17 飛沫に弾ける笑顔
七月の終わりの太陽は、朝から容赦なく地上を焼き付けていた。
駅の改札口付近は冷房の冷気と行き交う人々の熱気が混ざり合い、独特の気怠い空気が漂っている。
私は待ち合わせ時間の十五分前には到着し、柱の陰で何度もスマートフォンの画面を鏡代わりにして自分の姿を確認していた。
今日のために、私は持てるすべての技術を注ぎ込んで自分を飾り立てた。
いつもは単純にまとめるだけの髪を、器用な指先を駆使して複雑な編み込みを組み合わせたアップスタイルに仕上げ、崩れないようにしっかりと固定した。
服装は涼しげで清楚な印象を与える、淡い水色の小花柄のワンピース。
首元にはシンプルなシルバーのネックレスを飾り、少しだけ大人びた雰囲気を意識した。
先輩に、可愛いと思ってもらいたい。
その一心で準備した時間は、緊張と期待で胸が張り裂けそうだった。
人混みの向こうから、見覚えのある――けれど、いつもとは違う輝きを放つ姿が近づいてきた。
栞先輩だ。
彼女は、洗練された都会的な印象を与える濃紺のノースリーブのサマードレスを纏っていた。
綺麗に切り揃えられた内巻きのボブヘアは、サイドの髪を細いリボンとパレッタで上品に留め、片方の耳を見せるアレンジが施されている。
露出した細い腕と鎖骨の白さが、濃紺の生地に映えて眩しいほどだ。
学校での凛とした制服姿やテニスウェアとは違う、圧倒的なお姉さんらしさと美しさに、私は呼吸をするのを忘れて立ち尽くしてしまった。
先輩も私に気づくと、パッと顔を輝かせて歩み寄ってきた。
「おはよう、茉莉花ちゃん。わぁ、今日の髪型すごく可愛い。自分でやったの? ワンピースもすごく似合ってる」
開口一番、先輩は私の姿を真っ直ぐに見つめて褒めてくれた。
鼓動が早鐘を打ち、顔が熱くなるのを自覚する。
私は先輩のあまりの美しさに圧倒されながらも、精一杯の言葉を返した。
「おはようございます、栞先輩。先輩こそ、すごく……とびきり、おしゃれで綺麗です。そのドレス、すごく素敵です」
お互いのとびきりの姿に照れ笑いを浮かべ合いながら、私たちは水族館へと向かった。
夏の陽射しの下、並んで歩く私たちの間にはいつもより少しだけ甘く、弾むような空気が流れていた。
水族館の自動扉をくぐると、そこは外部の喧騒が嘘のような、ひんやりとした青の世界だった。
薄暗い館内を進み、最初に辿り着いたのはペンギンエリアだった。
巨大な水槽の中を、ペンギンたちが弾丸のような速度で泳ぎ回っている。
陸上の岩場では、数羽のペンギンがよちよちと不器用な足取りで歩いていた。
「すごい。茉莉花ちゃん、見て。あの子、すごく速い」
先輩は水槽に顔を近づけ、泳ぐペンギンの姿を指差してはしゃいだ。
学校での完璧で大人びた彼女の姿は影を潜め、まるで少女のように無邪気に瞳を輝かせている。
その無防備な笑顔と、ペンギンの動きに合わせて揺れるボブヘアの可愛らしさに、私の胸は甘く締め付けられた。
次に訪れたのは、クラゲの展示エリアだった。
照明が極限まで落とされた深い青の空間。
大小様々な硝子の水槽の中で、無数のクラゲたちがフワフワと漂っている。
幻想的な光を浴びて、半透明の体が青や紫、ピンクへと刻一刻と色を変えていく。
その神秘的でゆったりとした浮遊の姿を見つめていると、日頃の悩みや現実の重圧が、すべて霧のように消え去っていくような気がした。
「綺麗だね。ずっと見ていられそう」
先輩は水槽の前で立ち止まり、静かな声で呟いた。
深い青の光に照らされる、彼女の横顔。
睫毛の長さや、鼻筋の美しさ、そして微かに開かれた唇の艶やかさ。
その幻想的な光景に、私はクラゲよりも彼女の姿に見惚れてしまった。
静寂の時間の後は、メインイベントであるイルカショーのスタジアムへと向かった。
屋根のない巨大なプールを囲む客席は、すでに多くの観客で埋め尽くされている。
私たちは運良く、前方から三列目の席に座ることができた。
音楽が鳴り響き、ショーが始まった。
数頭のイルカたちが合図に合わせて水面を飛び出し、ダイナミックなジャンプを披露する。
その迫力とイルカたちの賢さに、スタジアム中から大きな歓声が上がった。
クライマックスの場面。
一頭の大きなイルカがプールの端で大きくジャンプし、その巨体を水面に叩きつけた。
凄まじい水飛沫が最前列の席を越えて、私たちのところまで飛んできた。
「きゃっ」
一瞬の出来事だった。
私は反射的に顔を背けたが、淡い水色のワンピースと綺麗にセットした編み込みの髪が少しだけ濡れてしまった。
先輩も同じだった。
濃紺のサマードレスの肩の部分が濡れ、顔にもいくつかの水滴が滴っている。
一瞬、私たちは呆然としてお互いの濡れた顔を見つめ合った。
髪が少し崩れ、水滴を弾く彼女の顔。
私のワンピースの濡れたシミ。
そのあまりの唐突さと、お互いの崩れた姿が可笑しくて、私たちは我慢できずに大きな声を上げて笑い合った。
「あはは! 茉莉花ちゃん、髪が少し濡れちゃったね。ごめん、前の方座ろうなんて言っちゃって」
「ううん、先輩こそ。お化粧、大丈夫ですか?」
私たちは笑いながらハンカチを取り出し、お互いの濡れた場所を拭き合った。
飛沫に弾ける笑顔。
濡れた肌の感覚。
そのすべてが、愛おしくてたまらなかった。
予期せぬ洗礼は私たちの距離をさらに縮め、この夏の思い出を鮮やかな色で塗り替えてくれた。
ショーの余韻が残る中、私たちは巨大なメイン水槽の前へと戻ってきた。
青い光の中を、巨大なジンベエザメやエイ、無数の魚たちが群れを成して泳いでいる。
その壮大な景色を背景に、私は勇気を出して先輩に提案した。
「あの、栞先輩。せっかくだから、ここで一緒に写真、撮りませんか?」
私はスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。
先輩は「いいね」と快諾し、私の隣へと歩み寄ってきた。
巨大な水槽の全体を背景に入れ、二人で画面に収まるためには至近距離まで顔を近づける必要があった。
肩と肩が、ぴったりと密着する。
彼女の温かな体温と、シトラスの香りが全身に巡り、私の心臓は爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされた。
私はスマートフォンの画面に映る、少し濡れて崩れているけれど――とびきりの笑顔を浮かべている二人を見つめた。
シャッターを切る瞬間、先輩がさらに力を込めて私の肩を抱き寄せ、私は彼女の腕の中に閉じ込められるような形になった。
青い魔法にかけられたような、水族館の巨大水槽の前。
シャッター音が鳴り響き、二人の最高の笑顔が一枚の写真に永遠に保存された。
夏の陽射しと、青い海。
これから始まる最高に楽しい夏休みの幕開けを予感しながら、私は手の中のスマートフォンをぎゅっと握り締めた。




