5 先輩の弱音
夜の静寂に包まれた自室。
机のスタンドライトだけを点灯させた薄暗い部屋の中で、スマートフォンの画面が放つ淡い光が私の顔を照らしている。
いつもと変わらない、キンドレッド・ソウルズ・オンラインのログイン画面。
しかし、今日ばかりは少し様子が違っていた。
約束の時間になっても、ザワがログインしてこないのだ。
普段の彼女であれば、部活が終わって帰宅し、夕食を済ませたあとのこの時間帯には必ず噴水広場で待っていてくれる。
遅れる時は事前にメッセージアプリで連絡をくれるはずなのに、今日は何の音沙汰もなかった。
何かあったのだろうか。
部活で怪我でもしたのか、それとも親御さんに厳しく叱られてゲームどころではないのか。
悪い想像ばかりが頭を巡り、私は広場の石畳の上でキャラクターを意味もなく歩き回らせていた。
時計の針が深夜に近い時間を指そうとした頃、ようやく画面の端にシステムメッセージが表示された。
『フレンドのザワがログインしました』という一文を見て、私は安堵の息を長く吐き出した。
すぐにパーティ申請が届き、見慣れた銀色の鎧を纏った騎士が目の前に現れる。
『ごめん、マリちゃん。遅くなっちゃった』
チャット欄に表示されたザワの言葉は、いつもと同じような口調だった。
しかし、いざフィールドに出て戦闘を始めてみると、彼女の異変は誰の目にも明らかだった。
『危ない、マリちゃん下がって!』
チャットの指示よりも一瞬遅れて、ザワのキャラクターが私の前に飛び出してくる。
普段なら巨大な盾と槍で完璧に敵の攻撃を弾き返す彼女が、今日は防御のタイミングが完全にずれていた。
敵の鋭い爪が銀の鎧を掠め、ザワの体力ゲージが大きく減少する。
私は慌てて回復魔法――ではなく、持っていた杖を全力で振り下ろし、敵の頭を叩き割って強引に戦闘を終わらせた。
『ごめん……あたし、今日はちょっと動きが鈍いみたい』
『大丈夫ですか。無理しないでください。今日はもう、ここで終わりにしましょう』
『うん……ごめんね。せっかく待っててくれたのに』
キャラクターの頭上に浮かんだ謝罪の言葉は、文字であるはずなのに、ひどく力なく聞こえた。
広場に戻り、ログアウトしていくザワの背中を見送った後、私もすぐにゲームを終了した。
スマートフォンのホーム画面に戻り、メッセージアプリを開く。
栞先輩とのトーク画面には、今日の夕方に交わした他愛のないやり取りが残ったままだ。
このまま寝てしまおうかとも思ったけれど、先ほどの彼女の様子がどうしても気にかかる。
私は少し迷った後、短い文章を打ち込んで送信ボタンを押した。
『先輩、お疲れ様です。なんだかすごく疲れているみたいでしたけど、体調悪いんですか? 無理しないでくださいね』
すぐに既読がつくとは思っていなかった。
先輩も疲れてベッドに入っているかもしれない。
しかし、予想に反して画面にはすぐに既読の文字がつき、数秒後には返信が届いた。
『ごめんね、心配かけて。ちょっとだけ、色々あって疲労が溜まってるのかも』
そのメッセージにどう返信すべきか悩んでいると、続けてもう一通、短いメッセージが送られてきた。
『あのさ。もしマリちゃんが起きてるなら、少しだけ、声聞いてもいいかな』
その言葉を目にした瞬間、私の心臓が激しく脈打ち始めた。
通話の誘い。
ゲームのボイスチャットは使わず、メッセージアプリでの直接の電話。
私は大きく深呼吸をしてから、大丈夫ですとだけ返信した。
数秒後、画面が切り替わり着信を知らせる画面が表示される。
震える指で通話ボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てた。
「……もしもし」
「あ、出た。夜遅くにごめんね、茉莉花ちゃん。起こしちゃったかな」
耳元から聞こえてきた栞先輩の声は、いつも学校で聞くような凛とした明るい声ではなく、空気の抜けたようなひどく掠れた声だった。
