第16話 石に刻まれた道
川の音が聞こえなくなってからも、佐伯は足を止めなかった。
道はなかった。
折れた幹を避け、低い枝をくぐり、時々、木の皮へ手を触れる。
豪はその背中を見ていた。
ついていくと決めたのは自分だった。それでも、どこへ連れていかれるのかと思うたび、足が少し遅くなる。
「何か、目印があるんですか」
豪が聞くと、佐伯は立ち止まった。
先へ進んでいたガロが、振り向く。
「木の形だ。あとは地面の傾き」
佐伯が答えた。
「覚えられるんですか」
「仕事で山に入ってた。もっとも、ここじゃ知らん木ばかりだが」
「帰りも、分かるんですか」
佐伯は少し考えた。
「同じ道を戻るならな。迷わないとは言えん」
豪は周りを見た。
どれも初めて見る木だった。
佐伯の言葉が本当かどうか、自分では確かめられない。
「少し、止まってもらっていいですか」
澪が言った。
ミミが、その足元で耳を動かしていた。
「どうした」
豪がかがむ。
「いし」
ミミが前方へ鼻先を向けた。
木々の間に、白いものが見えた。
佐伯がうなずいた。
「あれだ」
*
石は腰ほどの高さだった。
四角く削られたものが、間隔を空けて立っている。
その向こうにも、また石があった。
豪は数えかけたが、木の陰になって見えないものがあるので、途中でやめた。
並び方は、輪に近かった。
中央には、胸の高さまである細い柱が立っていた。
草は生えていない。
石の囲いの内側だけ、平らな土が露出していた。
「入る前に、周りを見る」
佐伯が言った。
ガロはすでに鼻を地面へ近づけていた。
紗弓は矢を一本、筒から抜いた。
豪も棍棒を持ち直す。
澪が木の間を見ながら、豪へ近づいた。
「魚のときみたいに、ならないように」
「ああ」
二人で囲いの外を歩いた。
木の裏を確かめる。
石の陰を見る。
人はいなかった。
ミミも足を止めて耳を立てたが、誰かが近づくとは言わなかった。
「匂いはある」
ガロが言った。
「新しいのか?」
佐伯が聞く。
「いくつも重なってる。今いるかは、それじゃ分からん」
佐伯はうなずいた。
誰も、安全だとは言わなかった。
*
最初に柱へ近づいたのは、佐伯だった。
豪たちは囲いの外で待った。
佐伯が柱へ触れる。
男の目が、何もない場所を追い始めた。
「どうですか」
豪が聞いた。
「前に見たのと同じだ」
「佐伯さんは、受けたんですか」
「いや。読むだけにした」
佐伯は手を離し、こちらへ戻った。
「説明を読むだけなら、始まらない。受けるかどうかは、そのあとで選べる」
豪は柱を見た。
ただの石にしか見えなかった。
「俺が見てきます」
「私も」
澪が言った。
二人は石の間を抜けた。
ミミは外に残った。ガロからは距離を取っているが、豪の後ろへついてこようとはしなかった。
豪は柱へ手を伸ばした。
冷たかった。
画面が開いた。
【地域課題:石環の測路】
【報酬:20ポイント】
【受領回数:各参加者1回】
豪は下の文字を読んだ。
囲いの中にある三枚の標識を、対応する石へ取り付ける。
三枚すべてが正しい位置に置かれれば完了。
制限時間はない。
課題を受けた参加者は、標識を最初に取る前であれば辞退できる。
最初に取ったあとで辞退した場合、その参加者はこの課題を再受領できない。
豪は報酬の行へ視線を戻した。
二十。
十万までには、遠すぎる数字だった。
それでも、誰かを殴らずに増やせる。
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
「豪さん」
澪も柱に触れていた。
「分配、読めました?」
「え?」
「下の方です」
豪は続きを開いた。
【報酬は受領者本人に付与されます。撃破報酬の分配規則は適用されません】
【標識は受領者ごとに生成されます。他の参加者は移動できません】
【課題専用物品は収納できません】
豪は一度、手を離した。
画面は残っていた。
「それぞれやるってことか」
「そうみたいです」
澪はまだ文字を読んでいた。
「先に一人、試した方がよさそうですね」
豪はうなずき、外へ戻った。
*
「三枚運ぶだけなら、すぐじゃないか」
豪が言うと、佐伯は囲いを見た。
「運ぶ場所が分かればな」
「何が書いてあるんですか」
「前に見たときは、標識を取っていない。そこから先は知らん」
豪は佐伯を見た。
「やらなかったんですか」
「知らんやつらが来たから、離れた」
佐伯は淡々と言った。
