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奇跡の裏側  作者: AKR
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第5話 水を一本

 購入を選ぶと、左手に水の入った容器が現れた。


【所持ポイント:88】


 豪は画面を閉じた。


「これ、ここに置くから」


 右手の枝を下げたまま、しゃがむ。


 地面に容器を立てようとして、手が止まった。


 キツネの足を見た。


 あの足で、キャップを開けられるのだろうか。


「蓋、開けといた方がいい?」


「うん」


 豪は枝を足元に置き、キャップを緩めた。


 キツネは茂みから出てこなかった。


「そこだと、飲めない」


「ああ、そうか」


 地面に注げば染み込む。


 容器を傾けてやれば飲めるかもしれないが、知らない人間にそこまで近づくのは怖いだろう。


「ちょっと待って」


 豪はもう一度、購入画面を開いた。


 道具の中から、小さな器を探す。


【簡易食器・小皿 1ポイント】


 買う。


 白い皿が手に収まった。


 豪はそれを地面に置き、水を注いだ。


【所持ポイント:87】


「これなら、大丈夫か」


 キツネが鼻を動かした。


 豪は水の容器を脇に置き、枝を拾って立ち上がった。


 二歩下がる。


 澪もそれに合わせて後ろへ下がった。


「水と皿、渡すよ」


【譲渡しますか】


 承諾する。


 文字が消えてから、キツネが茂みを出た。


 細い身体だった。


 赤茶色の毛の下に、骨の形が見える気がした。だが、豪には、それが普通なのかどうか分からなかった。


 キツネは皿に鼻を近づけた。


 一度、顔を上げる。


 豪たちが動かないのを確かめてから、舌を水に触れさせた。


 小さな音が続いた。


 豪は枝の先を地面につけた。


 話していても、水の飲み方は動物だった。


 広間で聞いた説明より、その様子の方が、よほど奇妙に感じられた。


「ありがとう」


 キツネが言った。


 皿には、まだ半分ほど残っていた。


「ほかにもいるのか?」


 豪が聞くと、キツネの耳が動いた。


「何が」


「仲間。さっき、一人みたいに言ってたから」


「いない」


「そっか」


 会話が途切れた。


 澪が水の容器を持ち替えた。


「自分のポイントは?」


 豪は横を向いた。


 澪はキツネを見ていた。


「最初、百もらったよね。それで買えなかった?」


 キツネが皿から顔を上げた。


「使った」


「全部?」


「うん」


「何に?」


 豪は少しだけ眉を寄せた。


 聞き方が強いと思った。


 だが、キツネは答えた。


「速くした」


 澪の手が止まった。


「逃げるために」


 キツネは続けた。


「遅かったから。追われると、いつも捕まりそうになるから」


 豪は細い脚を見た。


 能力強化の十ポイントを、使うかどうか迷っていた自分を思い出す。


 あれを何度も選べば、百はなくなる。


「食べ物に使う分も?」


「だって、捕まったら終わりでしょ」


 キツネは当然のことを言うように答えた。


 澪は口を閉じた。


 豪にも、すぐには返す言葉がなかった。


 元の世界で、何に追われていたのだろう。


 百という数字を見て、速くなれると知ったとき、ほかのことを考えられなくなったのかもしれない。


「食い物も、少しなら買うよ」


 豪が言った。


 澪がこちらを見た。


「何食べるんだ?」


 キツネは答えなかった。


 皿の縁に鼻を寄せたまま、豪の靴を見ていた。


 豪は購入画面を開いた。


 食べ物の一覧には、携帯食のほかにも、多くの種類が並んでいた。


「豪さん」


 澪が小声で呼んだ。


「ん?」


「先に、少し離れませんか」


「どうして」


 澪は答える代わりに、豪の足元へ視線を落とした。


 キツネが、皿から離れていた。


 来たときより近い。


 豪は画面を閉じた。


「どうした」


「ごめん」


 キツネが言った。


 豪は、その口元を見ていた。


 次の瞬間には、胸に何かがぶつかっていた。


     *


 足が地面を離れた。


 背中から倒れ、息が詰まる。


【HP:82/100】


 何が起きた。


 身体を起こすより先に、手首に歯が触れた。


【HP:71/100】


 豪は腕を振った。


 何も当たらなかった。


 キツネはもう、数歩離れた場所にいた。


「豪さん!」


