第7話 勝ち組になるために
四月十五日。
矢城勇真にとって、ようやく未知の日付がやってきた。
これまでのように、今日何が起こるのかは分からない。
誰が何を話すのかも、どんな出来事が待っているのかも知らない。
それは本来なら当たり前のことなのに、勇真には妙に新鮮だった。
「……普通って、こんなにありがたいんだな」
通学路を歩きながら、思わずそんな言葉が漏れる。
何度も同じ朝を迎えているうちに、次の日が来ることを当然だとは思えなくなっていた。
とはいえ、安心してばかりもいられない。
また何かを間違えれば、四月十日へ戻される可能性がある。
「でも……」
勇真は足を止めた。
この数日、自分はループから抜け出すことばかり考えていた。
いつの間にか、一番大事なことを忘れかけている。
高校卒業の日。
あの日、自分は何を決めた?
『どうせ変わるなら徹底的に、完璧な人生の勝ち組になってやる』
「そうだった」
ただ明日へ進むだけでは意味がない。
高校生活をやり直せるのなら、以前とはまったく違う三年間にする。
友達を作る。
勉強も頑張る。
恋愛だってする。
そして――。
「今度こそ、何もなかった三年間にはしない」
勇真は学校へ向かって歩き出した。
◇
教室へ入ると、すでに多くの生徒が登校していた。
「おはよう、矢城」
「おはよう」
名取がいつものように声をかけてくる。
そのまま通り過ぎるのかと思ったが、今日は勇真の机の横で足を止めた。
「ねえ矢城、部活決めた?」
「部活?」
「今日から仮入部できるじゃん」
「ああ……」
そういえばそんな時期だった。
「まだ決めてない」
「バスケやらないの?」
「迷ってる」
「もったいない」
名取は即答した。
「中学でもやってたじゃん」
「よく覚えてるな」
「小学校から知ってるんだから、それくらい知ってるって」
名取は笑う。
「私、女子バスケ入るよ」
「やっぱり?」
「もちろん。高校でも絶対レギュラー取る」
迷いのない答えだった。
名取らしい。
勉強もできる。
運動もできる。
誰とでもすぐに仲良くなれる。
そのうえ、やりたいこともはっきりしている。
「……すげえな、名取」
「何が?」
「いや、何でもない」
「今日それ多くない?」
笑いながら、名取は浅井のところへ向かった。
その姿を見送りながら、勇真は考える。
「部活か……」
元の高校生活では入らなかった。
中学まで続けていたバスケットボールも、高校へ入った時にはやめてしまった。
特別な理由があったわけではない。
新しい人間関係に入っていくのが面倒だった。
自分より上手い奴がいたら嫌だ。
馴染めなかったらどうしよう。
そんなことを考えているうちに、結局どこにも入らなかった。
そして三年間、一度も部活に所属することなく卒業した。
「……それも変えてみるか」
◇
休み時間。
勇真は廊下から教室へ戻ろうとして、足を止めた。
教室の中から大きな笑い声が聞こえている。
伊藤と佐藤だ。
その近くでは清水と栗原も話しており、いつものように賑やかだった。
「うるさい……」
少し離れた席から声が聞こえた。
本宮健吾だった。
本宮は成績優秀で、入学直後から授業にも真面目に取り組んでいる。ただ、その分自分の能力にはかなり自信があるらしく、勉強のできない相手を少し見下すところがあった。
特に騒がしい伊藤や清水たちとは相性が悪い。
本宮は参考書から顔を上げる。
「伊藤。少し静かにしてくれない?」
「あ?」
伊藤が振り向いた。
「今、休み時間だけど」
「休み時間なら何してもいいわけじゃないだろ。勉強してる人間もいるんだけど」
「だったら図書室行けば?」
「何で騒いでる側じゃなくて僕が移動するんだよ」
空気が少し変わった。
