第7話 帰りたい場所
うさぎは、食べ終わっても窪みへ戻らなかった。
空になった包みの端を嗅ぎ、鼻先で押す。
それから豪を見た。
「もうない?」
「それで一食分だって」
うさぎは包みを見下ろした。
納得したのかは分からなかった。
豪は少しかがんだ。
耳が伏せられる。
すぐに身体を起こした。
「取りゃしないよ」
うさぎは答えなかった。
澪が豪の隣で腰を下ろした。棍棒は膝の上に置いたままだった。
「私たちも、ちょっと休んでいい?」
うさぎの鼻が動いた。
「そこ?」
「ここ。そっちには行かないから」
うさぎは窪みの方を見た。
それから二人を見比べ、空の包みをくわえた。
引きずるようにして根の近くまで運ぶ。
豪も、ゆっくり座った。
根の間から、丸い目がこちらを見ていた。
*
澪が自分の水を飲んだ。
蓋を閉める音に、うさぎの耳が向いた。
豪はそれを見て、自分の容器を持ち上げた。
「水もいるか?」
うさぎはしばらく黙っていた。
「のむ」
豪は購入画面を開きかけた。
そこで、キツネに渡した皿を思い出した。
口の広い器があれば、どの動物も飲みやすい。これからも必要になるかもしれない。
小皿を一つ買う。
【所持ポイント:124】
膝の上に現れた皿へ、自分の水を少し注いだ。
「これ、置くぞ」
立ち上がる前に声をかけた。
うさぎは窪みへ引っ込んだ。
豪は食べ物を置いたのと同じ場所に皿を置き、譲渡してから離れた。
しばらくして、鼻先が出てきた。
うさぎは何度も止まりながら近づき、水を飲んだ。
豪はその様子を見ていた。
飲み終わったうさぎが顔を上げる。
「なくなった」
「足せるよ」
容器を持ち上げると、うさぎはまた根のそばへ戻った。
豪は皿に触れず、上から水を注いだ。
それだけのことで、ずいぶん時間がかかった。
*
「買い方、もう一回やってみる?」
澪が聞いた。
うさぎは濡れた口元を動かした。
「いっぱい、出る」
「うん。でも、少しずつ」
澪が豪を見た。
「私も画面を開きます。同じ順番か分からないですけど」
「分かった。俺、周り見てる」
豪は棍棒を持ち直した。
背後の斜面と、木々の隙間へ目を向ける。
「食べ物を買いたいって、考えられる?」
澪が言った。
間が空いた。
「出た」
「何がある?」
「わかんない」
「さっきと同じ?」
「うん」
澪が息を吐いた。
豪は横目で彼女を見た。
困った顔をしていた。
文字の並びを教えるにも、何を見ているのか確かめられない。
「一番上を選べる?」
澪が聞く。
「うえ」
「そう。上にあるやつ」
うさぎが顔を上げた。
空を見ていた。
「……ごめん。そっちじゃなくて」
澪は途中で言葉を切った。
うさぎの身体が、また縮んでいた。
豪は手元の容器を回した。
菜月に算数を教えたときも、途中からこんな顔をさせてしまったことがある。
分からないと言われ、同じ説明を繰り返した。
最後は、どこが分からないんだ、と聞いた。
それが分かれば聞かないよ、と菜月に怒られた。
「一回やめよう」
豪が言った。
澪が画面から顔を上げた。
「腹もいっぱいになったばっかだし」
「……そうですね」
彼女はうさぎに向き直った。
「今日は、もうやらなくていいよ」
伏せていた耳が、少し動いた。
*
しばらく、誰も話さなかった。
うさぎは前脚を舐め、その脚で顔を擦っていた。
豪は、その動きをぼんやり眺めた。
キツネにも、ああいう時間があったのだろう。
皿から水を飲んでいた。
あのときは、こちらを襲うとは思わなかった。
豪は視線を森へ戻した。
「豪さん」
澪が小声で呼んだ。
「少しだけ、寝てもいいですか」
「もう眠い?」
「さっきから、気が抜けると」
彼女は目元を押さえた。
豪も眠れないほどではなかった。
だが、目を閉じたら、また枝が折れるところを見そうだった。
「いいよ。俺、起きてるから」
「少ししたら代わります」
「ああ」
澪は棍棒を身体の横へ置き、木の幹に背中を預けた。
楽な姿勢を探すように、何度か肩を動かす。
「時計、欲しいですね」
「欲しいな」
豪は答えた。
