第20話 置いていかない
板は、豪の体重を受けても大きくは沈まなかった。
しゃがんで縁を見る。板と板の間に細い隙間があり、その下には丸太が通っていた。釘の頭が、夕方の光を拾っている。
「真ん中を踏んで。一人ずつ」
道を管理している男が、後ろから言った。
豪は橋へ出しかけた足を戻した。
横に手すりはなかった。途中で身体の向きを変えるのは、難しそうだった。
「ミミ、抱えて渡ってもいいか」
足元の耳が動いた。
「した、みえない?」
「俺の服を見てれば、見なくて済む」
ミミは橋へ鼻を近づけ、すぐに離した。
「おとさない?」
「ああ。暴れないでいてくれたら、助かる」
「じっとする」
豪はまだ抱き上げず、佐伯を見た。
「先に渡ってもらえますか。向こうを見てほしい」
「分かった」
佐伯は橋の入口へ立った。
板の位置を確かめ、一歩ずつ進む。
途中で風が吹き、上着の裾が動いた。
豪は息を止めた。
佐伯は急がなかった。向こうの地面へ足を下ろしてから、橋を離れ、左右へ顔を向けた。
「今、見えるところには誰もいない。次、来ていいぞ」
ガロがすぐに進みかけた。
「待って。一人ずつ、順番を決めよう」
澪が言った。
ガロは彼女を見て、足を止めた。
「じゃあ、俺が次だ」
豪はうなずいた。
*
ガロの爪が、板を短く鳴らした。
犬は橋の真ん中で一度止まり、前足の置き場所を変えた。
尾が低く下がっていた。
向こうで佐伯が待っている。
呼び急がせはしなかった。
ガロが残りを渡りきると、今度は澪が進んだ。
豪は彼女の背中を見ていた。
誰かが後ろから来ないか、紗弓が道を見ている。
橋の先では、佐伯とガロが周囲を確かめていた。
澪が向こうへ着いた。
豪の方を振り返る。
「ミミ、お願いします」
「分かった」
豪はミミへ両手を伸ばした。
腹の下と後ろ脚を支え、胸へ寄せる。
ミミの身体が一瞬硬くなった。
「まだ、動かない」
豪は言った。
腕の中で、耳が自分の顎に触れる。
「これで大丈夫か」
「……うん」
豪は立ち上がった。
棍棒も地図も収納してある。抱えているのは、ミミだけだった。
橋の入口へ足を向ける。
「豪」
紗弓が呼んだ。
「向こうへ着いたら、私が渡るまで見てて」
「ああ」
豪は板を踏んだ。
視界の下で、谷が開く。
菜月が小さいころ、階段で眠ってしまったことがあった。
部屋まで運ぶ途中で起きて、降りると言いだした。
半分寝たまま暴れるので、豪は一段ずつ下を確かめた。
今は、腕の中は動かなかった。
その代わり、自分の足が硬い。
一本目の板から、次へ。
向こうの地面ばかり見ると、足元がずれそうだった。
豪は二、三枚先へ目を落とした。
「ごう」
「どうした」
「まだ?」
「もう半分くらい」
本当は、少し足りなかった。
豪は次の板へ足を置いた。
ミミが鼻先を服へ押しつける。
息が、腹のあたりへかかった。
走ればすぐだと思った。
思っただけで、走らなかった。
靴の先が、土に触れた。
もう一歩進んでから、大きく息を吐く。
「着いた」
ミミを地面へ下ろした。
すぐに草へ走るかと思ったが、ミミはしばらく豪の靴の横にいた。
豪は橋へ向き直った。
「紗弓、いいぞ」
*
最後に紗弓が渡った。
橋を離れてからも、彼女はしばらく向こう岸を見ていた。
道の男が手を上げた。
「下るなら、谷沿いへ戻らないで。上の草の短いところをたどれば、向こうの低地へ出ます」
佐伯が礼を言った。
男は橋の板へかがみ、何かを確かめ始めた。
豪はその姿を少し見ていた。
食料を返してもらう必要は、なかった。
地図を取り出し、『未確認』を一本の線で消す。
橋の横へ、小さく書いた。
『一人ずつ。手すりなし。通れた』
書けたことは、それだけだった。
「行こう」
佐伯の声で、豪は紙を閉じた。
*
森を背にすると、空が広かった。
草の斜面がうねり、その先に低い土地が続いている。
遠くに黒い点がいくつか動いていた。
人間なのか動物なのか、豪には分からなかった。
「隠れる場所、少ないな」
言うと、紗弓がうなずいた。
「こっちからも、遠くまで見えるけど」
彼女は少し離れて歩いていた。
矢を放つ場所を空けているのだと、豪にも分かった。
ミミが足を止めた。
草へ鼻を近づける。
細い葉を口に入れ、何度か噛んだ。
すぐに放した。
「ちがう」
豪は隣へしゃがんだ。
「食べられないか」
「におい、する。でも、ちがう」