 澪が駆け寄ろうとする。


「来るな!」


 豪が叫んだとき、赤茶色の影が澪の足元へ走った。


 彼女が膝をついた。


 キツネは止まらなかった。そのまま木の向こうへ抜け、幹を回って姿を現す。


 豪がようやく立ち上がったころには、また二人の正面に戻っていた。


 息も乱れていない。


 豪は枝を握り直した。


「何すんだよ!」


 キツネは低く身を伏せた。


「食い物も買うって言っただろ!」


「今日の分だけでしょ」


 その声に、豪は言葉を失った。


「明日は?」


 キツネの耳が後ろへ倒れた。


「その次は?」


「だからって」


「二人もいるから。どっちかだけなら」


 キツネが澪を見た。


 豪は二人の間へ踏み込んだ。


「来るな」


 枝を横に構える。


 キツネが動いた。


 豪は振った。


 枝の先が草を払った。


 足首に何かが触れる。


【HP:59/100】


 振り向くと、キツネはすでに後ろにいた。


 目で追ってから動いても、間に合わない。


 豪は澪の腕をつかんだ。


「走れ!」


 二人で斜面を駆け下りた。


 豪は澪の背中を追った。


 高校を卒業してから全力で走ることなどほとんどなかったが、脚は動いた。落ち葉を蹴り、木の根をまたぐ。


 その右側を、赤茶色の影が追い越した。


 キツネが前方で振り返る。


 豪は足を止めた。


 追いつかれたのではない。


 先回りされていた。


 澪が右へ逃れようとすると、キツネも動いた。


 一歩踏み出す間に、そちらの道も塞がれた。


「……走っても無理だ」


 豪は後ずさった。


 背中が、太い木の幹に触れた。


 澪の腕を引き、その隣へ寄せる。


 キツネが左右に歩いた。


 豪は枝を振ろうとして、こらえた。


 外せば、また足元へ入られる。


「水、くれたのにね」


 キツネが言った。


 その目は、枝の先を見ていた。


「ごめんね」


「だったら、やめろよ」


 豪は言った。


 キツネが走った。


 豪の右へ。


 枝を向けると、急に止まり、逆側へ切り返した。


 澪の息が跳ねた。


 豪は身体ごとそちらを塞いだ。


 太腿に歯が触れた。


【HP:46/100】


 枝を振り下ろす。


 また、地面だった。


 小さな身体が離れていく。


 痛くない。


 だから、脚は動く。


 それでも数字を見た瞬間、膝が折れそうになった。


「あと、どれくらい?」


 澪が聞いた。


「四十六」


 彼女が唇を噛んだ。


 キツネは、豪の顔を見ていた。


 数字は見えなくても、声は聞こえた。


「枝、追いかけないで」


 澪が小声で言った。


「分かってる。でも」


「前に出して。近くに来させないように」


 豪は枝を腰の高さで構えた。


 澪がかがんだ。


 地面から、両手に収まるほどの石を拾う。


 キツネの頭が、そちらへ向いた。


「来ないで」


 澪が石を持ち上げた。


 キツネは豪の方へ向き直った。


 右へ、左へ。


 豪は枝先を大きく動かさず、足を小さく踏み替えた。


 木を背にしている。


 後ろへ回られない。


 それだけで、見なければならない場所が減っていた。


 キツネが左へ寄った。


 澪も石をそちらへ向ける。


 キツネが戻る。


 豪の右には、地面から張り出した太い根があった。


 その外側へ回り込もうとすれば、一度、二人から離れなければならない。


 キツネの脚が縮んだ。


 豪は枝を握った。


 来る。


 そう思ったが、まだ動かなかった。


 キツネが一歩だけ前へ出た。


 豪の肩が強張る。


 また止まる。


 息を吐く暇もなかった。


 キツネが跳んだ。


 枝の下を抜けてきた。


 豪は後ろへ引かず、先端を地面へ落とした。


 身体がぶつかった。


 枝がしなる。


 キツネは地面に前脚をつき、すぐに横へ抜けようとした。


 そこへ、澪が石を落とした。


 鈍い音がした。


 当たった。


 キツネが根の側へ転がった。


 豪は初めて、地面にいる相手をはっきり見た。


 すぐに立とうとしている。


 脚は動いていた。


 これだけ当てても、まだ逃げられる。


 逃げれば、また戻ってくる。


 豪は踏み込んだ。


 枝を振り下ろした。


 手応えがあった。


 キツネが向きを変える。


 豪の足へ、口を開ける。


 もう一度振った。


 枝が鳴った。


「豪さん!」


 澪の声がした。


 豪は止まれなかった。


 もう一度。


