2 王子様の正体
「あー、決まらない!」
土曜日の朝。
自室のベッドには、クローゼットから引っ張り出したありとあらゆる服が散乱していた。
普段の私は、目立たないように黒やグレー、ネイビーといった暗い色の服ばかり着ている。
でも、今日は違う。
ゲームの中でいつも私を優しく導いてくれる、あの王子様みたいなザワさんに会うのだ。
画面越しでしか知らない彼だけれど、想像するだけで胸がドキドキする。
少しでも可愛いと思ってもらいたくて、私は鏡の前で何度も服を当ててはため息をついていた。
「この淡いブルーのワンピース……いや、私にはちょっと可愛すぎるかも。こっちの白いブラウスにプリーツスカートなら無難かな。でも、地味すぎる……?」
結局一時間以上悩んだ末に、少しだけ春らしいコーラルピンクのカーディガンに、ふんわりとした白いロングスカートという、私にしては最大限に女の子らしい服装に落ち着いた。
問題は、このまとまりのない柔らかな亜麻色のくせっ毛だ。
いつもは適当におろしているだけだけど、今日は不器用なりにヘアアイロンと格闘し、なんとかハーフアップにまとめてみた。
鏡に映る自分は、相変わらずパッとしない平凡な女子高生だけれど、いつもよりはほんの少しだけ明るく見える気がした。
(よし……行くぞ!)
気合を入れて家を出る。
待ち合わせの場所は、都内にあるカフェ・ヴァレンタインというお店だ。
電車に乗っている間も、私の心臓はうるさいくらいに鳴り続けていた。
先日、痴漢に遭った時の恐怖がふと蘇りそうになったけれど、今日は不思議と大丈夫だった。
だって、この電車を降りればザワさんが待っているのだから。
彼が守ってくれるような気がして、私はギュッとカバンの持ち手を握り締めた。
駅から少し歩いた裏路地に、目的のカフェ・ヴァレンタインはあった。
レンガ造りの外観に、アンティーク調の木の扉。
窓からは温かなオレンジ色のランプの光が漏れていて、とてもお洒落で落ち着いた雰囲気のお店だった。
(こんな素敵なお店を知ってるなんて、やっぱり大人の男の人なのかな)
約束の時間まであと十分。
お店の前には、それらしき男性の姿はまだない。
私はお店の少し離れた場所で、スマホの画面と周囲を交互に見比べながらそわそわと待っていた。
長身で、優しげな雰囲気の男の人。
銀色の鎧は着ていないだろうけど、きっと落ち着いた素敵な人のはず。
――そんな妄想を膨らませていた時だった。
「あの……もしかして」
不意に、背後から声をかけられた。
高く澄んだ、凛とした声。
男性の声ではない。
振り返ると、そこには私より少し背の高い一人の女性が立っていた。
日に当たってほんのり茶色く透ける黒髪の、綺麗な内巻きボブ。
どこか見覚えのある、大きな瞳とはっきりとした顔立ち。
そして、爽やかなシトラスの香り。
カジュアルだけれど洗練された白いシャツにデニムというシンプルな服装が、彼女のスタイルの良さを引き立てていた。
「えっ……」
「キンドレの、オフ会の人……かな? 雰囲気でなんとなく……」
彼女は少しだけ首を傾げて、私の顔を覗き込んだ。
私は瞬きを繰り返す。
どういうことだろう。
ザワさんは男性のはずだ。
もしかして、他の参加者の人だろうか。
でも、それ以上に私の頭を混乱させたのは――彼女の顔だった。
「あ、あの! もしかして、こないだ電車で……!」
「え?」
彼女が目を丸くする。
間違いない。
あの満員電車で、痴漢から私を救い出してくれた女の子だ。
今日は制服を着ていないから一瞬わからなかったけれど、あの毅然とした瞳は絶対に忘れない。
「あの時、助けていただいた……同じ学校の……」
「あっ! あの時の! なんだ、同じゲームやってたんだ! 世間って狭いねー!」
彼女はパッと花が咲いたように明るく笑った。
奇跡みたいな再会に、私は驚きで言葉が出ない。
でも、待って。
だとしたら、ザワさんは?
私がきょろきょろと周囲を見渡していると、彼女は少し不思議そうな顔をして言った。
「もしかして、マリちゃん……だよね?」
「はい、そうですけど……あの、ザワさんは……?」
私が尋ねると、彼女はふっと息を吐いて、少し照れくさそうに頬を掻いた。
「あー……うん。驚くよね。あたしが、ザワだよ」
「…………え?」
時が止まったかと思った。
目の前にいる、私を痴漢から助けてくれた明るくて綺麗な女の子。
ゲームの中で、銀の鎧を着て私を守ってくれた、優しくてかっこいい男性。
その二人が、同一人物?
