第52話 彼女ができた夏
家に帰ったのは、夕方の六時を少し過ぎた頃だった。
玄関で靴を脱ぎながら、俺はポケットのスマホを取り出した。林から何か連絡が来ているわけでもないのに、つい画面を確認してしまう。
今日、林と付き合うことになった。
帰りの電車でも何度か思い返したが、まだ少し現実味がない。告白した時の緊張も、林が好きだと言ってくれた時の嬉しさも、ついさっきのことのように覚えている。
「勇真、おかえりー」
リビングから母さんの声が聞こえた。
「ただいま」
「ずいぶん楽しそうな顔してるじゃない」
「そう?」
「うん。朝とは全然違う」
母さんはそれ以上追及せず、夕飯の支度に戻った。何も聞かれないと、それはそれで落ち着かない。
夕食の時間になると、今度は父さんが口を開いた。
「で、勇真。今日の成果はどうだった?」
「成果って何だよ」
「父さんの三十分前作戦は役に立ったか?」
「十五分前に着いたから関係ない」
「十五分か。まだまだ甘いな」
「四十分遅刻した人が言うことじゃないわよ」
母さんが横から口を挟むと、父さんは味噌汁を飲んで聞こえないふりをした。
「それで、林さんとはどうだったの?」
「……楽しかったよ」
「それだけ?」
「何が?」
「お母さん、もっと聞きたいんだけど」
母さんが箸を置き、期待に満ちた顔を向けてくる。父さんまでこちらを見ていた。
「映画観て、飯食って、ゲームセンター行った。それだけ」
「へえ。ゲームはどっちが勝ったの?」
「……林」
「勇真、バスケ部なのに?」
「バスケのゲームだけは勝ったって!」
母さんが笑い、父さんは「次は父さんが特訓してやる」と言い始めた。
付き合うことになったと話せば、きっと二人とも喜んでくれるだろう。ただ、今日はもう少しだけ、自分の中にしまっておきたかった。
◇
風呂から上がり、自分の部屋で髪を乾かしていると、机に置いたスマホが震えた。
林からだった。
『今日はありがとう。すごく楽しかった』
たった一行なのに、思わず口元が緩む。
『俺も楽しかった。また一緒に出かけよう』
送信すると、すぐに既読がついた。
『うん。次は私が行きたいところ決めてもいい?』
『もちろん。どこ行きたい?』
『ちょっと気になってる雑貨屋さんがあるの』
雑貨屋か。普段なら自分から行こうとは思わない場所だが、林が行きたいなら一緒に見て回るのも悪くない。
『いいじゃん。今度行こう』
『ありがとう! 楽しみにしてるね』
そこで会話は一区切りついた。
スマホを置いてから、俺はふと思った。
林が自分から行きたい場所を言ってくれたのは、何だか嬉しい。これまでは俺が提案すると「どこでもいいよ」と答えることが多かったからだ。
付き合い始めたからといって、急に何もかも変わるわけじゃない。それでも、少しずつお互いの知らなかった部分を知っていけたらいい。
そう考えながら、俺は翌日の部活に備えて眠りについた。
◇
それから一週間ほど経った。
八月の体育館は相変わらず蒸し暑い。窓を開けても入ってくるのは生ぬるい風ばかりで、練習が終わる頃にはシャツが汗で重くなっていた。
「矢城、最後のパスよかったな」
片づけをしながら、成瀬が声をかけてきた。
「健太が走り込んでくれたからだよ。あそこにいなかったら出せなかった」
「いや、俺が走る前に見えてただろ?」
「まあ、何となく」
成瀬は笑って俺の肩を軽く叩いた。
こうして普通に部活の話ができることにも、最近はずいぶん慣れてきた。
更衣室で着替えを終えると、高石が隣にやって来た。
「なあ勇真、今日このあと暇? 健太と飯食いに行くんだけど」
「あー、悪い。今日は林と約束してる」
「林さん?」
「うん」
高石はタオルを鞄に押し込む手を止め、俺の顔をじっと見た。
「お前、最近林さんと仲いいよな」
「……まあ」
「夏祭りも一緒だったし、二人で出かけたって言ってたよな?」
「そうだけど」
「まさか、付き合ってんの?」
声が思ったより大きく、近くにいた部員が一瞬こちらを向いた。
「声でかいって!」
「えっ、マジなのか?」
高石が顔を近づけてくる。ここまで聞かれて隠すのも変だと思い、俺は小さく頷いた。
「うん。この前から」