「起きてましたから、大丈夫です。先輩、声が……」
「うん……なんかね、急に全部の力が抜けちゃったみたいでさ」
電話の向こうから、深い寝息のような吐息が聞こえる。
ベッドに横たわっているのだろうか。
布が擦れる微かな音が耳をくすぐり、まるで先輩がすぐ隣にいるような錯覚に陥る。
「来週、テニスの大事な大会があってさ。親からは絶対に優勝しろって言われてるし、顧問の先生や周りの部員からの期待もすごくて。それなのに、今日の練習試合で全然動けなくて、ボロ負けしちゃったんだよね」
ポツリ、ポツリと、先輩は静かに語り始めた。
いつも完璧で、誰からも憧れられる栞先輩。
彼女の背中にのしかかっている重圧は、空気のように存在感を消して生きている私には想像もつかないほど重いのだろう。
「家に帰っても、お母さんから説教されて。成績も少し落ちてるから、このままじゃ部活辞めさせるって言われて……あたし、何のためにこんなに頑張ってるんだろうって、急に分からなくなっちゃって」
「先輩……」
「かっこ悪いよね。いつも偉そうに先輩風吹かせてるくせに、本当はこんなに余裕ないんだよ、あたし」
自嘲するような彼女の笑い声が、胸の奥を鋭く締め付ける。
私はスマートフォンを握る手に力を込めた。
かけてあげるべき気の利いた言葉なんて、冴えない私には一つも浮かばない。
ただ、電話の向こうで震えている彼女の肩を、今すぐ抱きしめてあげたいと強く願っていた。
「かっこ悪くなんてありません。先輩はいつも、私の前を堂々と歩いてくれる、誰よりもかっこいい人です」
「茉莉花ちゃん……」
「だから、たまには立ち止まって休んでもいいと思います。弱音を吐いたって、誰も先輩を責めたりしません。少なくとも、私は絶対に責めません」
気づけば、私は必死に言葉を紡いでいた。
私の言葉を聞いて、電話の向こうから鼻をすするような小さな音が聞こえた。
「……不思議だね。学校の友達にも、親にも、こんな情けない姿絶対に見せられないのに。茉莉花ちゃんにだけは、どうしてか素直に弱音を吐けちゃうんだ」
先輩のその言葉が静かな部屋に落ちて、私の心の中に波紋を広げていく。
私にだけ見せてくれる、特別な弱さ。
その事実がたまらなく嬉しくて、同時に、これまでに感じたことのないほど強い熱が胸の奥で燃え上がるのを感じた。
私はその時、はっきりと自覚した。
私は、栞先輩のことが好きなんだ、と。
憧れや、恩人に対する感謝だけじゃない。
彼女の強さも、不器用さも、今こうして見せてくれている弱さも――すべてが愛おしい。
彼女の隣に並び立ち、彼女を支えられる存在になりたい。
これは紛れもなく、明確な恋心だった。
「……茉莉花ちゃん、起きてる?」
「起きてますよ。先輩が眠るまで、ずっと繋いでおきますから」
「ふふ、ありがとう。なんだか、茉莉花ちゃんの声聞いてたら、少し安心してきたかも。明日からまた、頑張れそうな気がする」
少しだけ明るさを取り戻した先輩の声を聞きながら、私は毛布を頭まですっぽりと被った。
現実の世界では、私はいつだって先輩に守られている。
満員電車で助けられたあの日から、私はずっと彼女の強さに寄りかかってばかりだ。
だからせめて、ゲームの中だけでも、私が先輩を守りたい。
強大な敵が現れた時、先輩が盾になって傷つく前に、私が誰よりも早く前に出てその圧倒的な攻撃力で敵を打ち砕くのだ。
ヒーラーとしての役割なんて関係ない。
私の持てるすべての筋力を、彼女を守るためだけに使いたい。
「おやすみ、茉莉花ちゃん。また明日、学校でね」
「はい。おやすみなさい、栞先輩」
通話が切れた後も、私はしばらくの間熱を持ったスマートフォンを胸に抱きしめていた。
暗闇の中で、私の決意は確かに固まっていた。
この純粋で盲目的な思いが、やがてゲームの中で取り返しのつかないすれ違いを生む引き金になることなど――恋心を自覚したばかりの私には知る由もなかったのだ。




