12 期末テストの憂鬱
七月に入り、季節は重苦しい梅雨を抜けて本格的な夏を迎えようとしていた。
夜になっても昼間の熱気が空気に張り付き、開け放った窓から入り込む風すらも生温かい。
私は自室の机に向かい、スマートフォンの画面越しに仮想世界の涼しい夜の森を駆け回っていた。
聖職者に転職して装備できるようになった、金属製の重たいメイス。
それを両手でしっかりと握り締め、前方で盾を構える銀の騎士――ザワの背後から飛び出して敵の頭上へと振り下ろす。
重い衝撃が画面越しに伝わってくるような錯覚を覚えながら、私は次々と現れるモンスターを的確に粉砕していった。
戦闘の合間、安全な場所に移動して体力を回復させている時だった。
ザワの頭上に、チャットの吹き出しが現れた。
『そういえば、来週から期末テストだね。マリちゃん、テスト勉強の進み具合はどう?』
その一文を目にした瞬間、私は手にしていたメイスを投げ捨てたくなるほどの現実感に引き戻された。
期末テスト。
それは、成績が常に中の下を彷徨っている私にとって、梅雨の湿気よりも重くのしかかる憂鬱な単語だった。
『全然駄目です。特に数学と英語が絶望的で、このままだと赤点を取ってしまうかもしれません』
情けない現実を正直に打ち明けると、画面の向こうの先輩は少し考えるような間を空けた後、信じられないような提案をしてきた。
『もしよかったら、今週末、うちで一緒に勉強しない? あたしでよければ、分からないところ教えるよ』
スマートフォンの画面を見つめたまま、私は完全に硬直してしまった。
先輩の家に行く。
それはつまり、先輩のプライベートな空間に足を踏み入れるということだ。
親御さんが厳しいという話を聞いていたため、私のような冴えない後輩がお邪魔してもいいのだろうかと強い不安がよぎった。
しかし、先輩からの次のメッセージでその懸念は払拭された。
『週末は両親とも仕事で一日中家にいないから、気兼ねなく勉強できると思うんだ。どうかな?』
両親が不在の家で、先輩と二人きりでテスト勉強。
魅力的すぎる誘いに、私の指先は思考を介さずに承諾の返信を打ち込んでいた。
そして迎えた日曜日。
私は日傘を差し、肌を焼くような強烈な陽射しを避けながら教えてもらった住所を頼りに住宅街を歩いていた。
手には、途中のスーパーで購入した少し高価な百パーセントのオレンジジュースの瓶が入った手提げ袋を握り締めている。
手ぶらで訪問するわけにはいかないと考え、私なりに選んだ差し入れだった。
閑静な住宅街の一角に、ひときわ立派な門構えの家があった。
表札には相澤の文字が刻まれている。
厳格なご両親が住んでいるという事実に納得してしまうような、整然とした外観だった。
大きく深呼吸をしてから、インターホンのボタンを押す。
数秒後、扉が開いて顔を出したのは、白いノースリーブのブラウスに薄手のカーディガンを羽織り、風通しの良い涼しげなスカートを穿いた先輩だった。
学校の制服姿やテニスウェアとはまた違う、柔らかで女の子らしい私服姿に、私は一瞬で目を奪われてしまった。
「いらっしゃい、茉莉花ちゃん。暑かったでしょ、早く入って」
招き入れられた家の中は冷房が効いており、静寂に包まれていた。
ご両親が不在の家は、広すぎて少しだけ寂しいような気がした。
案内された二階の部屋の扉を開けると、そこは先輩の聖域だった。
壁紙は清潔感のある白で統一され、余計なものが一切置かれていない整頓された空間。
机には分厚い参考書が並び、部屋の隅にはテニスラケットが丁寧に立てかけられている。
そして何より、部屋中に先輩からいつも香るあの爽やかなシトラスの香りが満ちていて、私はただ呼吸をするだけで全身の血が沸き立つような感覚に陥った。
部屋の中央に置かれた木製のローテーブルの前に、並んで腰を下ろす。
「あの、これ。差し入れです。よかったら、休憩の時にでも飲んでください」
私が手提げ袋からオレンジジュースの瓶を取り出して渡すと、先輩は目を細めて嬉しそうに笑った。
「ありがとう。すごく美味しそう。冷やしておくから、後で一緒に飲もうね」
先輩が台所へ向かっている間、私は自分の鞄から数学と英語の教科書、そして真っ白なままの問題集を取り出した。
戻ってきた先輩は私の隣に座り、早速勉強会が始まった。
文武両道のエースである先輩の教え方は、学校の教師よりもずっと分かりやすかった。
私がどこでつまずいているのかを的確に見抜き、決して急かすことなく私が理解するまで優しい声で丁寧に解説してくれる。
