18 友達という境界線
水族館のひんやりとした青い空気の余韻をまとったまま、私は夕暮れの道を歩き自分の家へと辿り着いた。
玄関の扉を開けると、夕食の準備をしている匂いが鼻をくすぐる。
靴を脱いで廊下を進みリビングの扉を開けると、エプロン姿の母がソファでテレビを見ながら休憩しているところだった。
私の顔を見るなり、母は少し驚いたように目を丸くした。
「おかえり。なんだか、いつもよりずっとお洒落してるじゃない? 髪もそんなに綺麗に編み込んで、ワンピースも新しくおろしたやつでしょ」
母の指摘に、私は咄嗟に自分の髪を触った。
崩れないように固めた編み込みは、まだ綺麗な形を保っている。
水族館で水飛沫を浴びて少しだけ乱れてしまったけれど、それすらも今日は愛おしい思い出の一部だった。
私は手に提げていた紙袋の中から、水族館のギフトショップで購入した色鮮やかなお菓子の缶と、可愛らしいイルカのマスコットキーホルダーを取り出した。
「これ、お土産。綺麗な缶のお菓子だったから、お母さんと一緒に食べようと思って」
テーブルの上にそれを置くと、母は包装紙をじっと見つめた後、視線を私の顔へと移動させた。
その口元には、からかうような笑みが浮かんでいた。
私の頬はまだ水族館での興奮と、先輩の隣を歩いていた時の熱を帯びたままだ。
鼻腔の奥には、彼女のシトラスの香りが微かに残っているような気がしてならない。
母は楽しそうに目を細め、決定的な一言を放った。
「なに、その浮かれよう。お土産なんて買ってきて、よっぽど楽しかったのね。もしかして、彼氏でもできたの?」
その瞬間、私の心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ね上がった。
彼氏。
その単語が持つ異性間の恋愛という絶対的な前提が、私の内側に隠していた柔らかで秘密の感情を乱暴に白日の下に引きずり出したような気がしたのだ。
顔の温度が一気に沸点に達するのを感じながら、私は声を裏返して全力で否定した。
「え、そ、そんなんじゃないし。友達だよ、学校の先輩。部活も違うけど、ゲームで仲良くなった人で、今日はたまたま一緒に遊びに行っただけだから」
早口で捲し立てる私の態度が、逆に怪しさを増幅させてしまったのかもしれない。
母は意味ありげに息を吐き、さらに口角を上げた。
「学校の先輩ねぇ。まあ、茉莉花も高校生なんだし、別に隠さなくてもいいのよ。そういう青春は大事にしなさい」
母の言う青春の対象が、決して同性の先輩に向けられたものではないことは痛いほど分かっていた。
私はそれ以上母の追求に耐えられなくなり、着替えてくるとだけ言い残して逃げるようにリビングから飛び出した。
階段を駆け上がり、自分の部屋の扉を閉めて背中を押し当てる。
冷房の効いていない部屋の空気は、昼間に蓄えられた熱気で重苦しかった。
私はその熱を払い除けることもせず、ベッドにそのまま倒れ込んだ。
天井の白い壁紙を見つめながら、私は先ほど自分が母に向けて放った言葉を口の中で何度も反芻した。
――友達だよ、学校の先輩。
私が先輩との関係を説明する時、これほど便利で、これほど残酷な免罪符はない。
私たちは、友達。
あるいは、気の合う先輩と後輩。
それ以上でも、それ以下でもない。
世間一般から見れば女子高生二人が休日にお洒落をして水族館へ遊びに行くことなど、ごくありふれた日常の光景に過ぎないのだ。
肩を寄せ合って写真を撮ろうが、一つの傘に入って雨を凌ごうが、それが同性同士である限り仲の良い女友達という強固な箱の中に収められ、誰からも疑われることはない。
母が冗談めかして言った彼氏という言葉の響きが、呪いのように頭の奥で反響し続けていた。
もし、私が男の子だったら。
あるいは、栞先輩が男の子だったら。
