8 小さな祈り
放課後を知らせるチャイムが鳴り終わり、校舎の中はにわかに活気づき始めていた。
教室から解放された生徒たちが、それぞれの目的地へと向かって廊下を行き交う。
部活動へ向かう者、足早に下校する者、友人と他愛のないおしゃべりに花を咲かせる者。
そんな喧騒の中を、私は一人、静かに歩いていた。
向かう先は、特別教室棟の端にある家庭科室だ。
私が所属している家庭部は今日も自由参加の活動日で、特に決まった課題があるわけではない。
それでも教室の片隅で息を潜めているよりは、誰もいない家庭科室で布や糸と向き合っている方が私にとってはよっぽど居心地が良かった。
本校舎と特別教室棟を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった時、ふと、前方から見覚えのある姿が歩いてくるのが見えた。
栞先輩だ。
彼女はすでにテニス部の指定のウェアに着替えており、肩くらいの長さの綺麗な内巻きボブは運動の邪魔にならないように高い位置でポニーテールに結い上げられている。
手にはラケットバッグを提げ、これからグラウンドの奥にあるテニスコートへと向かうところなのだろう。
周囲の目を惹きつけるような堂々とした歩き方と、凛とした佇まい。
すれ違う生徒たちが思わず道を譲ってしまうような、確かな存在感が彼女にはあった。
「あ、茉莉花ちゃん。お疲れ様!」
私の姿に気づくと、先輩はいつものように明るい声をかけてくれた。
「お疲れ様です、栞先輩。これから部活ですか?」
「うん。いよいよ明日が大会だからね。最後の調整ってところかな」
先輩は爽やかな笑顔を浮かべている。
しかし、その声色には普段の軽やかさとは違う、張り詰めた糸のような緊張感が混じっているように私には感じられた。
明日の大会。
あの深夜の通話で、彼女が涙混じりに吐露していた大事な試合だ。
親からの絶対的な優勝という重圧、顧問や周囲からの期待。
そして何より、結果を出せなければテニス部を辞めさせられてしまうかもしれないという逃げ場のない切実な状況。
彼女は今、そのすべてをたった一人で背負って、コートに立とうとしているのだ。
「あの……調子は、どうですか」
私は言葉を選びながら、恐る恐る尋ねた。
先輩はラケットバッグの紐を握り直し、少しだけ視線を宙に泳がせた。
「まあ、ぼちぼちかな。やるしかないしね。あたしなりに、やれるだけの準備はしてきたつもりだから」
そう言って笑う先輩の顔の横で、彼女が乱れた前髪を払おうと無造作に手を上げた――その瞬間だった。
私の視界に、先輩の手のひらが飛び込んできた。
ラケットを握り続けている右手のひらは、痛々しいほどの豆で覆われていた。
いくつかの豆は潰れて赤く腫れ上がり、その上から幾重にもテーピングが巻かれている。
指の関節には擦り傷があり、絆創膏が貼られていた。
それは、綺麗で完璧な相澤栞という少女には似つかわしくない、泥臭くて、痛切な努力の痕跡だった。
どれだけの時間、彼女は重圧に耐えながら一人でラケットを振り続けてきたのだろう。
手に豆がいくつもでき、それが潰れて皮が剥けても、テーピングを巻いて血を滲ませながらコートを走り続けてきたのだ。
胸の奥を、冷たく鋭い手で強く鷲掴みにされたような痛みが走った。
私が彼女の手をじっと見つめていることに気づき、先輩は慌てて手を背中の後ろに隠した。
「あはは、ちょっと見苦しかったかな。気合い入れすぎて、テーピングだらけになっちゃった。でも全然痛くないから、心配しないで!」
無理をして取り繕うような笑顔が、逆に私の胸を締め付ける。
痛くないはずがない。
あれほどの傷を抱えて、それでも彼女はエースとしての責任を果たすために、決して弱音を吐こうとしないのだ。
「先輩……」
「ごめんね、変な心配かけちゃって。あたし、もう行くね。茉莉花ちゃんも部活頑張って」
先輩は足早に私の横を通り過ぎ、渡り廊下を駆けていった。
