4 猫のアイシングクッキー
放課後の家庭科室は、甘い香りに満ちていた。
オーブンから漂うバターと砂糖の焦げる匂いが、教室の空気を優しく満たしている。
私が所属している家庭部はもともと部員が少なく、週に数回ある活動日でも全員が揃うことは珍しい。
今日も広い教室で作業をしているのは、隅の調理台を陣取っている私一人だけだった。
今日の部活動は自由課題の調理実習で、私はクッキーを焼くことに決めていた。
ただのクッキーではない。
滑らかな光沢を持つ砂糖の衣で表面を装飾した、アイシングクッキーだ。
冷たいステンレスの作業台の上に、焼き上がって熱の取れたプレーンクッキーを慎重に並べる。
その上に絞り袋に入れた真っ白なアイシングを丁寧に縁取り、内側を均一に塗りつぶしていく。
表面が平らに乾くのを待つ間、私は昨日の出来事を思い出していた。
オフ会からの帰り道、連絡先を交換した栞先輩から送られてきた手を振る可愛らしい猫のスタンプ。
あの無邪気な絵柄が、先輩の少し不器用で可愛らしい一面を表しているようで、帰宅してから何度もスマートフォンの画面を見返してしまった。
だから今日は、その猫をモチーフにしたクッキーを作ることにしたのだ。
白色の土台が乾いたことを確認し、今度は黒と桃色に色付けしたアイシングを使って、猫の顔を描き込んでいく。
細い線を引く作業は息を止めるほどの集中力を要するが、私にとってはこの緻密で静かな作業こそが一番落ち着く時間だった。
尖った耳、丸い目、そして小さな鼻とひげ。
先輩が送ってくれたスタンプの猫を忠実に再現していく。
一つ、また一つと完成していく猫たちを見つめながら、私は自然と表情が緩むのを感じていた。
満員電車の中で痴漢から助けてもらったお礼。
そして、ゲームの中でいつも私の盾になってくれることへの感謝。
言葉にして正面から伝えるのはひどく気恥ずかしいけれど、手作りのお菓子に託せば、この素直な気持ちを少しは届けられるような気がした。
すべてのクッキーに顔を描き終え、表面が完全に乾いたあと、透明な小袋に数枚ずつ分けて入れる。
仕上げに、先輩の爽やかな雰囲気に似合う水色のリボンで口をきつく結んだ。
我ながら、街の洋菓子店に並んでいても遜色のない出来栄えだと思う。
問題は、これを無事に彼女の元へ届けられるかどうかだった。
エプロンを外し、皺になった制服のスカートを整えて家庭科室を出る。
小さな紙袋にラッピングしたクッキーを入れ、私は校舎の裏手にあるテニスコートへと歩を進めた。
文化部が活動する静かな特別教室棟から離れ、運動部が集まる屋外のグラウンドへ近づくにつれて、周囲の空気が次第に熱を帯びていくのを感じる。
吹奏楽部の管楽器の音色、野球部の力強い掛け声、そして硬質なボールが弾ける音が入り混じり、活気に満ちた波となって私に押し寄せてくる。
日陰を好んで歩き、教室でも空気のように振る舞っている私にとって、眩しい太陽の下で汗を流す運動部の領域はひどく居心地の悪い場所だった。
すれ違う生徒たちは皆、日に焼けた健康的な肌と引き締まった体をしており、誰もが自信に満ち溢れているように見える。
一歩進むごとに足取りが重くなる。
本当に私なんかが、人気者の先輩に会いに行ってもいいのだろうか。
不安に押し潰されそうになりながらも、両手で握りしめた紙袋の温かな感触だけが、私に前に進む勇気を与えてくれていた。
高い金網で囲まれたテニスコートに到着し、私は人目につかない隅の方から中を覗き込んだ。
広大なコートでは、何組もの部員たちが激しいラリーを繰り広げている。
その大勢の生徒の中から彼女を見つけるのに、時間はまったくかからなかった。
相澤栞先輩。
昨日カフェで向かい合って座った時、彼女の髪は肩くらいの長さの綺麗な内巻きのボブヘアだった。
日に当たるとほんのり茶色く透けるその髪は、今は運動の邪魔にならないよう、後ろで小さなポニーテールにまとめられている。
普段はおろしている髪を、テニスに打ち込む時だけ一つに結ぶ。
その小さな変化すら、私の目にはひどく特別で、眩しいものに映った。
ラケットを振り抜く力強い腕、ボールの軌道を鋭く見据える真剣な横顔。
