第9話 頼みたいこと
『矢城、今日ちょっと早く学校来れる?』
『お願いしたいことある!』
スマートフォンに表示された二つのメッセージを、矢城勇真はしばらく眺めていた。
「お願いしたいこと……?」
名取桃香から朝早くに連絡が来る。
元の高校生活では、まずなかったことだ。
連絡先自体は小学校からの付き合いもあって知っていたが、個人的にやり取りすることはほとんどなかった。
「何だろ」
少し気になったものの、考えても分からない。
『分かった。いつもより早く行く』
そう返信すると、すぐに既読がついた。
『助かる! ありがとう!』
「返信はやっ」
勇真は苦笑しながらベッドを出た。
◇
いつもより二十分ほど早く学校へ着いた。
教室へ向かうと、中から物音が聞こえてくる。
「名取?」
「あ、矢城!」
教室には名取しかいなかった。
机の上には色紙やペン、ハサミなどが広げられている。
「……何してんの?」
「これ」
名取が一枚の紙を持ち上げる。
『一年間よろしく!』
大きな文字の周囲に、クラスメイトの名前を書くための空白が作られていた。
「クラスの掲示物?」
「そう。先生に昨日頼まれたの」
「クラス委員でもないのに?」
「なんか私、こういうの頼まれやすいんだよね」
「分かる気がする」
「でしょ?」
名取は笑ったあと、机の上を指さす。
「朝のホームルームまでに、ある程度作っておきたくて」
「浅井は?」
「由実に頼んだら絶対しゃべって終わる」
「ひどい信頼だな」
「本人にも言ってるから大丈夫」
「それ大丈夫なのか?」
勇真は笑いながら鞄を置いた。
「で、俺は何すればいい?」
「これ切って」
「雑用じゃねえか」
「お願い!」
名取が両手を合わせる。
「……まあ、いいけど」
「ありがとう!」
勇真はハサミを受け取った。
◇
「矢城、そこ斜め」
「細かいな」
「だって貼ったら目立つじゃん」
「だったら自分で切れよ」
「私は文字書いてるから忙しいの」
「人使い荒いぞ」
「文句言わない」
「はいはい」
そんなやり取りをしながら作業を進める。
勇真はふと、不思議な感覚になった。
朝の教室。
名取と二人。
特別なことをしているわけではない。
ただ一緒に掲示物を作っているだけだ。
それなのに、元の高校生活では想像もしなかった時間だった。
「……何?」
名取が顔を上げた。
「え?」
「今こっち見てたでしょ」
「見てない」
「見てた」
「たまたまそっち向いただけ」
「怪しい」
「自意識過剰だろ」
「女子にそれ言う?」
「名取ならいいだろ」
言ってから、勇真は少し驚いた。
こんな軽口まで自然に出るようになっている。
名取も怒るどころか笑っていた。
「やっぱ変わったね、矢城」
「またそれ?」
「前なら絶対そんなこと言わなかった」
「そうだった?」
「そうだったよ。話しかけても『うん』とか『そうだね』ばっかり」
「……俺、そんな感じだったか」
「そんな感じ」
名取はペンを動かしながら続ける。
「別に嫌いじゃなかったけどね」
「え?」
「大人しかった頃の矢城も」
勇真の手が止まった。
「何?」
「いや……急に何言ってんのかなって」
「昔から知ってるんだから普通でしょ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
名取は気にした様子もなく作業を続ける。
勇真だけが少し落ち着かなくなった。
「……深い意味ないだろ」
小さく呟き、再びハサミを動かした。
◇
「よし、できた!」
名取が完成した掲示物を持ち上げる。
「意外と早かったな」
「矢城のおかげ」
「もっと感謝していいぞ」
「ありがとう、矢城様」
「雑だな」
二人で笑う。
名取が掲示板へ貼ろうと椅子を持ってきた。
「私やる」
「俺やろうか?」
「これくらい大丈夫」
名取が椅子に乗る。
掲示物を壁へ当て、位置を調整する。
「矢城、右もうちょっと上?」
「いや、左が下がってる」
「こっち?」
「そう」
「これくらい?」
「もうちょい――」
その時だった。
名取が乗っている椅子の脚がわずかに動いた。
「あっ」
身体が傾く。
「名取!」
勇真は考えるより先に動いていた。
落ちてきた名取の身体を受け止める。
「うわっ!」
二人とも勢いを殺しきれず、そのまま床へ倒れ込んだ。
「いってぇ……」
「……ご、ごめん!」
「大丈夫?」
「私は大丈夫。矢城は?」
「背中打った」
「本当にごめん!」
名取が慌てて身体を起こす。
「だから俺がやるって言ったのに」
「だって届くと思ったんだもん」
「落ちたら意味ないだろ」
「……はい」
珍しく名取が素直に反省している。
「まあ、怪我なくてよかったけど」
「矢城」
「何?」
「ありがと」
「ああ」
勇真は立ち上がりながら背中をさする。
大した痛みではない。
「でも、よくすぐ動けたね」
「ん?」
「私、落ちるって思った時にはもう矢城いたから」
「そう?」
「うん」
勇真自身は何も考えていなかった。
危ない。
そう思った瞬間には身体が動いていた。
「たまたまだよ」
「たまたまで人受け止められる?」
「知らん」
