第53話 二学期の始まり
九月一日。
長かった夏休みが終わり、今日から二学期が始まる。
朝の七時半。制服に着替えた俺は、鞄を肩にかけて玄関へ向かった。久しぶりの登校だからか、いつもより少し早く準備が終わってしまった。
「勇真、もう行くの?」
台所から母さんが顔を出した。
「うん。ちょっと早めに」
「珍しいわね。夏休み明けなんて、普通はもっと寝ていたいものでしょ」
「昨日ちゃんと寝たから」
「ふふ。学校に会いたい人でもいるのかな?」
母さんの笑顔を見た瞬間、余計なことを言えば面倒になると悟った。
「行ってきます!」
「はいはい。気をつけてねー」
背中に楽しそうな声を受けながら家を出た。
朝の空気にはまだ夏の暑さが残っている。駅へ向かう道には同じ制服の生徒がちらほら見え、久しぶりに聞く自転車のベルや、友達同士ではしゃぐ声が二学期の始まりを感じさせた。
夏休みは充実していた。
部活では成瀬や高石と汗を流し、堀井とも遊んだ。そして林とは、夏祭りから始まって、何度も二人で出かけた。
付き合い始めてまだ一か月も経っていないけれど、学校で会うのは今日が初めてだ。
夏休み中とは違って、教室には大勢のクラスメイトがいる。俺たちは今まで通りに過ごすつもりだが、実際に顔を合わせたらどうなるのだろう。
そんなことを考えているうちに、学校へ到着した。
◇
「おっ、勇真!」
教室に入るなり、高石が手を上げた。
「おはよう」
「おはよう。今日は彼女と一緒じゃないのか?」
挨拶より先にそれか。
「別に毎日一緒に登校するわけじゃないだろ」
「いやー、青春してるねえ」
「お前、朝からうるさい」
「夏休みの間に随分と変わっちまったなあ」
高石がわざとらしく目元を拭う。その隣では堀井が笑いをこらえていた。
「高石、からかいすぎだって」
「将士だって驚いただろ? 勇真に彼女ができるなんて」
「そりゃ驚いたけど、普通におめでたいことじゃん」
「堀井を見習えよ」
「でも、勇真が一番先に彼女作るとは思わなかったな」
「お前もかよ!」
二人が笑い、俺もつられて笑ってしまう。
夏休み前と変わらないやり取りだ。こうしてくだらない話ができる友達がいることを、以前の俺は想像もしていなかった。
その時、教室の扉が開いた。
「おはよう」
林だった。
何人かの女子に挨拶しながら自分の席へ向かい、途中で俺に気づく。
「おはよう、矢城くん」
「おはよう、林」
「昨日の宿題、ちゃんと終わった?」
「何とか。最後の一枚が意外と時間かかってさ」
「だから早めにやった方がいいって言ったのに」
「反省してます」
林は小さく笑った。
「でも、間に合ってよかったね」
「林のおかげだよ。途中で進み具合聞いてくれたし」
「それならよかった」
昨日の夜も話した内容だったが、こうして顔を合わせると、メッセージの続きをそのまま話しているような感覚になる。
「……おい、勇真」
横から高石が小声で呼んだ。
「何だよ」
「お前ら、思ったより普通だな」
「どういう意味だよ」
「もっとこう、目が合うたびに照れたりするのかと思ってた」
「そんなことしてたら授業にならないだろ」
林が俺たちのやり取りを聞いて笑うと、高石も楽しそうに肩をすくめた。
確かに、付き合ったからといって何もかもが変わるわけではない。
それでも林が自分の席へ戻る前に、俺の方を見てもう一度笑ってくれた時は、少しだけ胸が弾んだ。
◇
始業式とホームルームが終わり、教室には久しぶりの賑やかさが戻っていた。
夏休みの旅行や宿題の話であちこちに人が集まっている。俺も成瀬たちと部活の話をしていると、名取が近づいてきた。
「矢城、ちょっといい?」
「ん? どうした?」
「林さんと付き合ってるんだってね。おめでとう」
「ああ、ありがとう。林から聞いた?」
「うん。夏休みに教えてもらった」