揺れるポニーテールが、夕暮れの光の中に吸い込まれるように消えていく。
私はその場に立ち尽くし、彼女の後ろ姿が見えなくなっても、しばらく動くことができなかった。
私には、何もできない。
親の期待を代わりに背負ってあげることもできないし、コートの中で一緒に戦うこともできない。
彼女が抱えている痛みや苦しみを、半分引き受けてあげることすらできないのだ。
冴えない私と、完璧な先輩。
現実の世界では、私はどこまでいってもただの無力な後輩でしかない。
その事実が、たまらなく悔しかった。
重い足取りで家庭科室に辿り着いた私は、自分の作業台の前に座り込んだまま鞄から手を離せずにいた。
今日はミシンを使って簡単な布小物を作る予定だったが、まったく手につかない。
頭の中を支配しているのは、テーピングに覆われた痛々しい先輩の手のひらと、彼女が背負っている明日の大会のことばかりだった。
何か、私にできることはないのだろうか。
試合の勝敗を左右することはできない。
彼女の技術を向上させる魔法も使えない。
それでも、ほんの少しでもいい。
彼女の心を軽くして、あの重圧から一瞬でも彼女を解放してあげられるような、そんな贈り物ができないだろうか。
私は鞄を床に置き、教室の奥にある大きな裁縫箱の棚へと向かった。
様々な色の布の切れ端が収められた引き出しを開け、指先で感触を確かめながらいくつかの布を慎重に選び出していく。
私が先輩のために作れるもの。
それは、手作りの小さな祈りだった。
作業台にフェルト生地と刺繍糸を広げ、私はゆっくりと息を吐き出した。
作るものは決まっている。
先輩が私と連絡先を交換した時に送ってくれた、あの可愛らしい猫のスタンプ。
その猫をモチーフにした、小さなお守りだ。
柔らかな白色のフェルト生地を、手のひらに収まるくらいの小さな長方形に切り取る。
その表面に、黒い刺繍糸で猫の輪郭を丁寧に縫い取っていく。
針を刺し、糸を引き抜く。
静寂に包まれた家庭科室で、私の意識は針の先端ただ一点に集中していた。
どうか、怪我をしませんように。
先輩の努力が、すべて報われますように。
試合中、少しでも彼女が笑顔になれる瞬間がありますように。
一針一針に、祈りにも似た強い願いを込める。
私の家庭科特待生にも匹敵すると自負している手先の器用さは、今この瞬間のためにあったのだとさえ思えた。
糸の張りを均一に保ち、猫の表情が一番可愛らしく見えるように微細な調整を繰り返す。
黒い糸で耳と輪郭を作り、桃色の糸で小さな鼻と頬を染める。
そして、裏側となるフェルト生地には、青い糸で小さなテニスラケットの模様を縫い込んだ。
二枚の生地を重ね合わせ、縁を丁寧に縫い合わせていく。
完全に閉じてしまう前に、中に少量の綿を詰めふっくらとした立体感を持たせた。
最後に先輩のイメージに似合う爽やかな水色の組み紐を上部にしっかりと縫い付け、ラケットバッグに付けられるようにした。
完成したお守りを、私は両手でそっと包み込んだ。
市販されているような立派なものではない。
神社で売られているようなご利益があるわけでもない。
ただの女子高生が作った、小さな布の塊にすぎない。
それでも、この中には私の持てるすべての想いが詰まっている。
先輩の手のひらの豆が、これ以上増えませんように。
彼女を縛り付ける冷たい期待から、彼女を守ってあげられますように。
私は窓辺に歩み寄り、夕焼けに染まる空の下、遠くに見えるテニスコートを見つめた。
かすかに響いてくる硬質な打球音。
あの音の鳴る場所で、彼女は今も一人で戦っている。
私はこの小さな猫のお守りを胸に押し当て、静かに目を閉じた。
明日の朝、必ず彼女にこれを渡そう。
どんな言葉をかければいいのかはまだ分からないけれど、これを受け取った彼女が、ほんの少しでも安心してくれることを願って。
茜色の光が家庭科室を赤く染め上げる中、私は鞄を握り締め、明日への小さな勇気を胸に刻み込んだ。