勇真は椅子を直す。
「今度は俺が貼るから、名取は下から見てて」
「分かった」
今度は勇真が椅子へ乗った。
◇
「おっはよー!」
勢いよく教室の扉が開いた。
「桃香、早――」
入ってきた浅井が止まる。
椅子に乗っている勇真。
その下にいる名取。
二人で作った掲示物。
「…………」
浅井の口元がゆっくり上がった。
「何?」
名取が嫌そうな顔をする。
「いやぁ?」
「その顔やめて」
「朝早くから二人で何してたのかなーって」
「掲示物作ってたの!」
「へえ~」
「先生に頼まれたやつ!」
「私は何も言ってないよ?」
「顔が言ってんの!」
勇真は椅子から降りた。
「浅井、お前絶対面倒くさいだろ」
「矢城、女の子に向かって失礼じゃない?」
「名取から聞いたぞ。手伝わせても喋って終わるって」
「桃香ぁ!」
「事実じゃん」
「親友に裏切られた!」
浅井が名取へ抱きつく。
「暑い! 離れて!」
騒ぎ始めた二人を見ながら、勇真は笑った。
少し前までなら、女子二人の会話に混ざることすら緊張していただろう。
今は普通に笑えている。
その変化が、少し嬉しかった。
◇
昼休み。
「矢城」
堀井がニヤニヤしながら近づいてきた。
「何だよ」
「朝、名取と二人だったらしいな」
「もう広まってんの?」
「浅井が言ってた」
「あいつ……」
「で?」
「で、って何だよ」
「何もなかった?」
「掲示物作ってただけ」
「本当に?」
「本当だよ」
「ふーん」
「その顔やめろ」
勇真が呆れていると、近くにいた高石まで会話へ入ってきた。
「でも名取ってかなりモテるよな」
「そうなの?」
思わず聞き返す。
「そうなのって、小学校から一緒なんだろ?」
「いや、モテるのは知ってるけど」
高石が笑う。
「入学してまだ一週間ちょいなのに、もう他のクラスから聞きに来てる奴いるらしいぞ」
「何を?」
「彼氏いるか」
「マジで?」
勇真は思わず名取を見る。
浅井と楽しそうに話している。
可愛い。
明るい。
頭もいい。
運動もできる。
誰とでも仲良くなれる。
「……そりゃモテるか」
「何を今さら」
堀井が呆れる。
「矢城は名取のこと、そういう目で見ないの?」
「そういう目?」
「恋愛対象」
「は?」
予想していなかった質問だった。
「いや……」
勇真はもう一度名取を見る。
恋愛。
高校生活をやり直すと決めた時、もちろん彼女も欲しいと思った。
人生勝ち組になるなら彼女くらい――そんな考えもあった。
けれど。
「分かんねえ」
「何それ」
「小学校から知ってるから、急にそういうふうに言われても……」
「じゃあ嫌いではない?」
「嫌いなわけないだろ」
「なるほど」
「何がなるほどなんだよ」
堀井が楽しそうに笑う。
「矢城、顔ちょっと赤いぞ」
「赤くねえ!」
声が大きくなった。
教室の何人かがこちらを見る。
「うるさい」
冷たい声が飛んできた。
三島だった。
参考書から目も上げずに続ける。
「恋愛話するのは勝手だけど、もう少し声量落としたら?」
「……すみません」
反射的に謝ってしまった。
三島はそれ以上何も言わず、参考書へ視線を戻す。
「怖っ」
堀井が小声で言う。
「聞こえてるけど」
三島が即座に返した。
「すみません」
今度は堀井が謝る。
勇真は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
◇
放課後。
勇真は一人で昇降口へ向かっていた。
朝の出来事。
昼休みの話。
頭の中に名取の顔が何度も浮かぶ。
「……彼女、か」
元の高校生活では、一度もできなかった。
好きな女子がいなかったわけではない。
ただ、どうせ自分なんか相手にされないと思って、何もしなかった。
告白どころか、仲良くなる努力すらしていない。
それなのに卒業する時になって、
『彼女の一人くらい欲しかった』
などと後悔した。
「今度は……そういうのも変えたいよな」
誰かを好きになったなら、自分から動く。
結果がどうなるかは分からない。
それでも、何もしないまま終わるよりはいい。
そう思った時だった。
「矢城くん」
後ろから呼ばれた。
「林?」
林円花が小走りで近づいてくる。
「今帰り?」
「うん」
「私も」
少しだけ沈黙が流れる。
円花が勇真を見る。
「あの……」
「ん?」
「途中まで、一緒に帰らない?」
「え?」
勇真は思わず聞き返した。
円花は少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「方向、一緒だから……」
「あ、ああ」
勇真は慌てて頷く。
「帰ろう」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
ほんの少し前まで、女子と二人で帰るなど考えたこともなかった。
朝は名取。
放課後は円花。
「……なんか今日すごいな」
「え?」
「いや、何でもない」
円花が不思議そうに首を傾げる。
勇真は誤魔化すように前を向いた。
人生を変える。
そう決めて始まった二度目の高校生活は、少しずつ元の三年間とは違う形になり始めていた。




