20 終わりの近づく夏
特急列車の窓枠を四角く切り取るようにして、どこまでも続く青い水平線が広がっていた。
八月の下旬。
私たちは電車を乗り継ぎ、急峻な山々と海に挟まれた歴史ある海沿いの温泉地へと足を踏み入れた。
駅前のロータリーを抜けると、潮の香りを強く含んだ真夏の風が私たちの髪を大きく揺らしていく。
どこからか聞こえてくる蝉の声は、絶え間なく打ち寄せる波の音と混ざり合い、この街特有の気怠くも心地よい空気を作り出していた。
海岸線に沿って立ち並ぶ巨大なリゾートホテルの一つが、今日私たちが宿泊する場所だった。
フロントで鍵を受け取り、案内された客室の扉を開けた瞬間、私は感嘆の息を漏らして立ち尽くしてしまった。
和の落ち着きと洋の洗練された意匠が調和した広々とした部屋の奥には、壁一面の巨大な硝子窓が備え付けられており、視界を遮るもののない圧倒的な海の景色が広がっていたのだ。
夕食には近海で獲れた新鮮な海産物が並び、海を見下ろす広大な露天風呂では、赤く染まっていく夕空と海の境界線を二人きりで眺めるという、信じられないほど贅沢な時間を過ごした。
大好きな先輩と、この特別な空間で夜通し一緒に過ごすことができる。
私の胸の奥は、これまで生きてきた中で最も純度の高い幸福感で満たされていた。
しかし、その完全な幸福の中に――ほんの僅かな違和感が混ざり込んでいることに、私は気づかないふりをすることができなかった。
窓辺に立ち、夕暮れの海を見つめる先輩の横顔。
私と目を合わせて笑い合う時は、いつもと変わらない太陽のような明るさを見せてくれる。
けれど、ふと視線を外して遠くの水平線を眺める時、彼女の瞳には深い影が落ち、今にも泣き出してしまいそうな、酷く脆く寂しい表情を浮かべていたのだ。
環境が変わったせいだろうか。
それとも、何か悩み事があるのだろうか。
私は気になりながらも、この幸せな時間を壊してしまうのが恐ろしくて、理由を尋ねる言葉を飲み込んでしまっていた。
完全に日が落ち、夜の帳が降りた頃、私たちはホテル内の売店で購入した花火の束を持ち、建物の目の前に広がる砂浜へと降り立った。
昼間の厳しい熱気はすでに失われ、心地よい冷たさを帯びた潮風が私たちの体を通り抜けていく。
周囲には他の宿泊客の姿もなく、規則的に打ち寄せる波の音だけが広大な暗闇の中で反響し続けていた。
私たちは波打ち際から少し離れた場所にしゃがみ込み、小さな蝋燭に火を灯した。
細い紙で巻かれた花火の先端を炎に近づける。
燃え草の匂いと共に、鋭い光の粒子が四方八方へと勢いよく飛び散り始めた。
目まぐるしく色を変えながら激しく燃え盛る光が、暗闇の中で先輩の顔を鮮明に照らし出す。
火花の瞬きに合わせて彼女の瞳の奥に光の反射が宿り、そのあまりの美しさに私は呼吸すら忘れて見入ってしまった。
手持ち花火を何本も消費し、袋の中身が空に近づいていく。
楽しい時間は、手の中の火花が燃え尽きるようにあっという間に過ぎ去ってしまう。
私はこの夜が永遠に続けばいいのにと、強く、切実に願っていた。
最後に残ったのは、二本の線香花火だった。
私たちは無言のまま、細い先端を蝋燭の炎に向けた。
小さな火球が形成され、そこから繊細で儚い松葉のような光が放射状に広がり始める。
他の花火とは違う、息を殺して見守らなければならない静かな燃焼。
私は手元を極力動かさないように固定し、光の粒を見つめ続けた。
やがて、私の花火の光が先に衰え、小さな火球が重力に耐えきれずに砂浜へと落下した。
ジュッという微かな音を立てて、光は完全に闇へと溶け込んでいく。
数秒遅れて、先輩の火球もまた同じように砂の上へと落ちていった。
手元の光源が失われ、私たちの視界は再び深い夜の闇に包み込まれた。
波の音が、先ほどよりもずっと大きく、重々しく鼓膜を打つ。
静寂の中、先輩がゆっくりと顔を上げ、私の方を向いた。
「あのね、茉莉花ちゃん」
潮風に紛れるような、か細い声だった。
「今日、どうしても茉莉花ちゃんに、伝えておかなきゃいけないことがあるんだ」
その声の響きに含まれたただならぬ真剣さに、私の心臓が冷たく警鐘を鳴らした。
夕暮れの窓辺で見せていた、あの泣きそうな表情。
それが今、暗闇の中でもはっきりと分かるほどに、彼女の顔を覆い尽くしていた。
私は砂の上に膝をついたまま、無意識に自分の両手を強く握り締めた。
「あたしのお父さんとお母さんが、このホテルの宿泊チケットを譲ってくれたって話、したよね」
私が小さく頷くと、先輩は大きく息を吸い込み、そして、私の世界を根底から崩壊させる真実を口にした。
「あれ、本当は仕事の出張とかじゃないの。お父さんの、急な転勤が決まったんだ。それも、海を渡ったずっと遠くの、海外への転勤。夏休みが終わったらすぐに、あたしたち家族は日本を発って、向こうで暮らすことになってる」
――海外への、転勤。
先輩が発した言葉の意味が、私の脳内でうまく処理されず、虚空を漂っているような感覚に陥った。
