1 脳筋ヒーラーはじめました
私、永山茉莉花は、控えめに言っても冴えない人生を送っていた。
高校に入学して数ヶ月。
1年C組での私の立ち位置は、すっかり空気として定着していた。
お昼休みになれば、楽しそうに机をくっつけ合う女子たちの輪には当然入れず、お弁当を食べ終えると逃げるように図書室へ向かい、時間をつぶす。
成績は良くも悪くもない中の下で、先生から目をつけられることもなければ、褒められることもない。
生まれつき色素の薄い柔らかな亜麻色の髪は、毎朝どんなに丁寧に櫛を通してもくせっ毛のせいでまとまらない。
肩くらいの長さでいつもぼんやりと広がってしまっていて、ただでさえ薄い私の存在感をさらにあやふやなものにしている気がした。
幸も薄く、影も薄い。
クラスの中心で笑っているような華やかなグループには入れず、かといって我が道を行くオタクグループに所属するような熱中できる趣味もない。
とにかく、何をやってもパッとしないのだ。
唯一の得意教科は、黙々と一人で作業ができる家庭科だけれど、そんなことをアピールしたところで「ますます地味だね」と苦笑いされるのがオチだろう。
裁縫や料理ができても、このスクールカーストの底辺から抜け出せるわけではないのだから。
そんな私の冴えない日常を象徴するかのような出来事が、今朝、息が詰まるような満員電車の中で起きていた。
(嘘……でしょ……勘弁してよ……!)
ガタン、と電車が大きく揺れるたびに、背後から押し付けられる不快な感触。
そして、制服のプリーツスカートの裾をまさぐる生暖かい手。
梅雨前のジメジメとした車内は、汗と香水と整髪料の匂いが入り混じり、ただでさえ息苦しい。
逃げ場のない密室で、私の心臓は早鐘のように激しく打ち鳴らされていた。
声を出さなければいけない。
誰かに助けを求めなければいけない。
頭では痛いほどわかっているのに、恐怖で喉が干からびたように張り付いて、悲鳴すら上げられない。
震える唇を強く噛み締め、涙が滲む目をきつく閉じて、ただブルブルと震えて耐えるしかなかった。
周りの大人たちは皆スマホの画面に夢中で、イヤホンをしていて、誰も私の異変に気付いてくれない。
助けて、と心の中で何度叫んでも、声にならない声は誰にも届かない。
このまま次の駅まで永遠に続くのかと絶望しかけた――その時だった。
ドンッ、と強い力が加わり、私にねっとりとまとわりついていた男の腕が、乱暴なほど力強く上へ引っ張り上げられた。
「この人、痴漢です!!」
車両の喧騒を切り裂くように響き渡った、凛とした高く澄んだ声。
ハッとして振り返ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。
日に当たってほんのり茶色く透ける黒髪を、綺麗に切り揃えられた内巻きのボブヘアにした彼女。
その毅然とした瞳が男をキッと睨みつけ、私の盾になるように前に立ちはだかってくれていた。
ふわりと、爽やかなシトラスの香りが鼻をくすぐる。
男は次の駅で、周囲の乗客の協力もあって駅員に引き渡された。
ホームのベンチで震えが止まらず、足元がおぼつかない私と一緒に、その女子生徒もわざわざ電車を降りて私の背中を優しくさすってくれた。
「怖かったでしょ? ……あ、その制服、あたしと一緒の学校だ。一緒に行こっか」
彼女は安心させるような優しい声でそう言って、私の冷え切った手をしっかりと握ってくれた。
その手のひらはとても温かく、少しだけ硬いマメの感触があった。
何かスポーツの部活をやっているのだろうか。
名前を聞きたかった。
せめて学年だけでも知りたかった。
けれど、極度の緊張と恐怖から解放されたばかりの私の勇気はすっかり萎縮してしまっていて、学校の校門に着くまでただ彼女の力強い手に引かれるまま歩くことしかできなかった。
「じゃ、あたしこっちだから。気をつけてね。もう大丈夫だよ」
「あ、あの! ……ありがとうございました」
ようやくの思いで絞り出した蚊の鳴くようなお礼に、彼女は太陽のように眩しい、明るい笑顔を向けて去っていった。
艶やかな髪が軽やかに揺れる後ろ姿を、私はいつまでも見送っていた。
