6 甘い障壁
昨晩の通話の余韻が、朝になっても私の頭の中に甘い霞のようにかかっていた。
ベッドの中で交わした、掠れた声。
誰にも見せない弱さを私にだけ打ち明けてくれた事実が、胸の奥で温かな熱源となって燻り続けている。
睡眠時間は明らかに足りていないはずなのに、足取りは羽が生えたように軽かった。
駅までの道のりを歩きながら、私は何度もスマートフォンの画面を点灯させてはメッセージアプリのトーク画面を見返していた。
通話履歴に残る時間の表示を見るだけで、昨夜の先輩の息遣いまで鮮明に蘇ってくる。
改札を抜け、いつも乗る時間の電車を待つためにホームの列に並んだ時だった。
「茉莉花ちゃん、おはよう」
背後からかけられた高く澄んだ声に、私は息を呑んで振り返った。
そこに立っていたのは、栞先輩だった。
指定のスクールバッグを肩にかけ、涼しげな表情で微笑んでいる。
綺麗に切り揃えられた肩くらいの長さの内巻きのボブヘアが、朝の陽射しを透かしてほんのりと茶色く輝いていた。
「おはようございます、栞先輩。先輩も、この時間の電車なんですか?」
「うん。今日は朝練ないから、少し遅めの時間なんだ。茉莉花ちゃんと会えるかなって思って、同じ車両の列に並んでみた」
さらりと言ってのける先輩の言葉に、私の頬は一瞬で熱を帯びた。
昨晩、あんなに無防備な弱音をこぼしていたのに、今朝の先輩はいつもの完璧で凛とした姿に戻っている。
その強さと切り替えの早さに感嘆すると同時に、あの夜の彼女を知っているのは世界で私だけなのだという優越感が、静かに胸を満たした。
しかし、そんな幸福な時間は長くは続かなかった。
鈍い摩擦音と共にホームに滑り込んできた電車は、目を疑うほどの混雑ぶりだった。
窓ガラス越しに見える車内は、通勤や通学を急ぐ人々で隙間なく埋め尽くされている。
ドアが開き、人が吐き出されるよりも先に、後ろから押し込まれるようにして乗客の波が車内へとなだれ込んでいく。
その光景を目の当たりにした瞬間、私の足は床に縫い付けられたように動かなくなった。
数週間前の出来事が、鮮烈な恐怖となって脳裏にフラッシュバックする。
四方を大人に囲まれ、逃げ場のない密室で背後から触れられたあの生暖かい感触。
声を出したくても喉がひきつり、ただ震えることしかできなかった無力な自分。
乗らなければ遅刻してしまう。
頭では理解しているのに、冷や汗が背中を伝い、どうしても足を踏み出すことができない。
背後から押され、危うく体勢を崩しかけた私の腕を、力強い手が引き寄せた。
「こっち来て、茉莉花ちゃん」
先輩の声だった。
彼女は私の手首を掴むと、人の波を器用に縫うようにして、車内の奥――ドア横のわずかなスペースへと私を導いた。
次の瞬間、閉まるドアと同時に車内へ押し寄せてきた乗客の圧力から私を庇うように、先輩は私の目の前に立ち背後のドアに両手を突いた。
私の体は、先輩の腕と体によって完全に壁際へと囲い込まれた。
「ここなら、誰にも触らせないから」
頭上から降ってきた先輩の声に、私は弾かれたように顔を上げた。
顔が触れ合ってしまいそうなほどの至近距離。
先輩の真剣な瞳が、逃げ場のない至近距離から私を真っ直ぐに見つめ下ろしている。
鼻先をくすぐるのは、先輩から漂う爽やかなシトラスの香水だ。
混雑した車内の不快な空気など一切感じない。
ただ、先輩の存在だけが私の五感を支配している。
車両が大きく揺れるたび、先輩の艶やかな内巻きのボブヘアの毛先が、私の頬を微かに掠める。
そのくすぐったい感触と、目の前にある形の良い鎖骨、そして規則正しく上下する胸元の動きに、私の心臓は破裂してしまいそうなほど激しく打ち鳴らされていた。
怖い思いをしたはずの満員電車が、今はこの世界で一番甘く、そして心強い空間へと変貌している。
先輩の腕の中という絶対的な安全地帯で、私はただ彼女を見上げることしかできなかった。
周囲の乗客に押されて先輩の体がさらに近づく。
彼女の吐息が私の前髪を揺らし、私は限界を迎えた熱い顔を隠すように、俯いて先輩の制服の胸元に視線を落とすことしかできなかった。
目的の駅に到着するまでの十数分間が、永遠のように長く、そして一瞬のように短く感じられた。
ドアが開き、乗客の流れに乗ってホームへと降り立つ。
ようやく解放された外の冷たい空気が、火照った私の顔を冷やしてくれる。
「大丈夫だった? 気分悪くない?」
先輩は乱れた制服の襟元を直し、前髪を手櫛で整えながら、私を気遣うように顔を覗き込んだ。
「は、はい。先輩のおかげで、全然怖くありませんでした。ありがとうございます」
私が深く頭を下げると、先輩は安心したように目尻を下げて微笑んだ。
「よかった。それじゃ、あたしは更衣室寄ってから教室行くね。また後で」
ひらひらと手を振り、颯爽と歩き出す先輩の後ろ姿を見送る。
私はホームに立ち尽くしたまま、先ほどまで自分の頬を掠めていた髪の感触と、シトラスの香りの余韻を反芻していた。
あんな風に守られたら、誰だって心を奪われてしまう。
先輩は完璧で、強くて、優しくて、まるで物語に登場する王子様そのものだ。
満員電車の痴漢から助けられた日も、今日も、そしてゲームの中でも。
私はいつだって、先輩の背中に隠れて守られてばかりいる。
でも、と私は胸の奥で強く思う。
昨晩の電話で、彼女がどれほどの重圧を抱え、傷つき、弱音を吐いていたかを知っている。
いつも涼しい顔をして私を庇ってくれるあの腕が、本当は悲鳴を上げていることを知っているのだ。
守られているだけの存在から抜け出したい。
彼女の背中に隠れて、安全な場所から支援魔法を唱えるだけの弱い自分は嫌だ。
ヒーラーという職業を選んでしまったのは失敗だったかもしれないけれど、ステータスは私の意志で決めることができる。
物理攻撃力にすべてを注ぎ込む私のプレイスタイルは、間違っていない。
むしろ、大好きな先輩と対等になるためには、これしかないのだ。
私は固く拳を握り締め、先輩の姿が見えなくなった階段へ向かって、力強く一歩を踏み出した。