水族館でのあの至近距離や、雨の中での抱擁は、疑いようのない恋人たちの光景として成立していたはずだ。
この胸を焦がすような切実な思いも隠すことなく誰かに打ち明け、恋人ができたと母に胸を張って報告することすらできたのかもしれない。
同性だからこそ、今のこの心地よい先輩と後輩という関係が成立し、彼女の隣にいられる。
彼女は私に対して一切の警戒心を抱かず、あんなにも無防備な笑顔を見せ、惜しげもなく抱きしめてくれるのだ。
けれど、その境界線を一歩でも越えようとしたらどうなるのだろう。
私は制服のポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点灯させた。
ロック画面の奥に保存されている、今日撮ったばかりの写真を開く。
巨大な青い水槽の前で、先輩と私の顔が触れ合うほどに密着している一枚。
水飛沫を浴びて少し崩れた髪のまま、二人とも最高に幸せそうな笑顔を浮かべている。
この写真の中の先輩は、私のことをただの可愛い後輩として慈しんでいる。
純粋な友情と庇護欲の延長線上にある愛情だ。
もし、私が抱いているこの熱が、憧れでも尊敬でもなく明確な恋愛感情であると彼女が知ったら――。
純粋な好意だと思って与えていた抱擁や相合傘が、私にとっては恋心を煽る甘い劇薬だったと知ったら、彼女はどう思うだろうか。
同性の後輩から向けられる、逃げ場のない湿度の高い恋心。
気持ち悪い。
そう思われてしまうのではないかという恐怖が、冷たい蛇のように背筋を這い上がっていく。
彼女は完璧で、美しく、誰もが憧れる存在だ。
そんな彼女に、私のような冴えない後輩が恋愛感情を抱くなど、おこがましいにも程がある。
もし私の想いが露見すれば、彼女はきっと私を軽蔑するだろう。
今のこの温かな関係は一瞬で崩れ去り、私は彼女の隣に立つ資格を永遠に失ってしまうに違いない。
嫌われたくない。
今の関係を壊したくない。
だから私は、仲の良い後輩という安全な皮を被って、卑怯にも彼女の優しさを貪り続けているのだ。
自分の恋心を偽り、彼女の純粋な善意を騙し取っているという罪悪感がじわじわと胸の奥を締め付けていく。
息が詰まるような痛みに耐えきれず、私はスマートフォンを胸に抱きしめ、体を丸く折り曲げた。
窓の隙間から、夜を知らせる蝉の鳴き声が聞こえてくる。
夏の夜は、昼間の明るさで隠されていた不安や孤独を容赦なく引き摺り出していく。
八月には、二人きりで海沿いのリゾートホテルへ一泊旅行に行く約束をしている。
夜通し彼女の傍にいられるという事実が、私をこの上なく幸福な気持ちにさせる一方で、自分の理性がどこまで耐えられるのかという恐ろしい予感を突きつけてくる。
夜の海辺で、あるいは二人きりのホテルの部屋で、私は彼女に対して友達という境界線を守り通すことができるのだろうか。
あんなにも優しく触れられたら、シトラスの香りに包まれてその瞳に見つめられたら、隠し通してきた思いが不用意に溢れ出してしまうのではないか。
答えの出ない問いが、私の頭の中で堂々巡りを繰り返している。
誰かに相談することもできない。
絶対に知られてはならない秘密。
スマートフォンの画面が暗転し、黒いガラス面に自分の不安げな顔が映り込んだ。
それでも、やっぱり好きだ。
どんなに恐ろしくても、罪悪感に苛まれても、彼女を想う熱だけは少しも冷める気配がない。
私は暗闇の中で目を閉じ、今日彼女が見せてくれた無邪気な笑顔を思い浮かべた。
いつか、この気持ちをありのままに伝えられる日が来るのだろうか。
それとも、一生ただの友達として、彼女の幸せを隣で見守るだけで終わるべきなのか。
私には、まだ何も分からない。
熱を帯びた夏の夜の空気の中で、私は彼女との写真の温もりだけを頼りに、息を潜めて静かな葛藤に身を委ね続けることしかできなかった。