(見たことない子だったな。学年が違うのかな……)
あの温もりと力強さ。
堂々とした立ち振る舞い。
何から何まで私とは正反対の、光のような人だった。
◇
その日、学校でも家に帰ってからも、私はひたすら落ち込んでいた。
あんな風に堂々と声を上げられる彼女と、ただ震えることしかできなかった自分。
比べてはいけないとわかっていても、どうしようもなく惨めだった。
授業中に指されても答えられずにもごもごしてしまい、クラスメイトの視線が痛かった。
小テストの点数はいつも通り中途半端な六十点。
帰宅すれば、夕食の席で母親から「あんた、また背中丸めて。もっとシャキッとしなさいよ。そんなんじゃ将来苦労するわよ」とため息交じりに小言を言われる始末だ。
自室に逃げ込み、ベッドに倒れ込んで、深いため息をついた。
(何か、私もひとつくらいは……半端じゃないものがほしい)
中途半端で冴えない自分を変えたい。
誰かに頼られるような、強い自分になりたい。
今日出会ったあの子のように、凛として生きてみたい。
そんな現実逃避めいた衝動から、私はスマホを手に取り、最近クラスの女子たちの間でも少し話題になっていたオンラインゲーム――キンドレッド・ソウルズ・オンラインをインストールした。
現実がダメなら、せめてゲームの世界だけでも、違う自分になってみたかった。
長いダウンロードを終え、キャラクター作成画面を開く。
まずは名前の入力だ。
凝った名前を考えるような想像力も持ち合わせていない私は、自分の名前からそのまま取ってマリと入力した。
次は職業の選択。
画面には剣士、魔法使い、弓使い、盗賊といった選択肢がずらりと並び、それぞれに複雑な説明が書かれているが、MMORPGなんて初めてプレイする私にはさっぱりわからない。
(職業……ちょっとよくわからないな。あ、この服可愛い。これにしよ)
ふんわりとしたフリルがあしらわれた白いローブと、可愛らしい小さな帽子の衣装が一番気に入ったので、私は深く考えずに回復術師を選んだ。
(え、ステータス? 何それ……ポイントを割り振れるの? うーん、余らせてももったいないし、とりあえず一番上のSTRってやつに全部振っておこう)
あとから知ったことだが、STRとはStrength、つまり筋力――物理攻撃力のことだった。
後方から魔法で味方を回復するヒーラーにとって、最も不要と言っても過言ではないステータスである。
そんな致命的なミスを犯しているとは露知らず、初期のフィールドに降り立った私は、さっそく目の前に現れた低級モンスターと遭遇した。
「えいっ、えいっ!」
私は初期装備の木の杖を両手で力強く振り回し、スライムのようなモンスターをぺちぺちと殴った。
魔法の使い方もわからないし、そもそもSTRに全振りしているせいか、直接殴っても物理攻撃のダメージが通るのだ。
(なんか地味だな……ゲームの世界でも、私はこんな感じなんだ……)
必死に杖を振り回しながら、私は自嘲気味に息をついた。
そう思っていた矢先だった。
――ザシュッ!!
鋭い風切り音と共に、巨大な槍が視界を横切り、私の周りに群がっていたモンスターを一掃した。
(わ、かっこいい。王子様みたい……)
砂煙が晴れた後に現れたのは、銀色の重厚な鎧を身に纏い、身の丈ほどもある槍を軽々と構える男性キャラクターだった。
美しいモデリングの凛々しい顔立ちに、思わず見惚れてしまう。
マントが風に揺れ、手にした槍が鈍く光っている。
すると、彼の頭上にポンッとチャットの吹き出しが出た。
『ね、なんでヒーラーなのに殴ってるの?』
(!! 声かけられた)
初めての他プレイヤーからの接触に、スマホの画面をフリックする手が震える。
どう返信すればいいのかわからず、あたふたしながらフリック入力で文字を打ち込んだ。
『魔法の使い方がわからなくて……』
『しかもステータス見たら攻撃力全振りじゃん。初心者さん? もしよかったら、パーティ組もうよ』
相手はニコッと笑うような可愛らしいエモートをしてくれた。
(あ、えっと……フレンド申請きてる! 承認して……えっと、チャットは……あ! パーティ申請もきた!)