何分眠ったかも分からない。
とりあえず、自分が眠くなったら起こそうと思った。
澪は目を閉じた。
うさぎの顔を擦る動きが止まった。
耳が、澪の方へ向いている。
「動かない」
「寝てるんだよ」
豪は小声で言った。
「大丈夫」
うさぎは澪を見続けた。
それから豪へ顔を向けた。
「ねないの」
「交代」
耳が傾いた。
「一人が寝て、一人が見てる。何か来たら、起こすんだ」
うさぎは窪みの奥を振り返った。
豪は聞いた。
「お前、一人でいたのか」
「うん」
「来てから、ずっと?」
返事はなかった。
質問が分かりにくかったのかもしれない。
豪は言い直そうとして、やめた。
うさぎが、ぼそりと言った。
「におい、ない」
「匂い?」
「みんなの」
豪はうさぎを見た。
鼻先が地面へ向いた。
「さがした。いない」
「仲間か」
うさぎは前脚で土を掻いた。
「ここ、ちがう」
豪は周囲を見回した。
木も草も土もある。
うさぎにとっては、どこも同じような場所なのかと思っていた。
「どんなとこにいたんだ?」
「草」
うさぎが言った。
「あっちまで、草。あったかい」
少し考えるように鼻を動かす。
「土、やわらかい。かくれるとこ、ある」
「そこに、みんなもいる?」
「うん」
うさぎは顔を上げた。
「かえりたい」
豪は、膝に置いた手を見た。
帰還には十万ポイント。
このうさぎは、自分の食べ物も買えない。
どうすればいい。
代わりに買って渡すことはできる。
だが、それを続けた先に何があるのか、豪には分からなかった。
「俺もだよ」
言えるのは、それくらいだった。
「帰りたい」
*
澪の呼吸が、ゆっくりになった。
豪は何度か顔をのぞき込み、ちゃんと眠っているのを確かめた。
自分のHPを見る。
【HP:54/100】
少しずつ戻っている。
今すぐ何かに襲われなければ、いずれ満タンになるのだろう。
豪は手首へ目を落とした。
どうせなら、嫌な感触も一緒に消えてくれればいいと思った。
目の前に、パーティーの画面を出す。
【メンバー:豪/澪】
空きは三つあった。
豪は窪みの方を見た。
うさぎは奥へ戻らず、根のそばに座っていた。
目が合う。
耳が少し伏せられた。
「なあ」
豪が呼びかけると、鼻が動いた。
「俺たちと一緒に――」
そこで止まった。
澪は眠っている。
二人で組んだパーティーだった。
豪だけで決めていいことではない。
「……あとで、話そう」
うさぎは何も言わなかった。
豪は画面を閉じた。
呼び名があれば、話しかけやすいかもしれない。
だが、勝手につけていいものなのだろうか。
飼うわけではない。
そもそも、名前というものが必要かどうかも分からない。
考えていると、うさぎの耳が立った。
ぴたりと、動かなくなった。
豪は棍棒を握った。
「どうした」
うさぎの耳が、斜面の上へ向いた。
豪もそちらを見る。
木と、茂み。
何も見えない。
耳を澄ませても、葉の擦れる音しか聞こえなかった。
うさぎが低く身体を伏せた。
「くる」
豪は澪の肩に手を置いた。
軽く揺する。
彼女が目を開けた。
豪の顔を見て、すぐに身体を起こした。
「何か?」
「まだ、分からない」
豪は斜面を見たまま答えた。
澪が棍棒を手に取る。
うさぎは根の奥へ引っ込んだ。
その直後、上の茂みから声がした。
「だから、人がいたって言ってるだろ」
男の声だった。
続いて、別の声がした。
「二人?」
「女と、もう一人」
豪は澪を見た。
彼女の目も、こちらへ向いていた。
眠る前にはいなかった誰かが、自分たちを見ていた。
「……ここ、出た方が」
澪がささやいた。
豪は周囲を見た。
背後には大木。
横へ逃げれば、開けた斜面を通ることになる。
上からは見える。
前方の茂みまで、走って何歩か。
豪が腰を浮かせたとき、うさぎが言った。
「そっちも」
向けた耳の先は、逃げようとした茂みだった。
豪は止まった。
下草の間で、何かが光った。
細い金属だった。
先端が、こちらへ向いている。
「動かない方がいい」
茂みの向こうから、男が言った。
「その棒、置いてくれる?」




