第1話 魔獣より怖いもの
「食事は、何を出しても同じだ」
黒い鎧の男が言った。
私は鍋の蓋を閉め、彼へ向き直った。
「それは、味に注文がないという意味ですか。それとも、味がしないという意味ですか」
食堂にいた騎士たちが、一斉に手を止めた。
薪の爆ぜる音だけが、やけに大きい。
男は、淡い灰色の目を私へ向けた。
「後者だ」
そこで初めて、求人票にあった、妙に高い給金の理由が分かった。
北の砦。黒鷲騎士団。住み込みの料理人一名。
魔獣との戦闘あり。避難訓練あり。
食事に関する特殊な事情あり。
特殊な事情とは、百二十人全員が、食べ物を灰のように感じることだった。
「五年前、砦の結界を支える誓約を結んだ。代償として、食の喜びを失った」
男は団長のレオン・バルト。
魔獣を一太刀で斬り伏せる、北の黒鷲。
王都では、血も涙もない男と言われていた。
今の私には、空の皿を前にした、二十九歳の男性に見えた。
「食べられないものはありますか」
「毒でなければ」
「そういう話ではなくて」
副団長のミラさんが咳払いをした。
「食材の申告書は、厨房にあります。先生が確認したものです」
「ありがとうございます」
私は厨房へ戻った。
大きな鍋には、豆と肉の煮込み。途中で辞めた料理人が、朝に仕込んでいたものだ。
焦げてはいない。塩が、少し足りなかった。
火の番を頼み、自分の分だけ、残っていた米を炊くことにした。
私はセナ。二十二歳。
伯爵家に生まれ直す前は、小さな定食屋で料理をしていた。
この世界で十歳のとき、熱を出して、前世のことを思い出した。
得意なのは剣でも、神託でもない。空腹の人へ、温かい食事を出すことだ。
三日前、私は王宮から追い出された。
聖女候補として半年も神殿へ通ったのに、判定の宝珠が光らなかった。
「偽物だったのか」
婚約者のラセル王子が、私を見下ろしていた。
私が聖女だと言い出したのは、神殿の方だったのに。
「我々を欺いた責任として、婚約は解消する。王都からも去れ」
神官長サヴァンは、何も言わなかった。
教わった通りに祈った。何度も同じ検査を受けた。それでも駄目だった。
遠い領地で暮らす両親へ、事情と無事を知らせる手紙を書いた。
帰る前に、自分で働ける場所を探したかった。
身分より手際を見てくれたのが、この砦だった。
炊いた米に、塩を少し。
この国でも米は食べる。ただ、北では粥にすることが多いらしい。
清潔な布と水を用意して、熱の落ち着いた米をむすんだ。
丸いのと、三角。
形で味は変わらないのに、私は三角にすると落ち着く。
「それは、何だ」
厨房の入口に、レオンが立っていた。
「塩むすびです。私の夕飯に」
彼は、皿へ目を落とした。
視線が、離れなかった。
「食べますか」
「君の分だろう」
「二つあります。まず、小さい方でよければ」
彼は、私の返事を待ってから手を伸ばした。
一口。
咀嚼が、止まった。
まずかっただろうか。
米が硬い? 塩が多い?
彼の手が震えた。
「……塩だ」
低い声が、掠れた。
「米が、甘い」
男は、次の一口を食べなかった。
飲み込むのが惜しいみたいに、口を閉じていた。
その目から、涙が一筋落ちた。
魔獣より怖いものがあると、私は思った。
誰かが、ただの夕飯に泣くこと。
それが日常になってしまうことだ。
「団長?」
ミラさんが、戸口で立ち止まった。
レオンは、むすびを持ったまま言った。
「彼女の食事に、味がある」
廊下で、金属の器が落ちた。
「俺も」
「俺も、一口」
食堂から、椅子の引かれる音がした。
私は、残りの米を見た。
「皆さん、並んでください! 私の夕飯一つで、騎士団全員は養えません!」