「うおっ、マジかよ! おめでとう!」
「だから声!」
「いや、だってお前! これは健太にも報告しないと!」
高石が更衣室の出口へ向かおうとしたので、慌てて腕をつかんだ。
「待て! 林にも言っていいか聞いてない!」
「……あ、そっか」
高石は足を止め、少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「悪い。嬉しくてさ。じゃあ、俺からは誰にも言わねえよ」
「助かる」
「でも、落ち着いたらちゃんと祝わせろよな」
「何をする気だよ」
「そりゃ、お前の初彼女記念に――」
「変なこと考えるなよ」
高石は笑いながら俺の背中を叩いた。
あいつが自分のことみたいに喜んでくれたのが、少しくすぐったかった。
◇
林が教えてくれた雑貨店は、駅から少し歩いた商店街の中にあった。
店先には小さな観葉植物や木製の置物が並び、ガラス越しに色とりどりの食器や文房具が見える。
「ここ、前から来てみたかったんだ」
「へえ。こういう店、よく来るの?」
「たまにね。見てるだけでも楽しいから」
林はそう言って店内へ入った。
棚には動物の形をした置物や、柄の違うマグカップ、手作りらしいアクセサリーが並んでいる。俺には何に使うのか分からない小物も多かったが、林は一つ一つを興味深そうに眺めていた。
「矢城くん、これ見て」
林が手に取ったのは、小さな猫の置物だった。
「何か、ちょっと偉そうな顔してない?」
「確かに。校長先生みたいだな」
「校長先生?」
「全校集会で話が長そう」
林が吹き出し、慌てて口元を押さえた。
「もう、そういうこと言わないでよ」
「いや、絶対長いって。この顔は」
そんなくだらない話をしながら店内を回っていると、林がある棚の前で立ち止まった。
そこには小さなガラス細工が並んでいた。青い鳥や花、透明な魚など、どれも指先に乗るくらいの大きさだ。
「綺麗だな」
「うん。光が当たると色が変わって見えるんだって」
林は青い鳥を手に取り、窓から差し込む光にかざした。透き通った羽の部分が淡く輝き、林は嬉しそうに角度を変えて眺めている。
その間、俺は隣の棚にあった妙な形の時計を見ていた。
「これ、どうやって時間読むんだろ」
「え?」
「針が三本あるのに数字がない」
「本当だね」
林は時計を一緒に覗き込んだあと、ふと店内の時計へ目を向けた。
「あ、結構時間経ってるね。そろそろ出ようか」
「もういいの?」
「うん。矢城くん、こういうのあんまり興味ないでしょ?」
「いや、そんなことないけど」
「無理しなくていいよ。私ばっかり見ちゃってたし」
林は手にしていた青い鳥を棚に戻した。
けれど、そのあとも一度だけ振り返っている。
もしかして、まだ見たいんじゃないか。
「林、もう少し見ていかない?」
「え? でも……」
「俺は別に急いでないし。林はどうしたい?」
林は少し考え、さっきの棚へ視線を向けた。
「……もうちょっと見たい、かな」
「じゃあ見ようぜ。せっかく来たんだし」
「いいの?」
「もちろん。俺も一緒に選ぶよ」
そう言うと、林はほっとしたように笑った。
再び棚の前に戻った林は、青い鳥と透明な魚を並べて、どちらにしようか悩み始めた。
「矢城くんなら、どっちがいいと思う?」
「俺? そうだな……青い鳥かな」
「どうして?」
「最初に林が手に取ったの、それだったから。気に入ってるんじゃないかと思って」
林は少し驚いた顔をした。
「……よく見てるね」
「たまたまだよ」
「でも、当たり。私もこっちが好き」
林は青い鳥を買うことにした。
会計を済ませて店を出ると、林は小さな紙袋を大切そうに持っていた。
「付き合ってくれてありがとう」
「いや、俺も楽しかったよ。変な時計も見つけたし」
「まだあの時計のこと言ってる」
「結局、時間の読み方分からなかったからな」
林は笑ったあと、少しだけ歩く速度を緩めた。
「私ね、誰かと出かけると、相手が楽しんでるか気になっちゃうんだ」
「うん」
「だから、自分が行きたい場所でも、相手が退屈そうだったら早く出た方がいいのかなって」
「俺、退屈そうにしてた?」
「ううん。でも、雑貨って男の子にはあんまり面白くないかなと思って」
