19 夜空に咲く光の魔法
夏休みも中盤に差し掛かった八月の昼下がり。
容赦のない太陽がアスファルトを焼き焦がし、窓の外からは蝉の鳴き声が絶え間なく降り注いでいた。
私の部屋には今、栞先輩がいる。
今夜開催される隣町の大きな花火大会へ一緒に行くため、夕方まで私の部屋で夏休みの宿題を進めることになっていたのだ。
先輩は大きな手提げ袋を抱えてやってきた。
その中には、夜に着るための浴衣一式が収められている。
ローテーブルに向かい合い、それぞれ持ち寄った問題集やノートを広げる。
先日、水族館から帰った夜に母から投げかけられた言葉や、一人で抱え込んでいた友達という境界線への不安が頭を過り、私は先輩を部屋に招き入れた直後、少しだけ動きがぎこちなくなってしまっていた。
先輩と至近距離で顔を合わせるのが、どこか恐ろしかったのだ。
しかし、そんな私の緊張など気にも留めない様子で、先輩はいつものように明るく笑いかけ、分からない問題を丁寧に教えてくれた。
彼女の纏う爽やかなシトラスの香りと、穏やかな声の響きに包まれているうちに、私の内側にあった強張りは次第に溶け去り、いつしか甘く心地よい時間へと変わっていった。
数ページ分の数学の課題を終わらせた頃、部屋の扉が控えめにノックされた。
「茉莉花、入るわよ」
返事をするよりも早く扉が開き、お盆を手にした母が顔を出した。
母の姿を見た瞬間、私の心臓は嫌な予感に大きく跳ねた。
あの夜、私をからかった母だ。
ここで何か余計なことを言われたらどうしようかと、私は身構えてしまった。
お盆の上には、氷がたっぷり入った麦茶のグラスが二つと、彩り豊かなフルーツゼリーが乗せられていた。
「お勉強中ごめんなさいね。暑いから、冷たいものでも飲んで休んでちょうだい」
母がテーブルの上にお盆を置くと、先輩はすぐに居住まいを正し、淀みない動作で深く頭を下げた。
「お邪魔しております。相澤栞と申します。茉莉花ちゃんには、いつも学校で仲良くしてもらっています。お気遣いいただき、本当にありがとうございます」
その礼儀正しく洗練された挨拶に、母は一瞬だけ目を丸くし、それから感心したように顔を綻ばせた。
「ご丁寧な挨拶をありがとう。茉莉花から話は聞いていたけれど、本当に綺麗でしっかりしたお嬢さんね」
母はそう言って優しく微笑み、最後に私の方へ視線を向けた。
その目は、あの夜のからかうような色ではなく(なるほど、これほど素敵な先輩なら浮かれるのも無理はないわね)と納得しているような、温かくも鋭い光を帯びていた。
私は顔から火が出そうになるのを必死に堪えながら、母が部屋を出ていくのを無言で見送るしかなかった。
「茉莉花ちゃんのお母さん、優しくて素敵な人だね。ゼリー、すごく美味しそう」
先輩は無邪気に笑い、冷たい麦茶を口に運んだ。
私は誤魔化すようにグラスを握り締め、自分の恋心が母に悟られていないことをひたすら祈り続けた。
やがて西日が部屋を黄金色に染め始め時計の針が夕方の五時を回った頃、私たちはいよいよ花火大会へ向かう準備に取り掛かることにした。
先輩が持参した手提げ袋から取り出したのは、深い藍色の生地に、白と薄紫色の朝顔が大胆に描かれた大人びて美しい浴衣だった。
先輩は浴衣を広げて立ち上がったものの、そこから先の手順が分からないようで、困ったように眉を下げた。
「あたし、テニスとか運動は得意なんだけど、こういう細かい着付けとかは全然駄目なんだよね。毎年お母さんに着せてもらってたから、一人じゃ帯も結べなくて」
少しだけ恥ずかしそうに頬を掻く先輩の姿は、完璧なエースという普段の印象とはかけ離れた、年相応の隙を感じさせてたまらなく愛おしかった。
「任せてください。私、着付け得意です! 綺麗に着せてみせます」
私は胸を張り、先輩の着付けを買って出た。
自分の浴衣を素早く着終えた後、私は先輩の正面に立ち、藍色の生地を彼女の細い体に沿わせていく。
襟の空き具合を調整し、腰紐を締める。
そして、最も難関である帯結びの工程に入った。
帯を背中側で回して受け取るため、私は両腕を先輩の腰の周りに回す形になった。
抱きしめるような至近距離。
私の腕の中に、先輩の細く柔らかな体が収まっている。
彼女の規則正しい呼吸に合わせて上下する胸元の動きや、首筋から微かに立ち上る体温が私の肌に直接伝わってくるようだった。
あの夜の葛藤が脳裏を過る。
同性の友達という安全な境界線の内側にいるからこそ、私はこうして堂々と彼女の体に触れることができる。
