第12話 流れのそば
澪が目を覚ましたとき、豪は枝の隙間から外を見ていた。
「何かいました?」
「いや。水の音がする」
澪は身体を起こした。
耳を澄ませ、少し首を傾ける。
「……しますね」
「ミミが気づいた。下の方」
豪が指さすと、丸くなっていたミミの耳が動いた。
「川かもしれない。見に行かないか」
澪はすぐには答えなかった。
膝に手を置き、外へ目を向ける。
「水は買わないと駄目なんですよね」
「ああ。でも、ずっとここにいても」
豪は言葉を探した。
手元には五十ポイントある。
今すぐ食べられなくなるわけではない。
だが、何食分あるかを数えて待つだけでは、いずれなくなる。
「課題ってやつ、何も出てないだろ」
「はい」
「探したら、何かあるかもしれない」
澪は自分の画面を開いた。
少しの間、文字を追っている。
「私の方にも、まだ何もないです」
画面を閉じ、棍棒を持ち上げた。
「行きましょう。ただ、開けたところには、すぐ出ないようにしませんか」
「ああ」
豪はミミを見た。
「一緒に来られるか」
ミミは身体を起こし、前脚を伸ばした。
それから顔を擦る。
二人が待っていると、ようやく鼻先を外へ向けた。
「いく」
*
流れの音は、歩くほどにはっきりした。
豪は先頭を進んだ。
棍棒は収納せず、右手に持っている。
澪がその後ろを歩き、ミミは二人の間を行き来した。時々足を止めて耳を立てるので、そのたびに豪たちも止まった。
風。
枝の音。
何かが遠くを走った音。
ミミの短い説明だけでは分からないこともあったが、分かったふりはしないことにした。
「人か?」
「ちがう」
「こっち来る?」
「こない」
それなら進む。
何度か繰り返すうちに、ミミが止まったからといって、すぐに武器を構えずに済むようになった。
木々の向こうが明るくなった。
豪は足を緩めた。
地面が湿っている。靴の底へ柔らかい土がついた。
澪が肩越しにのぞいた。
「川、ありますね」
木の間に、水面が見えた。
幅は、豪が両腕を広げた長さの何倍かあった。向こう岸にも森が続き、水は左から右へ流れている。
透明だった。
底の石も、揺れる細い草も見えた。
豪は岸へ出る前に止まった。
上流を見る。
下流を見る。
対岸の茂みにも目を向ける。
「ミミ、何か聞こえるか」
ミミは耳を別々の方向へ向けた。
「みず、おおきい」
「水の音が大きい?」
「うん」
豪は川を見た。
自分の足元の音も、流れに混じって分かりにくい。
澪が小さく言った。
「ここだと、ミミも聞きづらいのかもしれないですね」
豪はうなずいた。
見晴らしがよくても、安全とは限らなかった。
「少しだけ見よう」
二人は木の陰を離れ、岸へ近づいた。
*
豪はしゃがみ、水面へ手を伸ばした。
「触るんですか」
「飲まない。ちょっとだけ」
指先が水に入った。
冷たかった。
流れが指の間を抜けていく。
豪は少しだけ水をすくった。
手のひらに、ちゃんとたまった。
そのまま持ち上げる。
水は指の隙間から落ちた。
「普通に見えるな」
「見えますね」
澪は少し後ろから川を見ていた。
豪は濡れた手を作業着で拭いた。
案内を開き、自然の水について探す。
見つかった説明は短かった。
【環境中の水は、飲用による水分補給には利用できません】
豪は読み返した。
「飲んでも、足しにならないって」
「触れるのに?」
「ああ」
冷たさが、まだ指先に残っていた。
豪は水面を見た。
現実なら、川の水はそのまま飲まない方がいいと考える。
ここでは、それ以前の問題だった。
「なら、泳ぐことはできるのかな」
豪が言うと、澪は川の真ん中へ目を向けた。
「試さなくていいですからね」
「分かってる」
少しだけ笑いそうになった。
そのとき、水面に輪が広がった。
豪は口を閉じた。
石のそばを、黒い影が横切った。
魚だった。
流れの下で尾を動かし、二人から離れた場所へ止まる。
「いるな」
豪がつぶやいた。
魚も、参加者だ。
何となく川を見に来たつもりだったが、ここは誰かがいる場所だった。
