がるぞ」


 即答だった。


 俺は黙った。


 父は少しだけ口元を緩める。


「何だ」


「いえ」


「申せ」


「珍しく父上が現実的なことを言ったので」


「いつも現実的だ!」


「それはどうでしょう」


「七郎麻呂!」


「はい!」


 また怒鳴られた。


 佐久間の右頬が動いた。


 笑っている。


「佐久間」


「はっ」


「今度は笑いましたね」


「いいえ」


「右の頬が」


「癖にございます」


「便利な癖ですね!」


「若君の夢ほどでは」


 とうとう佐久間まで使い始めた。


 俺は頭を抱えた。


 この屋敷。


 本当に。


 俺の逃げ道を次々と奪っていく。


     ◇


「それで」


 父が言った。


「なぜ役人が嫌がると思う」


「父上が言ったのでしょう」


「お前に聞いておる」


「……」


 試されている。


 少し腹が立つ。


 だが。


 答える。


「仕事が増えるからです」


「うむ」


「間違えれば責められる」


「うむ」


「これまで適当に済ませていたものが、数字に残る」


「うむ」


「場合によっては」


 俺は少し止まった。


「困る人も出ます」


 父の目が変わる。


「例えば」


「帳簿をごまかしている者」


「……」


「本当はもっと米があるのに、少なく報告している者」


「……」


「税を逃れている者」


「……」


「逆に、役人に実際より多く取られている百姓」


「……」


「数えることで」


 俺は言った。


「今まで見えなかったことが見えます」


 部屋が静かになる。


 父が佐久間を見る。


「佐久間」


「はっ」


「水戸の帳簿は正しいか」


 佐久間が。


 見事に黙った。


 俺は父を見る。


 父も佐久間を見る。


「佐久間」


「はっ」


「聞こえなかったか」


「聞こえております」


「では答えよ」


「……」


「佐久間」


「殿」


「なんだ」


「世の中には」


 佐久間は慎重に言った。


「答えない方が皆幸せな問いもございます」


 俺は吹き出した。


 父は吹き出さなかった。


「どういう意味だ」


「そのままにございます」


「正しいのか」


「概ね」


「概ね?」


「はい」


「どの程度だ」


「それは……」


「申せ」


「殿」


「なんだ」


「お怒りになります」


「怒らん」


「本当に?」


「多分」


 俺は思わず言った。


「信用できませんね」


「七郎麻呂は黙っておれ!」


「ほら!」


「お前に怒っておるだけだ!」


「別ではありません!」


 佐久間が目を閉じた。


 困っている。


 本当に困っている。


 少し可哀想になった。


「佐久間殿」


「はっ」


「正確でない理由は?」


 俺が聞いた。


 佐久間は俺を見る。


 父も。


「誰かが悪いのですか」


 少し間。


 佐久間は答えた。


「それだけではございません」


「では?」


「数えるにも、人が要ります」


「はい」


「紙も」


「はい」


「時も」


「はい」


「村ごとに事情も違います。百姓は警戒いたします。役人も忙しい。庄屋も隠すことがある。逆に、悪意なく間違う者もおります」


「……」


「一つ正せば」


 佐久間は苦笑した。


「三つ別の間違いが見つかります」


 俺は黙った。


 なるほど。


 現実だ。


 統計を取れ。


 国勢調査をしろ。


 現代なら簡単に言える。


 でも。


 この時代には。


 役人の数も限られる。


 識字。


 交通。


 情報伝達。


 すべてが違う。


「それでも」


 俺は言った。


「始めるべきです」


 佐久間が俺を見る。


「なぜでございます」


「間違っていても」


「……」


「最初の数字がなければ」


 俺は少し笑った。


「次に間違いを減らすこともできません」


 佐久間は黙った。


 父も。


「完璧な帳簿を作ろうとすれば、何年かかるか分かりません」


「……」


「だから最初は不完全でいい」


 俺は言った。


「ただし」


「ただし?」


「不完全だと分かった上で使うのです」


 父が鼻を鳴らした。


「難しいことを簡単に申す」


「そうですか」


「人は数字を見ると信じる」


「……」


「百と書けば」


 父は言った。


「本当は九十でも百十でも、百だと思う」


 俺は父を見た。


 意外だった。


「父上」


「なんだ」


「また良いことを言いましたね」


「またとは何だ!」


「最近、時々あります」


「普段はないように言うな!」


「褒めたのに!」


「褒め方が悪い!」


 佐久間の右頬が動いた。


 俺は見逃さなかった。


「今、笑いましたね」


「癖です」