数式を書き込む先輩の細い指先や、真剣な横顔を間近で見つめていると、自分がどれほど恵まれた環境にいるのかを実感せずにはいられなかった。
二時間ほど集中して問題集を進めた頃、先輩が小さく息を吐いて伸びをした。
「よし、区切りもいいし、少し休憩しようか。待ってて、さっきのジュースと、冷たいもの持ってくるね」
数分後、先輩は氷を入れたグラスに注がれたたっぷりのオレンジジュースと、二つの棒付きアイスを持って戻ってきた。
透明なグラスの表面には無数の水滴が浮かび、涼しげな景色を作り出している。
私たちはグラスを軽く打ち合わせてから、冷たいジュースを喉に流し込んだ。
果実の濃い甘みと酸味が、勉強で疲れた脳に染み渡っていく。
「美味しい。茉莉花ちゃん、これすごく美味しいよ」
「よかったです。先輩の好みが分からなかったので、無難なものにしてしまって」
「ううん、柑橘系大好きだから嬉しい。はい、アイスも溶けないうちに食べて」
渡されたソーダ味のアイスを囓りながら、私たちは学校のことやゲームのことをとりとめもなく話した。
厳格な親の目が届かないこの部屋で、先輩はいつになくリラックスした表情を浮かべており、その柔らかな空気が私を甘く包み込んでいた。
短い休憩を終え、再びローテーブルに向かい合う。
私は先ほど教わった公式を使い、数学の応用問題に挑んでいた。
ノートにシャーペンの芯を走らせる音だけが、静かな部屋に響いている。
最後の計算を終え、答えを書き込んだ直後だった。
「どう、解けそう?」
不意に、真横から声が降ってきた。
振り返るよりも早く、私の視界の端に先輩の顔が入り込んできた。
先輩は自分の解答を確認するために、上半身を私の方へ大きく傾け、私の手元のノートを覗き込んでいたのだ。
肩と肩が触れ合いそうなほどの至近距離。
先輩の艶やかな内巻きのボブヘアが重力に従って傾き、その毛先が私の半袖から露出した腕に微かに触れた。
くすぐったい感触と共に、シトラスの香水と、先ほど飲んだオレンジジュースの甘い香りが入り混じって鼻腔を突き抜ける。
視線を僅かに横へ動かすだけで、先輩の整った横顔が目前にあった。
冷たいアイスとジュースで潤いを帯びた唇が、微かに開かれている。
その艶やかな質感から目が離せなくなり、私の呼吸は完全に停止してしまった。
「うん、式も合ってるし、計算ミスもない。完璧だよ、茉莉花ちゃん」
ノートの答えを確認した先輩が、顔を近づけたまま私の方へと視線を移した。
至近距離で視線が絡み合う。
先輩の大きな瞳の奥に、呆然としている私の顔がはっきりと映っていた。
胸の奥で、暴動でも起きているかのような激しい音が鳴り響く。
自分の心臓の音が先輩に聞こえてしまうのではないかと錯覚するほど、それは大きく、力強い鼓動だった。
顔から火が出るほど熱い。
部屋の冷房はしっかりと効いているはずなのに、体中の血液が沸騰しているかのように熱を帯びている。
私は弾かれたように顔を逸らし、ノートの上に視線を戻した。
「あ、ありがとうございます。先輩の教え方が、上手だからです」
声が震えないように必死に制御しながら、私はどうにかそれだけを絞り出した。
先輩は私の動揺に気づく様子もなく、ただ嬉しそうに微笑んで自分のノートへと向き直った。
それからの時間は、私にとって甘く残酷な拷問だった。
先輩が隣で息をするたび、ページをめくるたび、私の集中力はあっけなく霧散してしまう。
赤点を回避するための勉強会のはずが、私の頭の中は隣に座る先輩の存在感で完全に飽和していた。
夕方になり、西日が部屋を茜色に染め始める頃、私は参考書を鞄にしまって先輩の家を後にした。
玄関先で見送ってくれた彼女の笑顔と、オレンジジュースの甘い余韻が、帰り道を歩く私の心を満たしている。
ゲームの世界ではレベルを上げて二次職に就き、鈍色のメイスを振るうことで少しは彼女に近づけた気がしていた。
けれど、現実の世界の彼女は、私が追いつくにはあまりにも遠く、そして完璧で美しい。
勉強一つとっても、私は彼女に甘えてばかりだ。
せめて今度の期末テストで、先輩が驚くような良い点数を取ってみせよう。
そして、笑顔で彼女に報告するのだ。
ただの赤点回避ではなく、彼女の隣に立つに相応しい自分になるために。
焼け付くような夏の日差しが影を潜めた夕暮れの道を歩きながら、私は誰に誓うでもなく、強く固い決意を胸に抱いていた。