パニックになりながらも画面をタップする。
彼の名前はザワ。
職業は聖騎士。
パーティの最前線で盾役となり、敵の攻撃を引き受ける役割らしい。
ザワは信じられないくらい優しかった。
右も左もわからない私に、基本操作からチャットの打ち方、スキルのセット方法、戦い方まで丁寧にテキストで教えてくれた。
『私、ヒールうまくできなくて……ごめんなさい』
『いいよいいよ。マリちゃんは前でそのまま敵殴ってて。ヘイト稼ぐから』
『でも、それじゃあヒーラーの意味が……』
『一人で戦うの寂しかったからさ。隣で一緒に戦ってくれるだけで嬉しいよ』
ヒーラーなのに前衛で杖を振り回して物理で殴り、タンクがそれを全力でフォローする。
絶対におかしい歪なパーティ構成だけど、ザワと一緒に戦う時間は、私のモノクロだった冴えない日常を鮮やかに塗り替えていった。
それからというもの、私たちは夜な夜なチャットで会話をしながら一緒にゲームをするようになった。
画面の向こうで紡がれる、彼の優しくて頼もしい言葉の数々を見るたびに、私の胸は少しずつ高鳴っていった。
顔も知らない相手。
画面越しの文字だけのやり取り。
それでも、ザワと過ごす時間は私にとってかけがえのないものになっていた。
学校で嫌なことがあっても、夜になれば彼がチャットで褒めてくれる。
ドジを踏んで敵の罠に引っかかっても、『ドンマイ! マリちゃんらしくて可愛いよ』と笑って許してくれる。
私が『今日は家庭科でクッキーを焼いたんです』と報告すれば、『いいなー、食べてみたい』と返してくれる。
現実世界の誰も見向きもしない私の小さな日常を、彼はいつも優しく受け止めてくれた。
(私、ザワさんのこと……ちょっと好きかも……)
そんな仄かな恋心に気付き始めた、ゲームを始めて一ヶ月が経とうとしていたある週末の夜のことだった。
部屋の電気を消して、ベッドに寝転がりながらプレイしていた私のスマホが、ピコンと短く震えた。
いつものように二人でダンジョンのボスを倒し、街に戻って一息ついたタイミングで、ザワからダイレクトチャットの通知が飛んできたのだ。
『ねえ、マリちゃん』
『はい? どうしました?』
『来週の土曜日って暇?』
急な予定の確認に、心臓がドクンと大きく跳ねる。
暗い部屋の中で、文字盤を見つめる目が自然と見開かれた。
『実はさ、キンドレの小規模なオフ会があるんだよね。都内のカフェなんだけど。もしよかったら……一緒にどうかな?』
オフ会。
それはつまり、現実の世界で、あの優しくてかっこいい王子様であるザワさんに会えるということ。
『現実のマリちゃんにも会ってみたいな』
画面に表示されたその一文に、私の顔はカッと熱くなった。
全身の血が沸き立つような、むず痒いような感覚。
ゲームの中ではなんとか上手くやれているけれど、現実の私は相変わらず冴えない、ただの地味でパッとしない女子高生だ。
幻滅されたらどうしようという不安が、胸の奥で黒い渦を巻く。
けれど、それ以上に、彼に会ってみたいという強烈な好奇心と、惹かれる気持ちが抑えきれなかった。
(どうしよう。でも……会いたい)
震える指で『行きたいです』と返信ボタンを押した瞬間、私の運命が大きく動き出すことになるとは――この時の私はまだ知る由もなかった。
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