「おいおい」
佐藤が苦笑しながら伊藤の肩を掴む。
「レオ、やめとけって」
「俺まだ何も言ってねえだろ」
「顔がもう喧嘩すんねん」
「どんな顔だよ」
その言葉で周囲から笑いが起こった。
本宮だけは面白くなさそうに参考書へ視線を戻す。
勇真はその光景を見ながら、少し感心していた。
以前なら伊藤が声を低くしただけで、自分まで緊張していた。
けれど佐藤は慣れた様子で止めている。
誰と誰が仲がいいのか。
誰と誰が合わないのか。
以前の高校生活でも知っていたはずなのに、自分が輪の外にいたせいで深く考えたことはなかった。
「矢城」
「ん?」
振り返ると成瀬と高石がいた。
「今日、部活見に行かない?」
「俺?」
「バスケ部。迷ってるんだろ?」
体育の授業で話したことを覚えていたらしい。
「俺たちも見に行こうと思ってるんだ」
高石が続ける。
「成瀬はたぶん入るけど、俺はまだ決めてない」
「そうなんだ」
「だから一緒に行こうぜ」
「……いいよ」
以前の勇真なら、突然誘われれば「邪魔じゃないか」と考えて断っていたかもしれない。
だが今は、少し違う。
「行ってみる」
「決まりな」
成瀬が笑った。
◇
放課後。
三人で体育館へ向かう。
中からはボールが床を叩く音と、シューズが擦れる音が響いていた。
久しぶりの感覚に、勇真の胸が少し高鳴る。
「懐かしいな……」
「矢城、中学どこだった?」
成瀬に聞かれ、勇真は答える。
「じゃあ試合したことあるかもな」
「俺、そんな目立ってなかったけど」
「でも体育見た感じ、普通にできるじゃん」
「そこそこだよ」
それは謙遜ではなかった。
勇真は運動が苦手ではない。
むしろ同年代の中なら、それなりに動ける方だと思う。
ただ、圧倒的に上手いわけでもない。
「見学?」
先輩が声をかけてきた。
「はい」
「経験者?」
「三人とも一応」
「じゃあやってみる?」
ボールを渡される。
軽い練習に混ざることになった。
ドリブル。
パス。
シュート。
身体が覚えている。
「おっ」
久しぶりに放ったシュートがリングへ吸い込まれた。
「矢城、やっぱできるじゃん」
高石が声を上げる。
「久しぶりだから全然だよ」
そう答えながらも、勇真は少し楽しかった。
やっぱりバスケは嫌いではない。
◇
練習の最後に、短いゲームへ参加させてもらうことになった。
勇真と成瀬は別のチームになった。
「マジか」
「手加減しないからな」
成瀬が笑う。
「こっちの台詞だ」
言ってから、勇真は少し驚いた。
以前の自分なら、成瀬相手にこんな軽口を言えただろうか。
試合が始まる。
すぐに分かった。
「……やっぱ上手いな」
成瀬は速い。
周囲も見えている。
自分で点を取れるのに、味方へのパスも上手い。
勇真が必死に守っても簡単には止められない。
「くそっ」
悔しい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
その時、味方からパスが来た。
勇真がボールを受ける。
目の前には成瀬。
「来いよ」
「言ったな」
勇真はドリブルを始める。
右へ行く。
成瀬が反応する。
抜けない。
その瞬間、視界の端で味方の一人がゴール下へ走り込むのが見えた。
シュートを狙うか。
パスを出すか。
迷う時間はほとんどなかった。
勇真はすぐにボールを床へ叩きつける。
バウンドパスが成瀬の横を抜けた。
「っ!」
味方が受け取り、そのままシュートを決める。
「ナイス!」
声が飛ぶ。
「今のよく見えてたな」
成瀬が驚いたように言った。
「たまたま」
「いや、あのタイミングで出せるのはすごいよ」
「そうか?」
勇真自身には、それほど特別なことをした感覚はなかった。
空いていたから出した。