名取はいつも通りの明るい笑顔を浮かべていた。
「二人、前から仲よかったもんね」
「そうかな」
「そうだよ。夏祭りの時だって、楽しそうだったし」
「名取も楽しんでただろ?」
「もちろん。あの日はみんなで行けてよかったよ」
そこから話題は夏休みの部活へ移った。
名取のいる女子バスケ部も練習が厳しかったらしく、暑さで体育館の床が滑りやすくなることや、休憩中の水分補給について話した。
「男子も結構きつかったよ。芹沢先生、休憩はちゃんと取らせてくれるけど、練習自体は容赦ないから」
「あはは。うちも似たようなものだよ。でも、二学期も頑張らないとね」
「そうだな」
そんな話をしていると、少し離れたところから林に呼ばれた。
「矢城くん、ちょっといい?」
「おう。今行く」
名取に断って席を離れようとすると、彼女は笑顔で手を振った。
「行ってらっしゃい」
「うん。またな」
数歩進んだところで、浅井の声が聞こえた。
「桃香、どうかした?」
「ううん。次の授業、何だっけ?」
「もう、さっき時間割見てたじゃん」
振り返ると、名取は浅井と並んで鞄の中を探していた。
いつも通りに見えたので、俺はそのまま林のところへ向かった。
「どうした?」
「先生が配ったプリント、矢城くんの分も預かってたの」
「あ、ありがとう。助かった」
林からプリントを受け取り、自分の席へ戻る。
教室の中では、それぞれの夏休みの話がまだ続いていた。
◇
昼休み。
購買へ向かう途中、廊下で清水と栗原に出会った。
「あっ、矢城じゃん!」
栗原が俺を見つけ、手を振ってくる。
「おう。久しぶり」
「ねえ、聞いたよ。林さんと付き合い始めたんだって?」
「うん。まあ……」
「へえ! おめでとう。よかったじゃん!」
栗原は自分のことのように喜んでくれた。
その隣で、清水は腕を組んだままこちらを見ている。
「千尋も何か言いなよ」
「何を?」
「おめでとうとかさ」
清水は栗原を一度見てから、俺に視線を戻した。
「本人たちがよければいいんじゃない」
「それ、お祝いになってないって」
「じゃあ、おめでとう」
「雑!」
栗原が笑う。
俺も思わず笑いかけたが、清水の表情を見て口を閉じた。怒っているわけではなさそうなのに、どこか距離を感じる。
「そういや、矢城」
「ん?」
「もう体は大丈夫なの?」
一瞬、何のことか分からなかった。
「ほら、火事の時。結構無茶したじゃん」
「ああ。もう平気だよ。部活にも普通に出てるし」
「ならいいけど」
清水はそう言って視線を外した。
夏休みの火事の後、病院で顔を合わせた時にも、清水は妙な反応をしていた。
あの時、俺が何か言うと、彼女は苦しそうな顔をしていた気がする。
もっとも、あれだけの騒ぎがあったのだから、思うところがあっても不思議ではない。
「千尋、そろそろ行こ。パン売り切れちゃう」
「はいはい」
栗原に促され、清水が歩き出す。
すれ違う時、彼女は一度だけこちらを見た。
「……無茶すんなよ」
「分かってるって」
「どうだか」
それだけ言って、清水は栗原と廊下の向こうへ消えていった。
以前の清水なら、もっときつい言い方をしていたかもしれない。
ただ、あいつが何を考えているのかは、相変わらずよく分からなかった。
◇
放課後。
今日は部活がなかったため、俺は堀井や成瀬たちと教室で話していた。
「そういえば勇真、夏休みの宿題、結局いつ終わった?」
堀井が尋ねてくる。
「昨日」
「ギリギリじゃん」
「一応全部終わったからいいだろ」
「俺は三日前に終わらせたぞ」
高石が得意げに胸を張る。
「健太に手伝ってもらってたくせに」
成瀬が笑いながら言うと、高石は慌てて首を振った。
「手伝ってもらったんじゃなくて、一緒に勉強したんだよ!」
「ほぼ答え聞いてただろ」
「細かいことはいいんだよ!」
