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STR全振り脳筋ヒーラーは恋をする  作者: 白月つむぎ


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9 梅雨空と一粒の雫

 六月も下旬に差し掛かり、季節は本格的な梅雨のただ中にあった。


 分厚く灰色の雲が空を覆い尽くし、朝陽の気配を完全に遮断している。

 雨こそ降っていないものの、大気は水分をたっぷりと含んでおり、呼吸をするたびに肺の中へ重たい湿り気が入り込んでくるような息苦しさがあった。


 いつもより三十分ほど早く家を出た私は、生徒の数がまだまばらな昇降口の近くで冷たいタイル張りの壁を背にして立っていた。

 制服のブラウスが肌に張り付く不快感に耐えながら、私は右手を制服のスカートのポケットに入れたまま、中にある小さなフェルトの感触を何度も指先で確かめていた。


 昨日、家庭科室で縫い上げた猫のお守り。

 水色の組み紐で結ばれたその小さなフェルト生地の塊は、私の体温を吸って僅かに温かくなっていた。


 もうすぐ、先輩のテニス大会が始まる。

 親からの過剰な期待と、強豪校のエースとしての責任。

 そのすべてを背負って戦う彼女に、少しでも笑ってほしくて作ったものだ。


 けれど、いざ渡すとなると、私のような冴えない後輩がこんな手作りの品を押し付けて、かえって重荷にならないだろうかと不安が押し寄せてくる。

 ポケットの中のフェルトを強く握り締め、深呼吸を繰り返す。

 湿った土とアスファルトの匂いが鼻をかすめた。


 どれくらいそうして待っていただろうか。

 通学路の方から、見覚えのある姿が歩いてくるのが視界に入った。

 栞先輩だった。


 指定のスクールバッグを持ち、肩には大きなラケットバッグを提げている。

 肩の長さで切り揃えられた内巻きのボブヘアは、湿気のせいかいつもより少しだけ広がりを見せていた。


 周囲の生徒たちが次々と先輩に挨拶をしている。

 頑張ってください、応援しています、絶対に勝てますよ。

 そんな無責任で残酷な激励の言葉を投げかけられるたびに、先輩は立ち止まり、明るい声で返事をしていた。


 誰もが、彼女の完璧なエースとしての姿しか見ていない。

 誰も、彼女の手のひらにできた無数の痛々しい豆と、擦り切れた傷跡を知らないのだ。


 先輩が昇降口に近づき、壁際に立つ私の姿を認めた。

 彼女の大きな瞳が微かに見開かれ、そして、いつものように花が咲くような笑顔を向けてくれた。


「おはよう、茉莉花ちゃん。今日はすごく早いね」


 私に向けられた声は、とても優しく、高く澄んでいた。

 けれど、私は彼女の顔を見て、胸の奥が鋭く痛むのを感じた。

 笑っているのに、その笑顔は薄い氷のように脆く、不自然に引き攣っているように見えたからだ。


 目の下には僅かに疲労の色が浮かび、肩は目に見えない重圧をこらえるように固く強張っている。

 限界が近いことは、誰の目にも明らかだった。

 周囲の人間は彼女の強さを盲信しているから気づかないだけで、あの深夜の掠れた声を、本当の弱さを知っている私には痛いほど伝わってきた。


 私は壁から背中を離し、先輩の正面へと一歩踏み出す。


「おはようございます、栞先輩。あの、先輩を待っていました。これ、受け取ってください」


 震えそうになる声を腹の底に力を入れて押し殺し、私はポケットから右手を引き抜いた。


 手のひらに乗せた小さな猫のお守りを、真っ直ぐに先輩へと差し出す。

 先輩は目を瞬かせ、私の手のひらにあるものを見つめた。


「お守り……これ、茉莉花ちゃんが作ってくれたの?」


「はい。昨日の放課後、家庭科室で縫いました。先輩が連絡先を交換した時に送ってくれた、あの猫のスタンプの柄です」


 私が答えると、先輩は小さな声で礼を言い、ラケットバッグの持ち手を肩にかけ直して空いた右手でお守りを受け取ろうと手を伸ばしてきた。


 ――その瞬間、先輩の動きが完全に止まった。

 彼女の視線が、お守りではなく、お守りを差し出している私の手先に注がれていることに私は気づいた。


 私の右手の人差し指と親指には、小さな絆創膏がいくつか巻かれていた。

 家庭科の特待生に匹敵すると自負している私の指先は、どれほど急いでいても決して手元を狂わせることはない。

 けれど、何色もの糸を使い分け、厚いフェルト生地に何百回と針を通し続ける昨日の作業は、確実に指先を酷使していた。


 糸の張りを完璧に微調整し、市販品以上の細やかな刺繍を施すため、私はあえて指貫を外し素手で極細の針を力強く押し込み続けたのだ。

