第2話 奇跡の裏側
開いた壁の向こうから、一人の男が歩いてきた。
黒い服を着ていた。三十歳くらいにも、それよりずっと年上にも見える顔だった。
男は人々を見回し、足を止めた。
「お待たせしました。これから、皆さんの状況と、帰還の方法をご説明します」
「まずここがどこなのか言え!」
スーツ姿の男が叫んだ。
黒服の男はそちらを向いた。
「ここは、皆さんが生きていた世界とは異なる場所です」
広間がざわついた。
「皆さんは、元の世界で死に瀕しています」
豪は顔を上げた。
「事故、病気、そのほか理由はさまざまですが、何もしなければ、その死が確定します」
隣で、澪が息を止めた。
「ただし、帰還の機会があります」
男が片手を上げた。
豪の目の前に、青白い枠が現れた。
思わずのけぞる。
隣でも、澪が小さく声を上げた。
【所持ポイント:100】
【帰還必要ポイント:100000】
「必要なポイントを集め、帰還を選択してください。事故であれば一命を取り留め、病気であれば回復します」
豪は目の前の文字に手を伸ばした。
指が枠を通り抜けた。
「皆さんが元の世界で、『医者に助からないと言われたのに助かった』『あれほどの事故に遭って生きていた』といった話を聞いたことがあると思います」
男は、広間を見渡した。
「そのような奇跡によって生還した者は、すべて、このゲームの帰還者です」
ゲーム。
豪は、その言葉を頭の中で繰り返した。
誰かが前方で何か言ったが、聞き取れなかった。
目の前の数字を見る。
百と、十万。
まずは、この差を埋めればいいということなのだろうか。
「皆さんには、これから別の世界で過ごしていただきます。食料や水、道具の購入、ご自身の能力の強化などには、すべてそのポイントを使用します」
「待って」
どこかで女の声がした。
「十万って、どうやって集めるんですか」
「主な獲得方法は、ほかの参加者の殺害です」
豪の手が止まった。
広間の奥で、誰かが笑った。
短い、聞き返すような笑いだった。
「殺す?」
「はい。相手のHPをゼロにすると、その参加者は死亡し、規定に応じたポイントを獲得できます」
「死亡って、ここでってこと?」
「元の世界でも死亡します」
豪は黒服の男を見た。
男は言い直さなかった。
近くの老人が、ゆっくりと長椅子に座った。
「参加者には、人間以外の生物も含まれます。言語による意思疎通は可能です。また、皆さんの出身世界や時代は同一とは限りません」
腰に刀を下げた男が何か叫んだ。
別の場所からも声が重なった。
「帰らせろ!」
「警察を呼べ!」
「ふざけるなよ!」
豪も立ち上がった。
「殺さなきゃ帰れないんですか」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
黒服の男が豪を見た。
「ほかの手段によるポイントの付与もあります。ただし、それだけでの帰還は極めて困難です」
「じゃあ、帰らないでいたら」
「滞在に期限はありません。ただし、食事と睡眠は必要です」
豪は目の前の百という数字を見た。
「……食べ物を買うのにも、これを使うんですよね」
「そのとおりです」
百を使い切ったら。
聞こうとして、やめた。
もう説明されていた。
隣から、澪が上着の袖をつまんだ。
豪が振り向くと、彼女は首を横に振った。
豪はゆっくり座った。
「こちらでの身体は、精神の活動に対応したものです。元の世界で受けた負傷や、病気による運動の制限は反映されません」
男の説明は続いた。
「戦闘による痛みや身体の損壊は生じず、代わりにHPが減少します。HPが残っている限り、身体の動きに影響はありません」
豪は両手を見た。
指を曲げる。
握る。
どこも痛くないことを、さっきは安心して確かめていた。
「HPは時間経過によって回復します。アイテムや能力による回復も可能です。なお、自分や他者のHPなど、所持ポイント以外の情報を確認するには、対応したスキルを取得してください」
目の前の画面に、項目が増えた。
【購入】
【能力強化】
【スキル】
【案内】
豪は文字を追ったが、頭に入ってこなかった。
妹の顔が浮かんだ。
今朝、自分が出ていったあと、菜月は何をしていただろう。
ゆで卵を食べただろうか。
昨日のことを、まだ気にしているだろうか。
「元の世界では、どれくらい時間がたつんですか」
豪は座ったまま聞いた。
「こちらでの経過時間に関係なく、皆さんは元の時間へ戻ります。帰還した場合も、死亡した場合も同様です」
待たせずに済む。
そう思ってから、豪は唇を噛んだ。
帰れたら、の話だった。
もう一度、画面を見る。
【帰還必要ポイント:100000】
この数字の向こうに、家がある。
帰るために何をしなければならないのかも、もう聞いてしまった。