「便利すぎませんか、その癖!」


     ◇


 その日の午後。


 俺は一冊の帳面を渡された。


 薄い。


 本当に薄い。


「何です、これは」


「お前が欲しがったものだ」


 父が言う。


「人の数ですか?」


「一部だ」


「一部?」


「まず、この屋敷の中から数えろ」


 俺は黙った。


「……屋敷」


「そうだ」


「藩ではなく?」


「いきなり藩中を数えられると思ったか」


「いえ」


「思っておった顔だな」


「少しだけ」


「馬鹿だな」


「ひどい!」


 父は鼻を鳴らした。


「まず、自分の足元を知れ」


「……」


「この屋敷に何人いる」


「分かりません」


「男は」


「分かりません」


「女は」


「分かりません」


「仕事は」


「分かりません」


「ほら」


 父が少し得意そうな顔をした。


 腹が立つ。


「父上」


「なんだ」


「嬉しそうですね」


「何がだ」


「私が分からないと言ったので」


「そんなことはない」


「あります」


「ない」


「あります」


「ない!」


「子供ですか!」


「お前に言われたくない!」


 まただ。


 でも。


 俺は帳面を見る。


 屋敷。


 ここにいる人間すら。


 俺は全部知らない。


 お喜乃。


 佐久間。


 玄庵。


 青山先生。


 父。


 他にも。


 名前も知らない。


 顔も知らない。


 仕事も知らない。


 たくさんいる。


 俺は。


 日本を救うと言った。


 幕府を変えると言った。


 でも。


 目の前の屋敷に何人いるかすら知らない。


「……なるほど」


 呟いた。


「何がだ」


「父上」


「なんだ」


「少し悔しいですが」


「うむ」


「父上の言う通りです」


 父が固まった。


「どうしました」


「気持ちが悪い」


「なぜです!」


「お前が素直だと不安になる!」


「親としてどうなのです!」


 佐久間が。


 また右頬だけ動かした。


 俺は見た。


 でも。


 今度は何も言わなかった。


 帳面を開く。


 最初の頁。


 真っ白。


「まず」


 俺は言った。


「この屋敷の人間を数えます」


「うむ」


「名前」


「うむ」


「年齢」


「うむ」


「仕事」


「うむ」


「家族」


「待て」


「何です」


「全部聞くのか」


「はい」


「嫌がるぞ」


「なぜ」


「年を言いたくない女もおる」


 俺は黙った。


 お喜乃の顔が浮かんだ。


 確かに。


 聞き方を間違えれば。


 かなり怒られそうだ。


「父上」


「なんだ」


「お喜乃は何歳です?」


「自分で聞け」


「嫌です」


「なぜだ」


「怖いので」


 父が笑った。


 はっきりと。


「何です!」


「いや」


「笑いましたね!」


「お前にも怖いものがあるのだな」


「あります!」


「異国は怖くないくせに」


「異国より身近な人間の方が怖い時もあります!」


「それは分かる」


 妙に真剣に。


 父が頷いた。


 多分。


 父にも思い当たる人がいるのだろう。


 誰かは聞かないことにした。


 怖いから。


 その夜。


 俺は帳面の最初に書いた。


 **まず、人間を数える。**


 そして。


 少し考えて。


 その下へ。


 **ただし、年齢を聞く相手は選ぶこと。**


 書き終えた時。


 背後から声がした。


「若君」


「うわっ!」


 お喜乃だった。


「何を書いておられるのです?」


「何でもありません」


「またですか」


「便利なので」


「見せてください」


「嫌です」


「なぜ?」


「生きたいからです」


「……?」


 お喜乃が不思議そうに首を傾げる。


 俺は帳面を閉じた。


 未来を変える。


 国を変える。


 その最初の一歩は。


 思っていたより。


 地味だった。


 戦でもない。


 大砲でもない。


 黒船でもない。


 ただ。


 人を数える。


 名前を知る。


 何をしているか知る。


 それだけ。


 でも。


 きっと。


 国とは。


 地図ではない。


 城でもない。


 将軍でもない。


 人だ。


 名前のある。


 腹が減り。


 怒り。


 嘘をつき。


 笑い。


 歳を隠したがる。


 面倒な人間たちだ。


 黒船来航まで、あと十五年。


 幕府滅亡まで、あと二十七年。


 そして。


 俺がこの屋敷の人数を正確に把握するまで。


 ……まずは。


 お喜乃に年齢を聞く勇気が必要だった。


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