なるほど。林は俺が嫌がっているのを見たわけじゃなく、そうかもしれないと考えていたらしい。
「俺も知らないものばっかりだったけど、林が楽しそうに見てるのはよかったよ。それに、興味ないものでも一緒に見たら面白いことあるし」
「……そっか」
「だから次も、行きたいところあったら言ってくれよ」
林は紙袋を持ち直してから、俺の方を見た。
「うん。じゃあ、また一緒に来たい」
「いいよ」
「今度はもっとゆっくり見たいな」
「了解。俺もあの時計の謎を解かないといけないし」
「それが目的なの?」
二人で笑いながら、商店街を歩いた。
林が自分の希望を言ってくれたことが嬉しかったし、俺も遠慮せずに楽しめた。付き合うって、こういう小さなことを一緒に決めていくことなのかもしれない。
◇
八月も後半になる頃、俺たちは親しい友達には付き合っていることを伝えようと話し合った。
高石には先に知られてしまったが、あいつは約束を守って誰にも話していなかった。
部活の帰り、俺は成瀬と高石、それから待ち合わせていた堀井に交際を報告した。
「えっ、林さんと?」
堀井が驚いて俺を見る。
「うん。少し前から」
「すごいじゃん、勇真! おめでとう!」
「ありがとう」
「いやー、ようやく言えたか!」
高石が満足そうに腕を組んでいる。
「お前は知ってただろ」
「知ってても正式発表は別だろ!」
成瀬は笑いながら、俺に手を差し出した。
「おめでとう、矢城。林さんと仲よくな」
「ありがとう、成瀬」
「でも、部活サボるなよ?」
「サボらないって!」
そのやり取りに三人が笑った。
以前の俺なら、誰かに彼女ができたという話を聞いても、輪の外から眺めているだけだったと思う。今はこうして、友達が自分のことを喜んでくれている。
それが嬉しくて、俺も自然と笑っていた。
一方、林も浅井と名取に交際を伝えたらしい。
その日の夜、林からメッセージが届いた。
『由実ちゃん、すごく喜んでくれたよ』
『よかったな。名取は?』
『桃香ちゃんもおめでとうって言ってくれた』
『そっか。今度会ったら俺からも話そうかな』
『うん。二人とも優しかったよ』
その頃、林から報告を受けた名取は、浅井と二人で帰る途中だった。
「林さん、嬉しそうだったね」
浅井がそう言うと、名取は小さく頷いた。
「うん。よかったと思う」
「矢城って、入学した頃とずいぶん変わったよね」
「……そうだね」
名取はそこで言葉を切り、少し先を歩く生徒たちへ目を向けた。
「桃香?」
「ん? 何?」
「いや、急に静かになったから」
「ちょっと考え事してただけ」
名取はいつものように笑い、浅井と並んで歩き出した。
◇
八月三十一日。
机の上には、ようやく片づいた夏休みの宿題が積まれていた。
「終わった……」
最後の一枚を閉じ、椅子の背もたれに体を預ける。
今年は早めに進めていたつもりだったのに、結局最後まで残ってしまった。もっとも、去年までのように何もすることがなくて時間を持て余すより、ずっといい。
部活では成瀬や高石と汗を流し、堀井とも何度か遊んだ。林とは二人で出かける機会が増え、行きたい場所や食べたいものを相談することも当たり前になってきた。
スマホが震えたのは、明日の時間割を確認している時だった。
『明日から学校だね』
林からだ。
『うん。久しぶりにみんなに会えるな』
『学校でも、よろしくね』
その文章を読んで、俺は少し考えた。
夏休み中は二人で会うことが多かったけれど、学校では友達もいるし、周りの目もある。今までとまったく同じというわけにはいかないだろう。
それでも、変に距離を置く必要はないはずだ。
『もちろん。学校でも林の彼氏だからな』
送信した直後、俺はスマホを机に伏せた。
「……何送ってんだ、俺」
自分で打ったくせに、改めて考えると恥ずかしい。
しばらくして通知音が鳴った。
『うん。私も矢城くんの彼女だよ』
その下には、小さな笑顔のスタンプが添えられていた。
俺は返事を送り、明日の教科書を鞄に詰める。
長いと思っていた夏休みも、終わってみればあっという間だった。
そして翌朝。
九月一日。
久しぶりに制服へ袖を通した俺は、鞄を肩にかけて部屋を出た。
二学期が始まる。




