21 約束のターミナル
海沿いのリゾートホテルで迎えた二日目の朝は、皮肉なほどに澄み渡るような快晴だった。
壁一面の硝子窓から差し込む強烈な朝の光が、白いシーツを眩しく照らし出している。
私たちは身支度を整え、ホテルの一階にある広大なレストランへと向かった。
豪華な朝食のビュッフェには焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、色鮮やかな新鮮な野菜や果物、近海で獲れた魚の干物などが所狭しと並べられていた。
昨日の私であれば、目を輝かせてお皿に山のように盛り付けていたはずだ。
しかし、今の私が手に持った白い皿には、小さな丸いパンが一つと僅かなサラダが乗せられているだけだった。
海を見渡せる窓際の席に座り、私はパンを千切って口に運んだ。
乾燥した砂を噛んでいるような感覚だった。
味覚が完全に麻痺してしまったかのように、どんなに美しい料理も私の舌には何の喜びももたらさなかった。
目の前に座る先輩もまた、ほとんど食事に手をつけていなかった。
私たちは互いに心配をかけまいと、不自然なほど口角を上げて笑い合い、何事もなかったかのように振る舞おうとした。
けれど、昨夜の暗い砂浜で告げられた残酷な真実は、私たちの間に重く冷たい見えない壁となって立ち塞がっていた。
窓の外に広がる海に視線を向ける。
昨日、ホテルに到着した時に見たあの海は、夏の太陽の光を反射して希望に満ちた鮮やかな青色をしていた。
しかし、今の私の目に映るその広大な水面は、ただ無機質で冷たく、私たちの終わりを告げるような色褪せた灰色の景色にしか見えなかった。
楽しいはずの旅行の終わりは、同時に彼女との別れへのカウントダウンの始まりを意味していた。
帰りの特急列車の中では、行きのような弾む会話は生まれなかった。
私たちは隣同士に座りながらも、それぞれが流れる窓の外の景色を見つめ、沈黙の時間を過ごした。
私はただ、座席の上で彼女の服の袖が私の腕に触れる感触だけを、少しでも長く記憶に留めようと必死に意識を集中させていた。
旅行から帰ると、夏休みの残りの日数は恐ろしい速度で消滅していった。
厳しい残暑が続く中、私は自室の机に向かい、壁に掛けられたカレンダーを恨めしそうに見つめる日々を送った。
海外への引っ越しという巨大な出来事は、先輩からすべての自由な時間を奪い去っていた。
手続きや荷物の整理に追われる彼女とは、現実で会うことはおろか、メッセージのやり取りすらも極端に少なくなってしまった。
数字に引かれた斜線が増えるたび、私の胸の奥に空いた穴は大きく、深く広がっていくようだった。
そして、無情にも夏休みは終わりを告げ、九月が訪れた。
先輩が日本を発つ日の朝。
私は一人で電車を乗り継ぎ、国際線が発着する巨大な空港のターミナルへと足を運んだ。
出発ロビーは信じられないほど広く、高い天井のあちこちから様々な言語による無機質なアナウンスが絶え間なく響き渡っている。
行き交う人々は誰もが大きな荷物を抱え、それぞれの目的地へと急ぎ足で歩き去っていく。
その広大で冷たい空間の片隅に、見慣れた姿を見つけた。
先輩は、これまでの彼女からは想像もつかないほど巨大なスーツケースの隣に立っていた。
服装は動きやすさを重視した簡素なもので、足元は履き慣れたスニーカーだった。
私が駆け寄ると、彼女の隣にいたご両親が深く頭を下げて挨拶をしてくれた。
私も慌てて背筋を伸ばし、深い礼を返す。
ご両親は搭乗手続きの確認があるからと理由をつけ、気を利かせて少し離れた場所へと移動してくれた。
残された私たちは、人目も気にせず、ただ互いの顔を見つめ合った。
先輩の瞳は、すでに限界まで涙を湛え、赤く腫れ上がっていた。
「見送りに来てくれて、ありがとう」
震える声でそう言った先輩の顔を見て、私もまた、今まで必死に堰き止めていた感情の堤防が決壊するのを感じた。