ミミはもう一度だけ草を見た。
耳の向きが、少し後ろへ下がる。
豪は手を出しかけ、やめた。
どう触ればいいのか、分からなかった。
「あとで、いつものを出そう」
「うん」
ミミは歩き出した。
豪も立ち上がった。
帰ったら草が食べられる、と言いたかった。
その草が生えている場所へ、自分が連れていけるわけではなかった。
*
佐伯が休む場所を選んだのは、斜面を少し下りたところだった。
大きな岩が二つ、離れて並んでいる。
間には人が横になれる地面があり、背の高い草が片側を覆っていた。
「囲まれてはいない。抜ける方は、こっちにしておこう」
佐伯は下り側を指した。
「火は?」
豪が聞くと、佐伯は遠くを見た。
「今夜は、なしにしたい。遠くから見つかる」
豪も斜面を振り返った。
森の中とは違った。ここで明かりをつければ、黒い点の方からも見えるだろう。
全員で岩の周囲を確かめてから、腰を下ろした。
澪が、ミミの口では開けにくい食料の包みを手伝った。
水は豪の小皿へ分ける。
ミミの買ったものを、ミミのために使っている。
その横で、豪も自分の食事と水を買った。
【所持ポイント:59】
表示を閉じるまで、少し時間がかかった。
課題を終えたとき、七十あった。
地図を買い、鉛筆を買い、道を通って、飯を出した。
まだ、眠ってもいない。
澪が豪を見た。
「足りなかったら、言ってください」
「今は、大丈夫だ」
豪は食料を持ち直した。
「使った分、書いとこうと思って」
地図の余白は、まだ残っていた。
そこへ一つずつ数字を書いた。
書き終えると、五十九という数字が、さっきより重くなった。
佐伯が見ていた。
「明日は、ただ歩くだけにはできんな」
豪は顔を上げた。
「また課題を探すんですか」
「見つかればな。だが、橋みたいなやり方もある」
佐伯は自分たちの来た方へ顔を向けた。
「あの二人も、木を運んで、板を留めてた。道を知ってるだけじゃ、三食は取れんだろう」
豪は千尋の地図を見た。
買うまでは、紙へ線を引いただけに見えていた。
今は、その線に沿ってここまで来ていた。
「俺にも、できることあるかな」
「探すしかない」
佐伯は答えた。
「ただ、それで十万まで届くかは、別の話だ」
風が岩の間を抜けた。
豪は紙の端を押さえた。
キツネを倒したときの、五十ポイントを思い出した。
あれよりずっと少ない数字を減らさないために、自分たちはここまで歩いてきた。
*
見張りは二人ずつにした。
最初は佐伯と紗弓。
次が豪と澪。
ガロとミミは、気配に気づいたら起こす。眠る順番まで人間と同じにはしないと、佐伯が言った。
「俺も、起きられるときは起きる」
ガロが付け加えた。
「だが、ずっと鼻を利かせていられるわけじゃないぞ」
「分かってる」
佐伯は答えた。
豪は岩を背に座った。
澪がすぐ近くへ腰を下ろす。
ミミは二人の間の地面を嗅ぎ、前足で少し土を払っていた。
「眠れそうですか」
澪が聞いた。
「分からない」
豪は正直に答えた。
眠れば、誰かが近づいてくる気がした。
目を閉じても、橋の隙間が浮かびそうだった。
「起こしてくれますよ」
澪が、岩の向こうを見た。
紗弓の弓の先が、少しだけ見えている。
「俺たちの番のときも、ちゃんと起きないとな」
「はい」
豪は膝の上で手を組んだ。
ミミを抱えていたところに、まだ温かさが残っている気がした。
「菜月にも、早く寝ろって、よく言ってたんだ」
言ってから、澪を見る。
彼女は黙って聞いていた。
「俺が寝ないと、自分も寝ないって言うことがあってさ。宿題終わってるなら寝ていいのに、って思ってた」
「待ってたんじゃないですか」
豪は顔を戻した。
「……そうだったのかな」
流しに残った皿。
朝、乾いた洗濯物を畳んでいた小さな手。
自分がいなくてもできる、と言うためにしていたのだと思っていた。
豪は目を閉じた。
妹に、聞きたいことが増えた。
地面で、ミミが小さく動いた。
「ごう」
「どうした」
「つぎ、あるくとき、おこして」
「置いていかないよ」
豪は答えた。
今度は、すぐに言えた。
澪の衣擦れがした。
遠くでガロが鼻を鳴らす。
岩の向こうでは、佐伯が紗弓へ声を落として何か聞いていた。
豪はもう一度、目を閉じた。
何の音か分かる声が、周りにあった。
次に目を開けたときも、この声が全部あってほしかった。