 乾いた音とともに、手の中が軽くなった。


 枝の先が折れていた。


 豪は息を切らしたまま、足元を見た。


 キツネがいなかった。


 落ち葉が乱れ、黒い土がのぞいている。


 そこに、何もいなかった。


【ポイントを獲得しました】


 文字が現れた。


 豪は枝を握ったまま、地面を見続けた。


     *


「豪さん」


 肩に触れられ、豪は身体を揺らした。


 澪が隣にいた。


「もう、いません」


 豪は彼女を見た。


 息が少しずつ静かになっていく。


 それにつれて、森の音が戻ってきた。


 葉の擦れる音。


 どこかで枝が鳴る音。


「死んだのか」


 豪は聞いた。


 澪は唇を結んだ。


 すぐには答えなかった。


「……ポイント、入りました」


 豪は目の前へ意識を向けた。


 通知の下に、所持ポイントが表示されている。


【所持ポイント:137】


 八十七だった。


 五十、増えていた。


 豪はその数字を見た。


 キツネを殴った感触は、まだ腕に残っていた。


 痛みも、血もなかった。


 身体さえ残らなかった。


 それなのに、増えた数字だけは消えない。


「俺、殺したんだな」


 澪が肩から手を離した。


「襲ってきたのは、向こうです」


「ああ」


「止めようとしました」


「ああ」


 豪は折れた枝を見た。


 尖った先に、毛はついていなかった。


 手を開く。


 枝が落ちた。


 さっきまで握っていた指が、少し曲がったまま戻らなかった。


「澪、HPは」


「八十八です」


「そっか」


 豪は自分の数字を見た。


 四十六。


 身体は、走り出す前と何も変わらなかった。


「……ここ、離れましょう」


 澪が言った。


 豪はうなずいた。


 枝を拾い直すことはできなかった。


     *


 しばらく歩いて、二人は大きな木の根元に座った。


 豪は両手を膝に置いた。


 何もしていないと、さっきの動きが繰り返し浮かんだ。


 跳んできた身体。


 枝のしなり。


 最後に振り下ろしたとき、自分は何を考えていたのか。


「水、置いてきちゃいましたね」


 澪が言った。


 豪は顔を上げた。


「渡した方?」


「それも。豪さんの、最初に買ったやつ」


 岩のそばに置いたままだった。


 豪はうなずいた。


 取りに戻ろうとは思えなかった。


「私の、まだあります」


 澪が容器を差し出しかけた。


 豪は首を振った。


「大丈夫。買う」


 購入画面を開く。


 水を選ぼうとして、指が止まった。


 指で操作する必要はないのに、手が宙に浮いていた。


 百三十七ポイント。


 キツネに水と皿を渡す前より、増えている。


 豪は画面を閉じた。


「……あとでいい」


 澪は差し出しかけた水を、自分の膝へ戻した。


 二人で黙って座っていた。


 やがて、澪の腹が小さく鳴った。


 彼女が上着の前を押さえる。


「すみません」


「謝ることじゃないだろ」


「そうですけど」


 豪は自分の腹に手を当てた。


 空いていた。


 朝は何も食べていなかった。仕事の途中で買おうと思っていた。


 澪が目の前の画面を見た。


 購入しようとしているのだと分かった。


「俺が買うよ」


 豪は言った。


 澪の顔が上がった。


「でも、自分の分は自分でって」


「ああ。そうだったな」


 豪は一度口を閉じた。


「今だけ。二人分、買わせて」


 澪は少し迷ったあと、うなずいた。


 豪は購入画面を開いた。


 携帯食を二つ。


 水を一本。


 確認の文字が現れる。


【合計:3ポイント】


【購入しますか】


 豪は、その文字を見つめた。


 このまま食べずにいたら、何かが戻るわけではない。


 分かっていた。


 分かっているのに、承諾するまで時間がかかった。


 手元に、小さな包みが二つ現れた。


 足元には水が置かれた。


【所持ポイント:134】


 豪は一つを澪へ渡した。


 包みの中は、固いパンのような食べ物だった。


 端をちぎり、口に入れる。


 ほのかに甘かった。


 噛めば、少しずつ柔らかくなった。


 豪は飲み込んだ。


 隣で澪も食べていた。


 キツネは、明日の分を欲しがっていた。


 豪は残りを見た。


 まだ、腹は空いている。


 小さくちぎった欠片を、もう一度口へ運んだ。

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