第1話 帰ったら話そう
玄関に置かれた妹の靴が、片方だけ裏返っていた。
豪はそれを直してから、自分の安全靴に足を入れた。かかとの内側が擦り切れていて、指で押さえないとうまく履けない。
午前六時十二分。
台所で、椅子を引く音がした。
豪は靴ひもを結ぶ手を止めた。
十一歳の妹、菜月は、いつもなら豪が出勤する時間にはまだ寝ている。毎朝テーブルに朝食を用意し、起きる時間に電話をかけるのが日課だった。
廊下からのぞくと、菜月がパジャマのまま椅子に座っていた。テーブルには何も出ていない。
「今日、早いな」
「……目、覚めたから」
両親が亡くなって三年。二人で暮らすこの家では、朝、豪が鍵をかけて出ていくまで、話し声がしないことも珍しくなかった。
今日は妹が起きている。
昨夜のことを話せるかもしれないと思ったが、菜月は豪を見なかった。
「パン、冷蔵庫の上。卵もゆでてあるから」
「うん」
「今日、帰り遅くなるかもしれない。先に食べてていいから」
「うん」
豪は玄関に戻り、靴ひもをほどいた。
緩んでもいないのに、もう一度結んだ。
昨夜の菜月の声が、まだ耳に残っていた。
――お兄ちゃん、私がいなかったら、もっと好きなことできたのにね。
豪は、そんな言い方をするな、と答えた。
そのあとに続ける言葉が出てこなかった。
菜月との暮らしが嫌なわけではない。仕事に疲れて黙っている日もあるし、洗濯物を出していないだけで腹を立てることもある。それでも、妹がいなければよかったなどと、考えたことはなかった。
それをどう話せばいいのか分からないまま、菜月は自分の部屋に戻ってしまった。
「菜月」
妹が振り向いた。
「今日、何か食べたいもんあるか」
「別に」
「……そっか」
視線がテーブルに戻った。
豪はドアを開けた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
帰りにプリンを買おうと思った。
二つ並べて、昨夜の話をすればいい。
*
ラジオから笑い声が聞こえた。
豪は音量を一つ下げ、赤信号の手前でトラックを止めた。
午前中の配達はあと三件。次の納品先は荷下ろしの場所が狭い。先に台車を出しておいた方が早いかもしれない。
交差点の向こうを、小学生が二人歩いていた。
一人が傘の先で水たまりを突き、隣の子に袖を引かれている。
豪はブレーキを踏んだまま、助手席の納品書に目をやった。
クラクションが鳴った。
右を向く。
窓の外が、白い車体で埋まっていた。
*
「お名前をお願いします」
豪は目を開けた。
白いカウンターがあった。
向かいに、灰色の服を着た女が座っている。
豪は息を吸い、自分の胸に手を当てた。作業着だった。シートベルトはない。
「……ここ、どこですか」
「お名前をお願いします」
女は同じ調子で繰り返した。
豪は周囲を見た。
椅子に座っている。カウンターの両脇には白い壁が続き、右側に扉が一つあった。病院の受付に似ていたが、消毒液の匂いも、人の気配もなかった。
「豪です」
「確認しました。こちらへどうぞ」
女が立ち上がった。
「ちょっと待ってください。俺、車に乗ってて」
「ご説明は、この先で行います」
「病院なんですか、ここ」
女は右側の扉を開けた。
その向こうから、人の話し声が流れ込んできた。
豪は椅子から立った。
膝も腰も痛くない。
腕を動かし、首を回す。どこにも異常がなかった。
それがかえって不安だった。
女の後を追う。
扉を抜けたところで、豪は足を止めた。
広い場所だった。
駅の待合室を何倍にも広げたような空間に、数えきれないほどの人がいた。長椅子に座る者、壁際でしゃがむ者、何人かで言い争っている者。
豪のすぐ前を、病院の服を着た老人が横切った。
裸足だった。
少し離れた場所には、泥のついた厚い外套を着た男がいる。腰に下げた長いものを見て、豪は目を細めた。
刀に見えた。
「こちらでお待ちください」
振り向くと、女は扉のそばに立っていた。
「待つって、何を」
「まもなく説明が始まります」
女が扉を閉めた。
豪はしばらく取っ手を見つめたあと、人のいる方へ向き直った。
誰も、自分を迎えに来る様子はない。
ポケットを探った。
スマートフォンがなかった。財布も鍵もない。
「電話、ないですよね」
横から声がした。
長椅子の端に、若い女が座っていた。
紺色の上着に黒いズボン。両手を膝の間に挟み、こちらを見上げている。
「私も探しました」
「……みんな、そうなのか」
「少なくとも、ここにいる人は」
女は少し身体をずらした。
空いた場所を見てから、豪は腰を下ろした。
「ここがどこか、聞いた?」
「説明するから待ってろって」
「俺も同じこと言われた」
「質問には答えてくれないんですよね」
女は閉じた扉を見た。
豪も同じ方を向いた。
「病院じゃ、ないよな」
「病院であってほしいですけど」
豪は相手を見た。
声は落ち着いていたが、膝の間に挟んだ指が、上着の裾を強く握っていた。
「どこか痛い?」
「ううん」
女は首を振った。
「そっちは?」
「俺も」
それから少し、二人とも黙った。
正面では、スーツ姿の男が壁に向かって大声を出していた。
「責任者を呼べって言ってるんだ!」
返事はなかった。
「……名前、何ていうんですか」
女が聞いた。
「豪。そっちは」
「澪です」
「学生?」
「十八です。この前、高校を卒業しました」
「そっか。俺は二十四」
澪はうなずいた。
「豪さんは、来る前のこと、覚えてますか」
「仕事してた。車に乗ってて、それで」
右側の窓を埋めた白い車体が浮かんだ。
豪は続きを言えなかった。
澪はそれ以上聞かなかった。
代わりに、膝の上へ両手を戻した。
「私、さっきから思い出そうとすると、途中で分からなくなるんです」
「気、失ったのかもしれないな」
「そうですね」
同意したというより、そういうことにしておきたい声だった。
豪は両肘を膝についた。
菜月は学校に着いただろうか。
職場から連絡が行くとして、まず誰にかかるのか。緊急連絡先には、自宅の番号と、遠方に住む叔母の番号を書いていたはずだった。
「帰らないと」
思わず声に出ていた。
澪がこちらを見た。
「妹がいるんだ。まだ小学生で」
「二人で暮らしてるんですか」
「ああ」
澪は何か言いかけ、口を閉じた。
そのとき、低い音が一度鳴った。
言い争っていた人々が顔を上げる。
広間の奥の壁が開いていた。