首筋には玉のような汗が浮かび、彼女の美しさを際立たせている。
鋭い打球音が響き、相手のコートの奥深くに黄色いボールが突き刺さる。
周囲で見学している部員たちから、感嘆の声と称賛の拍手が巻き起こった。
すごい。
ただその言葉しか浮かばなかった。
ゲームの中で身の丈ほどもある槍を振り回して敵をなぎ倒すタンクの姿も勇ましかったけれど、現実の世界でラケットを握る彼女はそれ以上に強く、美しく、そして遙か遠い存在に見えた。
私とは住む世界が違う。
圧倒的な輝きを前にして、私は自分がひどくちっぽけで場違いな存在に思えてきた。
綺麗にラッピングした手作りのクッキーすら、今の彼女の前ではただの自己満足のように思えてしまう。
先輩には、もっと似合う綺麗な贈り物や、対等に話せる華やかな友人たちがたくさんいるはずだ。
これ以上ここにいてはいけない気がして、私はひっそりとその場を離れようと踵を返す。
逃げ出そうとした私の背中に――高く澄んだ声が投げかけられた。
「茉莉花ちゃん!」
確かに私の下の名前を呼ぶ声が聞こえた。
驚いて振り返ると、コートの中で休憩に入ろうとしていた栞先輩が、ラケットを片手にしたままこちらへ向かって小走りで近づいてくるところだった。
金網越しに視線が絡むと、先輩は顔を大きくほころばせ、周囲の部員たちが不思議そうな顔でこちらに視線を向けるのも構わず、私の目の前までやってきた。
「お疲れ様。見に来てくれたの?」
額の汗をタオルで拭いながら、先輩は屈託のない笑顔を向ける。
先ほどまでの近寄りがたいエースの表情はすっかり消え去り、そこには昨日一緒に笑い合った、少し抜けたところのある優しい先輩の顔があった。
ポニーテールに結ばれた毛先が、先輩の動きに合わせて小さく揺れている。
「はい。あの、家庭部で作ったクッキーが上手く焼けたので、先輩に受け取っていただきたくて」
私は緊張で裏返りそうになる声を必死に抑えながら、持っていた紙袋を両手で差し出した。
先輩の目が丸く見開かれる。
「え、あたしに手作り!? うわ、すごく嬉しい。開けてもいい?」
尋ねる先輩に、私は無言のまま小さく頷いた。
紙袋から取り出された透明な小袋の中には、水色のリボンで結ばれた猫のアイシングクッキーが入っている。
それを見た瞬間、先輩の顔が一気に華やいだ。
「これ、あたしが連絡先交換したときに送ったスタンプの猫だよね。すごい、売り物みたい! 茉莉花ちゃん、こんなに手先が器用だったんだね」
「痴漢から助けていただいたお礼と、いつもゲームで盾になってくれるお礼です。甘いものは苦手じゃなかったですか?」
控えめに尋ねると、先輩は勢いよく首を横に振った。
「全然。むしろ甘いものは大好きだから、本当に助かる。練習の後の糖分補給にぴったりだよ。もったいなくて食べるのが惜しいくらいだけど、大事にいただくね。本当にありがとう、茉莉花ちゃん」
太陽のような笑顔で真っ直ぐに感謝を伝えられ、私の頬は急激に熱を帯びていく。
嬉しそうにクッキーを見つめる先輩の姿に、先ほどまで抱えていた劣等感や不安が、嘘のように溶けて消えていくのを感じた。
コートの奥から、先輩を呼ぶ他の部員の声が聞こえた。
短い休憩時間が終わるようだ。
「ごめん、呼ばれちゃった。これ、部室のロッカーに大切にしまっておくね。今日の夜も、時間あったらキンドレで会おう。また後でね!」
先輩は名残惜しそうに言葉を紡ぎ、大事そうに紙袋を抱えてコートへと戻っていった。
走り去る後ろ姿と揺れるポニーテールを見送りながら、私は胸の奥から湧き上がる喜びを静かに噛み締めていた。
帰り道、一人で歩く夕暮れの通学路は、いつもと同じ見慣れた景色のはずなのに、今日はどこか色鮮やかに見えた。
私と先輩を繋いでいるのは、満員電車での偶然の出来事と、仮想空間のゲームだけかもしれない。
それでも、あの完璧で遠い存在に見える先輩が私のお菓子を心から喜んでくれて、夜にはまた二人だけの秘密の時間を共有できる。
その事実だけで、私の冴えない毎日は、明日を迎えるのが待ち遠しいほどに輝き始めていた。
早く家に帰って、宿題と夕食を終わらせよう。
そして、私の身の丈に合わない攻撃力に特化したヒーラーで、今日も彼女の隣に立つのだ。