夏休みが終わったら、日本を発つ。
それはつまり、彼女が私の通う学校から――永遠にいなくなってしまうということを意味していた。
「両親は今、向こうでの生活の準備や手続きで毎日忙殺されてる。だから、夏休みなのにあたしをどこにも連れて行ってあげられないお詫びとして、このチケットを渡してきたんだ。友達とでも行ってきなさいって」
先輩の言葉が途切れ、彼女の目から透明な雫が零れ落ちるのが見えた。
それは夜の闇の中でも微かな月の光を反射し、彼女の頬を濡らして顎の先から砂浜へと落ちていった。
「あたし、大好きな茉莉花ちゃんとの、最後の思い出にしたかったの。だから、無理を言って、茉莉花ちゃんをこの旅行に誘ったんだ。今まで黙っていて、ごめんなさい」
最後の思い出。
その決定的な単語が、私の胸の中央を鋭利な刃物で貫き通した。
私はつい先日まで、同性の友達という境界線を越えてしまったら、彼女に嫌われて関係が壊れてしまうのではないかと、一人で勝手に怯え、自問自答を繰り返していた。
しかし、現実は私が想像していたよりもずっと残酷だった。
境界線を越えるかどうかの悩みなど、今の状況を前にすればあまりにも些末で無意味なものだ。
心理的な距離を測る以前に、国境という絶対的で物理的な距離が、私たちを強制的に引き裂こうとしているのだ。
海外に行けば、気軽にお茶をすることも、水族館へ行くこともできない。
放課後に待ち合わせることもできなくなる。
通話やゲームで繋がることはできても、彼女の体温に触れ、シトラスの香りを感じることは二度とできなくなってしまう。
隣に並び立って彼女を守りたいという私の決意は、立ち向かうべき相手を失い、宙に浮いたまま無残に切り捨てられようとしていた。
「嫌です」
私は震える唇から、絞り出すように声を張り上げていた。
「先輩がいなくなるなんて、絶対に嫌です。置いていかないでください……っ」
理性を保つことなど不可能だった。
私は砂を蹴って立ち上がり、先輩の体に向かって飛び込むように抱きついた。
私の腕の中に閉じ込めた彼女の体は、ひどく冷え切っており、小さく震えていた。
私は彼女の背中に腕を回し、少しでも自分から引き離されないように、ありったけの力を込めて強く抱きしめた。
私の肩に顔を埋めた先輩もまた、私の背中に腕を回し、服の生地を力強く握り締めてきた。
「あたしだって……あたしだって、茉莉花ちゃんと離れたくないよ……っ」
先輩の口から、ついに堪えきれなくなった嗚咽が漏れ出した。
完璧なエースとしての責任も、強気な笑顔も、すべてを投げ打って彼女は泣きじゃくった。
「もっと茉莉花ちゃんに、あたしのテニスしてる姿、見てほしかった。放課後、家庭科室にいる茉莉花ちゃんに会いに行きたかった。ゲームでも、茉莉花ちゃんのメイスの後ろでずっと戦っていたかった。勉強も、水族館も……全部、これからもっと一緒に色んなことができると思ってたのに。どうして、こんな急に離れ離れにならなきゃいけないのかな……」
親の都合に振り回され、自分の意志を何一つ反映させることができない子供の無力さ。
彼女はずっと一人でその理不尽な現実を受け止め、私に心配をかけないように、この旅行の間も必死に笑顔を取り繕い続けていたのだ。
彼女の抱えていた苦しみの深さを知り、私の目からもとめどなく涙が溢れ出した。
好きです。
先輩のことが、誰よりも大好きです。
心の底から湧き上がるその言葉が、私の喉の奥まで込み上げてきた。
彼女が遠くに行ってしまう前に、どうしてもこの思いを伝えたい。
友達という偽りの関係を終わらせて、私の本当の気持ちを知ってほしいという強い衝動が全身を駆け巡った。
しかし、私は固く唇を噛み締め、その言葉を喉の奥底へと無理やり押し留めた。
今、ここで私が恋愛感情としての好意を伝えれば、彼女はどうなるだろうか。
自分の力ではどうすることもできない引っ越しという重い現実を前にして、これ以上彼女の心を掻き乱し、新たな負担を強いる権利が私にあるのだろうか。
彼女はただでさえ、私との別れを悲しみ、涙を流してくれている。
そこに同性からの重たい恋愛感情を上乗せするのは、ただの私の自己満足であり、あまりにも身勝手な振る舞いだと思えた。
私は彼女を困らせたいわけではない。
彼女を苦しめる要素を、少しでも取り除いてあげたいだけなのだ。
だから私は、この残酷なまでの恋心を永遠に封印することを決意した。
伝えることのできない愛情のすべてを、彼女を抱きしめる腕の力に変えて。
夜の海辺には、終わりの近づく夏を象徴するかのような、冷たい風が吹き荒れていた。
私たちは言葉を交わすこともなく、ただ互いの存在を確かめ合うように強く抱きしめ合いながら、砂浜に座り込んで涙を流し続けた。
私の言えなかった本当の言葉は、絶え間なく打ち寄せる無慈悲な波の音に飲まれ、夜の海へと静かに溶けて消えていった。