そんなやり取りをしていると、教室の後ろから椅子を引く音が聞こえた。
真下だった。
川井と林剛を連れて、帰るところらしい。
何気なくそちらを見ると、真下と目が合った。
以前の俺なら、あいつと目が合っただけで身構えていただろう。
元の人生で、真下は俺をいじめていた。
教室で孤立していた俺にとって、あいつの存在はいつも気が重くなる原因だった。
けれど、今は違う。
俺の隣には堀井がいて、成瀬や高石もいる。部活にも居場所があり、林とも付き合っている。
もちろん、だからといって真下が怖くなくなったわけじゃない。
ただ、以前ほどあいつの顔色をうかがわなくなった。
真下は俺たちの横を通り過ぎる時、足を緩めた。
「……楽しそうだな、矢城」
低い声だった。
「まあな」
俺が答えると、真下は少しだけ眉を動かした。
何か言い返してくるかと思ったが、あいつはそのまま教室を出ていった。
「今の、何だったんだ?」
高石が首をかしげる。
「さあ」
俺にも分からない。
ただ、真下が去ったあとも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
「勇真、大丈夫?」
堀井が声をかけてくる。
「うん。何でもないよ」
そう答えてから、俺は鞄を持ち上げた。
「そろそろ帰ろうぜ」
堀井が頷き、成瀬たちも一緒に教室を出た。
◇
二学期が始まって数日が経った。
久しぶりの授業にも少しずつ体が慣れ、教室にはいつもの雰囲気が戻ってきていた。
そんなある日のホームルーム。
「よーし、お前ら。二学期最初の大仕事について話すぞー」
ハマヤンが黒板の前に立ち、チョークを手に取った。
「大仕事って何ですかー?」
誰かが尋ねると、ハマヤンはにやりと笑った。
「文化祭だ!」
教室が一気に騒がしくなる。
「おおー!」
「今年何やる?」
「食べ物系がいい!」
「お化け屋敷とか?」
あちこちから声が上がった。
ハマヤンは黒板に大きく『文化祭』と書き、こちらを振り返る。
「まだ準備の時間はあるが、出し物は早めに決めておきたい。今日はまず案を出してもらう」
そう言って、ハマヤンは黒板の端に候補を書き始めた。
喫茶店、お化け屋敷、展示、ゲーム。
意見が出るたびに教室が盛り上がる。
「はいはい! ちょっと待って!」
名取が手を上げた。
「みんな一度に話したら決まらないから、順番に意見出そうよ」
「おっ、名取。頼りになるな」
ハマヤンが笑う。
名取は前へ出て、黒板に書かれた候補を整理し始めた。
「まず、やりたいことを全部出して、それからできそうなものを選ぼう」
「それがいいと思う」
成瀬も頷き、周囲の生徒たちに声をかける。
さすがというべきか、二人が動き始めると、教室の空気が少しずつまとまっていった。
俺も何か意見を出そうかと思ったが、文化祭の出し物なんて、正直あまり考えたことがない。
元の人生では、こういう行事はいつも誰かが決めたことに従うだけだった。
今年は違う。
そう思って周囲を見回していると、林が何度か手を上げかけていることに気づいた。
けれど、誰かが先に発言するたびに、そっと手を下ろしてしまう。
林も何か考えているのだろうか。
以前の俺なら、代わりに声を上げていたかもしれない。
でも、今はそうしなかった。
隣の席へ少し身を寄せ、林に小さな声で尋ねる。
「林、何か考えてる?」
林は驚いたように俺を見た。
「……うん。実は、ちょっとだけ」
「どんなの?」
林は黒板を見てから、手元のノートへ視線を落とした。
「まだ、うまくまとまってないんだけど……」
「そっか。よかったら聞かせてよ」
そう言うと、林は少し迷ったあと、ノートを俺の方へ向けた。
そこには、小さな文字でいくつかの案が書かれていた。
俺は林の隣で、その文字をゆっくりと読み始めた。