「説明を読んでると、周りが見えなくなる。あの柱のそばじゃ、隠れる場所もない」
豪は囲いの中央を見た。
さっきは、報酬の文字しか見ていなかった。
外から誰かに近づかれても、澪が呼ぶまで気づかなかったかもしれない。
「俺が先にやってもいいですか」
豪は言った。
「その間、周りを見てもらえるなら」
佐伯が澪を見る。
澪は豪へ向き直った。
「途中で、やめた方がいいって思ったら言います」
「ああ」
「一回しかできなくても、無理はしないでください」
豪はうなずいた。
紗弓は弓を下げたまま、言った。
「見張るのはいい。でも、誰か来たら逃げる。それは先に決めておきたい」
「分かった」
「課題を終わらせるまで、ここで戦うつもりはないから」
豪はもう一度うなずいた。
ミミが足元へ来た。
「ごう、いく?」
「あの真ん中まで。見えるところにいる」
豪は柱を指した。
「誰か聞こえたら、教えてくれ」
ミミの耳が柱へ向いた。
「うん」
*
豪は棍棒を収納した。
両手を空けてから、柱へ触れる。
受領を選んだ。
【課題を受領しました】
足元に、三枚の板が現れた。
手のひらより少し大きい。
灰色の表面に、溝が彫られている。
一枚は、線がまっすぐ。
一枚は、途中で曲がっている。
最後の一枚は、枝分かれしていた。
豪はまだ触らず、しゃがんで見た。
柱の画面に、説明が増えていた。
【標識の溝と、石環内の道筋を照合してください】
【柱から外へ向かう方向を基準とします】
豪は顔を上げた。
囲いを作る石の足元に、細い溝があった。
土に隠れ、見えていないところもある。
中央から、石へ。
途中でいくつかに分かれ、別の筋と交わっている。
最初は、ただ踏み固められた地面の跡だと思っていた。
「迷路みたいだな」
豪はつぶやいた。
澪が囲いの外から聞いた。
「何が見えます?」
豪は板と地面を順に説明した。
「板の方、見えますか」
「見えます。持てないだけなんですね」
澪は少し身体を傾けた。
「取る前に、行き先を決めませんか」
「ああ」
豪はまっすぐな溝を目で追った。
途中で落ち葉に隠れていた。
近づいて払う。
その先は、左へ曲がっていた。
戻る。
別の筋を追う。
今度は途中で二つに分かれた。
豪は柱を振り返った。
まっすぐな線の板を、持ちかけていた。
手を引いた。
*
何度も同じ場所へ戻った。
外から見ている澪の方が、豪の歩いた順を覚えていた。
「そっちは、さっき左へ曲がったところです」
「ああ、そうだった」
豪は額を拭った。
細い線を追うだけなのに、身体を動かしているうちに、どれを見ていたのか分からなくなる。
菜月の宿題を見ていたときのことが浮かんだ。
線を指でなぞれば分かるだろ、と言ったことがある。
線がたくさんあるから分からないのだと、今なら言われなくても分かった。
「場所、分けて覚えよう」
豪は言った。
「川があった方を、前にして」
「それだと、囲いの中で向きが変わったら迷いませんか」
澪が答えた。
「私がいる石を、一番にしませんか」
彼女は近くの石の横へ立った。
「そこから、順番に」
豪はうなずいた。
石を数え直す。
落ち葉を払った場所を確かめ、一つずつ溝をたどる。
やがて、まっすぐな線が四番の石へ続いていると分かった。
豪は柱へ戻った。
まっすぐな溝の板を持ち上げた。
【標識を取得しました】
軽かった。
だが、手を離せば終わってしまうような気がして、両手で持った。
四番の石へ運ぶ。
表面に、同じ大きさの窪みがあった。
豪は板を近づけた。
「待って」
澪の声がした。
豪は止まった。
「そっち、裏です」
板を返す。
裏表まで間違えかけたのかと思うと、笑えなかった。
溝が外へ見えるようにして、窪みへ押し込む。
音がした。
【正位置:1/3】
豪は息を吐いた。
「一個、できた」
澪の肩が下がった。
佐伯が木の向こうを見たまま、片手を上げた。
ミミが石の間から鼻先を出した。
「ごう、できた?」
「一つだけな」
豪は空になった両手を見た。
誰も消えていない。
誰も殴っていない。
それでも、画面の数字は一つ進んでいた。
残りは二枚。
豪が柱へ戻ろうとしたとき、ミミの耳が動いた。
ガロも同じ方角へ顔を向けた。
豪は足を止めた。
ミミは何も言わなかった。
その代わり、ガロが低く言った。
「人間だ。まだ遠い」
豪は柱の足元に残る二枚を見た。
逃げるときは逃げる。
そう決めてから、始めたはずだった。