「ええっ!? う、嘘! だって、男の人じゃ……!」
「ごめんごめん! 騙すつもりはなかったんだけど、言い出すタイミング逃しちゃってさ。とりあえず、中入ろっか」
ザワさん……いや、目の前の女の子は、呆然とする私の背中を軽くポンと押して、カフェ・ヴァレンタインの重厚な木の扉を開けた。
カランコロンと、心地よいベルの音が響く。
案内された奥のテーブル席に向かい合わせで座っても、私の混乱はまったく収まっていなかった。
仄かに抱いていた、ゲームの中の王子様への初恋めいた感情。
それが、突然目の前に現れた同性の――しかも命の恩人である女の子に上書きされて、脳の処理が完全に追いついていないのだ。
「えっと、何にする? あたしお腹空いちゃって。ここの『ベーコンと彩り野菜のサンドイッチ』がすごく美味しいらしいんだよね」
「あ……じゃ、じゃあ、私もそれで……」
「すみませーん! ベーコンと彩り野菜のサンドイッチ、二つお願いします。あと、アイスティー二つで」
慣れた様子で店員さんに注文を済ませると、彼女は改めて私に向き直り、ニコッと笑った。
「改めて自己紹介するね。あたしは相澤栞。相澤だから『ザワ』。2年A組だよ。よろしくね、マリちゃん」
「あ……1年C組の、永山茉莉花です。マリって、私の本名なんです……」
相澤栞先輩。
やっぱり私より一つ年上の先輩だったんだ。
それにしても、あの落ち着いたチャットの文面と、目の前でコロコロと表情を変えて笑う明るい栞先輩のギャップが凄まじい……!
「ごめんね、マリちゃん。オフ会とか言ったけど、実は参加するのあたしたち二人だけなんだ。最初は他の人も誘ってたんだけど、みんな都合が悪くなっちゃってさ。でも、どうしてもマリちゃんに会いたくて」
「私に……?」
「うん。ゲームでいつも一緒にいて、すっごく楽しかったから」
ストレートな言葉に、胸がドキッとする。
「あの……なんで、ゲームでは男性のキャラクターを使ってたんですか?」
サンドイッチが運ばれてくるまでの間、私はどうしても気になっていたことを尋ねた。
ちょうどそこへ、店員さんが「お待たせいたしました」と先に二つのアイスティーを運んできた。
栞先輩は「ありがとうございます」と軽く会釈をしてグラスを受け取ると、アイスティーのストローをカラカラと回しながら、少しだけ真面目な顔つきになった。
「うーん……あたしね、親がけっこう厳しくてさ」
ぽつり、とこぼれ落ちた言葉は、いつもの明るい彼女からは想像できないほど、少しだけ重みを帯びていた。
「成績は常に上位じゃなきゃダメ。部活も、やるからには結果を出せって。テニス部でも、一応エースなんて呼ばれてるから、周りの期待も大きくてさ……『相澤栞』でいる時は、いつもきちんとした、強くてかっこいい優等生でいなきゃいけないんだよね」
窓から差し込む光が、彼女の茶色く透ける髪をキラキラと照らしている。
完璧に見える彼女にも、そんな重圧があったなんて思いもしなかった。
「だからかな。ゲームの中くらいは、自分じゃない誰かになりたかったんだ。現実のしがらみとか期待とか全部捨てて、ただシンプルに、大きな槍を振り回して敵を倒すだけの男になりたかった。だから、あんな男キャラ作って、喋り方もちょっと男っぽく作ってたんだよね」
そう言って、栞先輩は「痛いよねー」と自嘲気味に笑った。
私は、なんだか胸の奥がキュッと締め付けられるような気がした。
私が現実逃避でキンドレッド・ソウルズ・オンラインを始めたように、栞先輩もまた、息苦しい現実から逃れる場所を探していたのだ。
王子様だと思っていたザワさんは、女の子だった。
淡い恋心は、見事に空振りしてしまった。
でも。
(栞先輩も……私と同じで、不器用な人なんだ)
「……痛くないです」
私は、運ばれてきた彩り鮮やかなサンドイッチを前に、無意識のうちに口を開いていた。
「私は、ザワさんに――栞先輩に助けられました。ゲームの中でも、現実の電車の中でも。だから、先輩がどんなキャラクターでも、私の恩人であることに変わりはありません」
私の言葉に栞先輩は一瞬目を丸くして、それからふにゃりと、今日一番の柔らかい笑顔を浮かべた。
「……そっか。ありがとう、茉莉花ちゃん」
名前で呼ばれて、顔が少し熱くなる。
王子様との甘い恋は始まらなかったけれど、その代わり、私にはもっと特別で、少し不思議な繋がりができたような気がした。
ひと口かじったベーコンと彩り野菜のサンドイッチは、頬が落ちそうになるくらい、とびきり美味しかった。