絶対に泣かないと決めていたのに、視界が急速に歪んでいく。
私は何も言えずに一歩を踏み出し、先輩の体に両腕を回して強く抱きついた。
先輩もまた、持っていた手荷物を床に落とし、私の背中をきつく抱きしめ返してきた。
鼻腔を、冷たい空港の空気と、先輩から漂うシトラスの香りが満たしていく。
旅行の夜に砂浜で抱きしめ合った時とは違う。
これが本当に、彼女の体温を感じられる最後の時間なのだ。
彼女の細い背中、首筋の柔らかな髪の感触、力強い腕の抱擁。
そのすべてを永遠に失ってしまうという恐怖が、私の全身を切り刻んでいく。
「嫌です、やっぱり嫌です……先輩と、お別れしたくないです」
子供のようなわがままだと分かっていても、口から溢れる言葉を止めることはできなかった。
先輩は私の背中を何度も撫でながら、自分の涙を私の肩に押し当てた。
「あたしも、行きたくないよ。ずっと、茉莉花ちゃんの隣にいたい」
搭乗時間が迫っていることを知らせる無情なアナウンスが、私たちの頭上から降り注いだ。
離れた場所にいるご両親が、心配そうな視線をこちらに向けている。
もう、これ以上時間を引き延ばすことは許されなかった。
先輩はゆっくりと腕を解き、私の両肩を強く掴んで正面から目を見つめた。
彼女の瞳には、涙の奥に、かつての完璧なエースとしての強い光が宿っていた。
「茉莉花ちゃん。現実の世界では、遠く離れ離れになっちゃうけど」
先輩は、祈るように私の両手を包み込んだ。
「キンドレッド・ソウルズ・オンラインの世界の中なら、国境も距離も関係ない。あたしたちは、いつでも同じ場所にいられる。だから、あたし、向こうに行っても絶対にログインするから」
それは、絶望の淵に立たされた私に向けられた、唯一の希望の光だった。
現実の彼女の隣に立つことはもうできない。
この想いを伝えることすら叶わなかった。
けれど――仮想の空間であれば、私はまだ彼女の隣で、あの鈍色のメイスを振るって彼女を守ることができるのだ。
「はい。私、ずっと待っています。先輩がログインしてくるのを、ずっと、待っていますから」
私は涙で顔を濡らしながら、強く頷いた。
先輩は最後に、私に向けてあの太陽のように明るく、誰よりも美しい笑顔を見せてくれた。
ご両親に呼ばれ、彼女は大きなスーツケースを引きながら保安検査場のゲートへと向かっていく。
何度か振り返り、その度に大きく手を振ってくれた。
やがて彼女の背中は人混みに紛れ、ゲートの奥へと完全に吸い込まれていった。
私は一人、エスカレーターを上り、外気に触れる展望デッキへと出た。
九月の空は高く、薄い雲が刷毛で掃いたように広がっている。
網目の細かいフェンスの向こう側では、巨大な航空機が幾つも駐機場に停まっていた。
しばらくすると、一つの機体がゆっくりと滑走路へと移動を始めた。
それが先輩の乗る便である確証はなかったが、私はフェンスを握り締め、その機体の動きをじっと見つめ続けた。
凄まじいエンジン音が空気を震わせ、機体は滑走路を加速していく。
やがて機首が持ち上がり、重力を振り切るようにして巨大な鉄の塊が空へと飛び立った。
飛行機はぐんぐんと高度を上げ、青い空の彼方へと小さくなっていき、やがて白い雲の向こう側へと完全に姿を消した。
圧倒的な喪失感が、容赦なく私に襲いかかる。
彼女はもう、日本にはいない。
私の手の届かない、遠い異国の地へと旅立ってしまったのだ。
私はポケットから、自分のスマートフォンを取り出した。
黒い画面の奥には、彼女と繋がることができる唯一の魔法の扉が存在している。
現実の世界では失ってしまったけれど、私にはまだ、この細く強い希望の糸が残されている。
画面を握り締める右手に力を込め、私は大きく深呼吸をした。
彼女のいない日常が、ここから始まろうとしていた。