それだけだ。
けれど――こういう瞬間だけは、昔から判断に迷わない。
普段は人の顔色ばかり気にしているくせに、考えている暇のない場面になると、不思議なほど身体と頭が動く。
中学時代にも何度かあった。
ただ、高校へ入ってバスケをやめてからは、そんな自分が表に出る機会すらなくなった。
「矢城」
成瀬が笑う。
「やっぱバスケ部入ろうぜ」
「……考えとく」
「まだ考えるのかよ」
高石が笑った。
◇
練習を終え、三人で体育館を出る。
「俺は入るかな」
成瀬が言った。
「やっぱり?」
「うん。高校でもバスケやりたいし」
「俺どうしようかな」
高石はまだ迷っているようだった。
勇真も同じだ。
楽しかった。
入れば友達も増えるだろう。
高校生活だって充実するかもしれない。
――人生勝ち組になるなら、部活くらいやった方がいいよな。
そんな考えが浮かぶ。
その瞬間、勇真は少しだけ引っかかった。
「……またこれか」
「何が?」
成瀬が聞く。
「いや、何でもない」
勝ち組になるため。
友達を増やすため。
充実した高校生活にするため。
もちろん、それも理由にはなる。
でも、それだけでバスケを始めるのは、昨日までの「明日へ進むために人助けをする」のと、どこか似ている気がした。
「俺……」
二人が見る。
「もうちょっと考えてから決めるわ」
「いいんじゃない?」
成瀬はあっさり答えた。
「三年間やるんだから、自分で決めた方がいいよ」
「……そうだな」
勇真は頷いた。
◇
帰り道。
一人になった勇真は、今日のことを考えていた。
「人生勝ち組……か」
友達が多い。
彼女がいる。
勉強ができる。
運動もできる。
部活でも活躍する。
以前の勇真が思い描いていた「勝ち組」は、そんな人間だった。
そして、それをそのまま形にしたような存在が身近にいる。
「成瀬みたいになれば……勝ち組なのか?」
容姿もいい。
勉強もできる。
運動もできる。
友達も多い。
そのうえ性格までいい。
自分が欲しかったものを、ほとんど全部持っているように見える。
けれど――。
「俺が成瀬になるわけじゃないしな」
勇真は空を見上げた。
自分は自分だ。
成瀬と同じことを全部やったところで、成瀬にはなれない。
では、自分にとっての「人生勝ち組」とは何なのか。
「……分かんねえ」
卒業式の日には、もっと単純に考えていた。
今の惨めな自分と正反対になればいい。
それだけだった。
でも、実際に人生をやり直し始めると、思っていたほど簡単ではない。
「まあ、三年あるしな」
焦って答えを出す必要はない。
今度の高校生活では、自分でいろいろやってみればいい。
その中で見つければいい。
勇真はそう考えながら家へ向かった。
◇
その夜。
ベッドへ入る。
スマートフォンの日付は四月十五日。
「今日は……大丈夫だよな?」
何か失敗した覚えはない。
だが、もう眠ったあとのことだけは予想できない。
勇真は目を閉じた。
◇
ピピピピピピッ――!
「……ん」
目を覚まし、すぐにスマートフォンを見る。
【4月16日】
「よし……」
次の日へ進んでいる。
勇真は安心して息を吐いた。
「今日は何するかな」
何気なく呟いてから、少し笑った。
以前の高校生活では、朝起きた時にそんなことを考えた記憶がほとんどない。
学校へ行く。
授業を受ける。
帰る。
ただ一日が終わるのを待っていた。
でも今は違う。
今日、自分が何をするのか。
誰と話すのか。
何を選ぶのか。
少しだけ楽しみになっている。
「……これだけでも、前よりマシか」
勇真は制服に着替え始める。
人生の勝ち組が何なのかは、まだ分からない。
それでも少なくとも以前と同じ三年間にはならない。
そう思えるようになっていた。