豪は立ち上がった。
水の中で、影が動いた。
「飲めなかっただろ」
声がした。
*
豪は川を見た。
澪も、同じ方を向いていた。
声は近い。
だが、水面には人の顔も、口を開けた動物も見えなかった。
「下。石の横だ」
魚がいた。
豪の靴より少し長いくらいの、灰色の魚だった。
流れに逆らうように尾を動かしている。
「……今の、そっち?」
「ほかに誰かいるか」
豪は思わず周囲を見た。
魚が少し身をひねった。
「そっちの話じゃない」
「悪い」
豪はしゃがみ直した。
魚は岸へ近づかなかった。
「水、飲んだのか」
「いや。説明を見た」
「そうか。ここへ来るやつ、よくやるんだ」
澪が豪の隣へ来た。
「飲んでも、喉は渇いたままなんですか」
「ああ。腹に入る感じはする。それだけだ」
豪は川面を見た。
「そっちは、どうしてるんだ」
「買う」
「水を?」
「食い物を。水のことは知らん。必要だと思ったことがない」
豪はうなずいた。
人間と同じものが必要なわけではない。
その辺りも、まだよく分かっていなかった。
魚の身体が、わずかに下がった。
「それ、下ろしてくれないか」
豪は自分の棍棒を見た。
膝の横へ向ける。
「襲うつもりはない」
「みんな、そう言う」
豪は返事をしなかった。
澪も、棍棒を身体の後ろへ寄せた。
魚は二人を見ているようだった。
目の動きが、人間ほどには読み取れない。
豪は自分から名乗った。
「豪。こっちは澪。後ろにいるのがミミ」
ミミは岸から少し離れた草の上にいた。
川を見ているが、近づこうとはしない。
「俺は、まだない」
魚が言った。
「名前?」
「ああ。必要なかったからな」
豪はミミを見た。
魚は、その視線を追ったらしかった。
「そいつも、つけてもらったのか」
「さっきな」
「そうか」
魚は石の周りを一度回った。
澪が口を開いた。
「ここには、長くいるんですか」
「分からん」
すぐに返ってきた。
「数えてない。明るくなって、暗くなって、また明るくなった。それは何度か見た」
豪は頭上を見た。
やはり夜は来る。
「ほかにも人、来た?」
「来る。水を飲もうとするやつ。川を渡ろうとするやつ。俺を捕まえようとするやつ」
最後の言葉で、澪の指が動いた。
魚は、流れの深い方へ少し離れた。
「お前らは、どれだ」
「何かないかと思って」
豪は答えた。
「課題とか。説明で、ポイントがもらえることもあるって聞いたから」
魚はしばらく黙った。
水面に、葉が一枚流れてきた。
石に触れ、向きを変えて下っていく。
「あったぞ」
豪は顔を上げた。
「課題が?」
「ああ」
「どこで」
魚が下流へ身体を向けた。
「曲がった先。水が落ちるところ」
豪はそちらを見た。
岸は少し先で曲がり、木々に隠れていた。
「行けば分かるのか」
「近くまで行けば、出る」
澪が豪を見た。
豪もうなずきかけた。
ようやく、何か見つかった。
そのとき、ミミの後ろ脚が地面を打った。
二人とも振り向いた。
ミミは耳を立てていた。
向いているのは、対岸だった。
*
茂みの間に、人がいた。
片膝をつき、こちらを見ていた。
豪が気づくと、その人影はゆっくり立ち上がった。
女だった。
暗い緑の服を着ている。
左手に弓があった。
右手には、矢。
豪は棍棒を持つ手に力を入れた。
隣で澪が一歩下がった。
「そのままで」
女が言った。
弓はまだ下を向いていた。
だが、矢を掛ければすぐに狙えるのだろう。
豪は澪の前へ出かけた。
「寄らないで」
女の視線が動く。
豪は止まった。
水の音が、さっきより大きく聞こえた。
女が川の中へ目を落とした。
「そいつ、何て言った?」
豪は魚を見た。
灰色の身体は、石の陰へ寄っていた。
「……課題があるって」
女は少しだけ目を細めた。
「滝のところ?」
「ああ」
女は弓を持ち替えた。
豪は構えかけたが、彼女は弦を引かなかった。
「行かない方がいい」
女が言った。
「私たちも、それを聞いて行ったから」
豪は川へ向き直った。
石の横にいたはずの魚が、見えなくなっていた。