私が手先の器用な後輩であるという事実が、この極端な接触を正当化してくれているのだ。
その事実に対する微かな罪悪感と、彼女に触れられているという圧倒的な幸福感の狭間で、私の心臓は警鐘のように激しく打ち鳴らされていた。
息を殺し、指先の震えを悟られないように細心の注意を払いながら、私は美しい文庫結びを完成させた。
「できました。苦しいところはありませんか」
「全然。すごく綺麗に結んでくれてありがとう。茉莉花ちゃん、本当に器用だね」
感嘆の声を上げる先輩を鏡の前に座らせ、私は最後の仕上げに取り掛かった。
髪のセットだ。
先輩の綺麗な内巻きのボブヘアを、浴衣に似合うようにまとめ上げる。
私は彼女の背後に立ち、木製の櫛で柔らかな髪を丁寧に梳かしていった。
指の腹が彼女の頭皮や耳の裏に触れるたび、私の内側に甘い痺れが広がっていく。
短い髪でも崩れないように、両サイドから細かく編み込みを作り、襟足の髪と共に後頭部の低い位置で一つにまとめる。
最後に、持参してくれた金魚の細工が施された簪を挿して固定した。
髪を上げたことで露わになった、先輩の白く細いうなじ。
その無防備で美しい曲線を見つめていると、衝動的に触れてしまいたくなる誘惑に駆られる。
私は奥歯を強く噛み締めて自分の理性を総動員し、なんとかその場を離れた。
鏡に映る自分の姿を見た先輩は、大きく目を見開いた後、振り返って私の両手を強く握り締めた。
「すごい。茉莉花ちゃん、魔法使いみたい。あたしの短い髪が、こんなに可愛くまとまるなんて思わなかった。本当にありがとう」
満面の笑みで褒め称えられ、私の手は彼女の温もりに包まれている。
私が持っているこの器用さが、彼女を笑顔にし、彼女の美しさを引き立てることができた。
それが何よりも誇らしく、少しだけ彼女に近づけたような気がして、私は心の底から安堵の息を吐き出した。
すっかり陽が落ち、夜の闇が降りた街は花火大会に向かう人々の熱気で溢れ返っていた。
河川敷へと続く道には無数の屋台が立ち並び、裸電球のオレンジ色の光が夜を彩っている。
隣を歩く先輩の藍色の浴衣姿は、屋台の明かりに照らされて息を呑むほど美しかった。
すれ違う人々の多くが、ハッと息を呑んで先輩の姿を振り返るのが分かる。
私まで誇らしい気持ちになる一方で、彼女が誰かの遠い存在になってしまうような微かな寂しさも感じていた。
会場に近づくにつれて、周囲の人口密度は急激に増していった。
前後左右を人に囲まれ、歩く速度が極端に落ちる。
はぐれてしまいそうな不安を感じた直後、私の右手が、温かく細い指によって強く包み込まれた。
「人、すごいね。はぐれちゃうから、手、繋いでおこう」
先輩は前を向いたまま、極めて自然な動作で私の手を握り締めた。
同性の友人同士がはぐれないように手を繋ぐ。
それは決して珍しい光景ではない。
彼女にとっても、それは私を守るための純粋な善意からの行動に過ぎないのだ。
けれど、私の右手から全身へと伝播する熱は、単なる友人に抱くような穏やかなものではなかった。
指先が重なり合い、手のひらが密着する。
私はその熱を決して手放したくないという切実な思いを込めて、彼女の手を強く握り返した。
彼女は嫌がることもなく、私の力を受け入れてくれた。
河川敷の芝生に腰を下ろし、冷たいラムネで喉を潤していると、突如として腹の底に響くような重低音が空気を震わせた。
夜空に、巨大な光の花が咲き誇る。
赤、青、緑。
色彩の奔流が暗闇を切り裂き、遅れて聞こえる破裂音が私たちの鼓膜を叩く。
私は空を見上げていた視線を、隣に座る先輩の顔へと移動させた。
彼女の大きな瞳の中には、打ち上がる花火の光が鮮やかに反射している。
美しい横顔は、光の瞬きに合わせてその表情を微かに変え、まるで彼女自身が夜空の魔法にかかっているかのようだった。
花火の音のおかげで、私の激しい心音は彼女に届くことはない。
私は繋がれたままの右手の温もりを確かめながら、この完璧で美しい人へと思いを馳せた。
八月の終わりには、二人きりで一泊二日の旅行が控えている。
今はまだ、友達という安全な境界線の内側から彼女の横顔を見惚れることしかできない。
けれど、いつか。
この臆病な自分を乗り越えて、彼女に本当の気持ちを伝えられる日が来るのだろうか。
次々と打ち上がる花火の圧倒的な光の中で、私は彼女の手を握る自分の指先に、少しだけ強い力を込めた。
夜風が彼女のシトラスの香りを運び、私の夏をどこまでも甘く、切ない色で染め上げていった。




