逃亡
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」
暗闇の中、足早に森を抜けようとしているのがわかる。幸か不幸か、月明りが足元を照らしてくれている。時折体にあたる木の葉の音、踏みつける小枝の割れる音、そして青年の息遣い…、ラーナがわかっていることは、自分がたった今、誘拐されている、という事実。
恐怖しかなかった。
この村に連れてこられたときの、不安の比ではない。
『誰か!』と叫びたくても、口をふさがれているので声にならない。
『私…どうなるの?』じわりと涙がうかんできた。
しばらく進んだところで、青年はラーナを降ろした。背中に何かの堅さを感じて、木を背もたれにできるよう降ろされたことが分かった。青年は息を整えながら、ラーナに向かって言った。
「ハァ、ハァ…少し休憩だ。さすがの俺もあんたを抱えたままじゃ、夜通し走るのは無理がある。ハァハァ…」どうやら彼も、木に寄りかかって座っているようだった。
視界も両手足の自由も利かないラーナは、ただ黙って聞いていた。
「悪いがあんたには、リサーマス国に行ってもらう。」
『!? グリナリア王国北方の隣国じゃない!なぜ!?』
「あんたに直接的な恨みはねぇが、聖女を連れて行けば、俺はまた母さんと暮らせるんだ。あんたにはわからねぇだろうけどよ、俺にとっては意味があるんだ。」
『どういうこと!?聖女の伝説は、グリナリア王国極秘事項ではなかったの!?なぜリサーマス国が聖女の…私の存在を知っているの!?そして私は…誰に引き渡されるの?……』
自分の理解をはるかに超えることが、自分の知らない場所で、しかも国を越えて、企みとなって動いている。聖女の力を知り得ていなければ、こんな大それた行動は起こさないだろう。
「あんたがどんなことできて、どんな力があって、どこまで利用価値がある人間なのかはわからねぇけどよ…、あんた、これから大変だな。」青年は、同情しているようで、どうでもいいような、妙な言い方で話しかけて来た。もちろんラーナに返事はできない。
『この子…私の力を知らされていない…。ということは、ただ私を誘拐するためだけに、何者かに使われているということだ。私を引き渡したあとで、もしかしたらこの子の命も危ないかもしれない…。』
ラーナは青年の話を聞くうちに、彼が利用されているのではと、逆に心配になってきてしまった。
『この口枷さえなければ、説得ができるかもしれないのに!』ラーナは悔しくて、無意識に、
「ウー、ウー!」とうなり声を上げていた。それを聞いた青年が、
「お、元気になってきたな。こっちはそれじゃ困るからな。そろそろ行くか。」と言って立ち上がった。ラーナにまた恐怖が襲ってきた。ここから先へ移動すれば、もう帰ってくることは困難だろう。ラーナの頭の中に、レイノルズの顔が浮かんできた。
『レイル…、頑張って生きていれば、また私を見つけてくれる?』ラーナはまた涙ぐんだ。途端ラーナの体がフワッと浮いた。また青年に担がれたのだ。
『カイリ、今頃心配して辺りを探しているころかしら…。聖女を守る使命は、どこに行ったのよ…。』とうとう涙がこぼれてきた。そんなことを知りもしない青年は、よいしょ、と動き出そうとしていた。その瞬間、ザッ!と風が細く、激しく抜ける音がした。同時に、
「うっ!!」という青年の声が聞こえ、ラーナの体がグラッと揺れ、ゆっくりと地面に近づいた。