 その結果、針の背と糸の強い摩擦によって指先の皮が擦り切れ、小さな豆のように赤く腫れ上がってしまった。


 大切な作品を少しでも汚さないよう急いで絆創膏を巻き、またすぐに針を握り直した結果がこの指先だった。

 先輩の視線が、私の絆創膏だらけの指と、自分が差し出した痛々しい豆だらけの手のひらを交互に往復する。


 ラケットを振り続けてできた、孤独な重圧の証である先輩の傷。

 完璧な祈りを形にするため、極限の集中力で針を握り続けてできた私の傷。

 種類はまったく違うけれど、傷を隠した互いの指先が交差した瞬間――先輩の瞳が大きく揺れ動くのが分かった。


「茉莉花ちゃん、その指」


「先輩の手の豆の痛みを、私が代わってあげることはできません」


 先輩の言葉を遮るように、私は強い口調で言った。

 これ以上、彼女に気を遣わせてはいけない。

 私の指の擦り傷は、私が最高のお守りを作るために勝手に選んだ勲章のようなものだ。


 私は先輩の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、言葉を紡ぎ続けた。


「私がどれだけ祈っても、試合で先輩を直接助けることはできません。でも、先輩が誰にも見えないところで、一人で傷だらけになるまで頑張ってきたこと、私は知っています。周りの人が何を言っても、親御さんがどんな結果を求めても、私はそんなものどうでもいいです」


 息を吸い込む。

 湿った空気が喉の奥を冷たく刺激するが、不思議と声は震えなかった。


「このお守りは、試合に勝つためのものじゃありません。ただ、栞先輩自身が、少しでも笑えるようにって。先輩が一人じゃないって思えるようにって、それだけを祈って作りました。だから、一人で全部を背負わないでください」


 昇降口の周囲の喧騒が、遠ざかっていくような感覚があった。

 私の言葉を聞き終えた先輩は、差し出された私の手からゆっくりとお守りを受け取った。


 ――その瞬間。

 先輩の大きな瞳から、透明な雫が一粒零れ落ちた。


 それは重力に従って彼女の頬を滑り落ち、制服の襟元へと吸い込まれていく。

 一粒落ちると、まるで堰を切ったように次から次へと涙が溢れ出し、先輩は手にした猫のお守りを両手で包み込むようにして胸元に押し当て、深く俯いてしまった。


 周囲からは常に完璧なエースとして見られ、誰もが彼女の勝利を信じて疑わなかった。

 勝って当たり前という冷酷な期待の中で、過程の痛ましい努力を褒めてくれる人など誰一人としていなかったのだ。


 結果ではなく、傷だらけになりながらも足掻き続けた自分自身の存在を肯定されたことで、彼女の心の中で限界まで張り詰めていた糸が静かに解けたのだと分かった。


 私は慌てることもなく、ただ黙って彼女の肩が微かに震えるのを見守っていた。

 声を上げて泣くことすら我慢している彼女の不器用さが、たまらなく愛おしかった。


 やがて、先輩は大きく深呼吸をして顔を上げた。

 制服の袖口で乱暴に目元を拭い、照れ隠しのように小さく息を吐き出す。

 泣き晴らしたはずのその顔には、先ほどまでの引き攣った氷のような強張りは跡形もなく消え去っていた。

 代わりにそこにあったのは、私がこれまでに見たどの表情よりも美しく、そして力強い太陽のような笑顔だった。


「ありがとう、茉莉花ちゃん」


 鼻声のまま、先輩ははっきりとそう言った。

 彼女はラケットバッグの金具の中で一番目立つ場所に、水色の組み紐をしっかりと結びつけた。

 重たい灰色の空の下で、白いフェルトの猫が誇らしげに揺れている。


「あたし、絶対に勝ってくるよ。誰かのためじゃなくて、あたし自身のために」


 その声には、迷いや恐れは一切混じっていなかった。

 私は深く頷き、精一杯の笑顔を作って彼女を見送った。


「はい。いってらっしゃい、栞先輩」


 先輩は私の顔を見て再度深く頷くと、迷いのない足取りで昇降口へと向かっていった。

 その背中は、背負っていた重たい荷物を下ろしたように軽やかで、頼もしかった。


 空を覆っていた分厚い梅雨雲の隙間から、ほんの僅かに薄陽が差し込み、彼女の髪を明るく照らし出しているように見えた。


 ポケットの中で空になった右手を握り締める。

 私のお守りが、彼女の力になれたのかどうかは分からない。

 それでも、彼女が笑ってくれたという事実だけで、私の冴えない日常は信じられないほど鮮やかに彩られていく。


 今日の夜、ゲームの中で会えたなら、どんな言葉をかけようか。

 そんなことを考えながら、私は教室へ向かう階段を上り始めた。


 足取りは、いつになく軽快だった。

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