第50話 変わっていく夏
夏祭りの翌朝、目を覚ました俺は、枕元のスマホより先に机の上へ目を向けた。
そこには昨日、林が輪投げで取ってくれた小さな犬のぬいぐるみが置いてある。
帰宅してからポケットに入れたままなのが何となく嫌で、寝る前に取り出して置いたのだが、朝になって改めて見ると少し恥ずかしい。
「……俺、これ飾るの?」
高校生男子の部屋に、小さな犬のぬいぐるみ。
似合うかどうかで言えば、たぶん似合わない。
それでも引き出しへしまおうとは思わなかった。
『今日の記念』
昨日の林の声が蘇る。
それだけじゃない。浴衣姿で少し恥ずかしそうに笑った顔も、繋いだ手の感触も、花火を見ながら交わした来年の約束も、思い出そうとしなくても次々と浮かんでくる。
「……重症だな」
自分で呟いて、少し笑った。
スマホを手に取ると、メッセージが何件か届いていた。グループには昨日撮った写真が大量に送られていて、高石が変な顔をしている写真や、浅井と名取が屋台の前で撮った写真が並んでいる。
その中に、俺と林が写っている写真もあった。
「いつ撮ったんだよ……」
二人で話しているところを、少し離れた場所から撮られている。
送ったのは浅井だった。
『昨日のベストショット』
その直後、高石が反応している。
『完全にデート』
『うるさい』
俺が返信すると、すぐに既読が増えた。
『起きた!』
浅井から返ってくる。
『昨日どうだった?』
『何が』
『林さんと』
『普通に祭り回っただけ』
『へえー』
その文字を見て、俺は一瞬手を止めた。
何となく顔が浮かぶ。
『その反応やめろ』
『何も言ってないじゃん笑』
そこへ高石まで入ってきた。
『手くらい繋いだ?』
「……」
こいつ、何でそこだけ妙に鋭いんだ。
返信せずにスマホを伏せる。
数秒後、また震えた。
『無視は肯定とみなします』
「うるせえよ……」
思わず声が出た。
その時、別の通知が表示される。
林からだった。
『昨日ありがとう。楽しかった』
さっきまで騒がしかったグループの通知が、一瞬どうでもよくなる。
『俺も楽しかった』
打ち込んでから、少し考える。
これだけだと何か足りない気がした。
『またどっか行こう』
送信。
すぐに既読がついた。
『うん。行きたい』
たったそれだけなのに、口元が緩む。
「勇真ー! 朝ご飯できてるよー!」
「今行く!」
母さんに呼ばれ、俺はスマホを置いた。
立ち上がる直前、机の上のぬいぐるみをもう一度見る。
やっぱり、ここに置いておこう。
そう決めた。
◇
夏祭りから数日後、ようやく俺にも本格的に練習へ戻っていい許可が出た。
とはいえ、いきなり全力で動いていいわけではない。体調を見ながら少しずつ負荷を戻すことになっている。
「矢城」
体育館へ入った瞬間、芹沢先生に呼び止められた。
「今日から動いていいって聞きました」
「聞いてる。だから先に言っておく」
「何ですか?」
「調子に乗るな」
「まだ何もしてませんよ」
「お前は何かする前に言っといた方がいい」
「俺、先生からどう思われてるんですか?」
「二階から飛ぶ男」
「それ一生言われるやつですか?」
「少なくとも卒業までは使えるな」
「長いな……」
近くで聞いていた高石が吹き出す。
「有名人じゃん」
「嬉しくないよ」
「じゃあ、火事男」
「もっと嫌だよ」
「高石」
芹沢先生が呼ぶ。
「はい?」
「矢城が無茶しそうになったら止めろ」
「任せてください」
「何でお前が俺の監視役なんだよ」
「先生公認だぞ」
「絶対ろくなことにならない」
久しぶりに練習着へ着替え、コートへ入る。
軽く走ってみると、体は思っていたより動いた。ただ、以前とまったく同じではない。少し息が上がりやすいし、体の奥に鈍い重さが残っている。
それでも、嬉しかった。
ボールを受け、床へつく。
手のひらに返ってくる感触が懐かしい。
「矢城!」
高石から声が飛ぶ。
反射的に顔を上げると、空いた場所が見えた。
パスを出す。
高石が受け、そのままシュートを決める。
「ナイス!」
「ああ!」
たった一本のパスだった。
それだけで、戻ってきたと思えた。
◇
「止めろ!」
芹沢先生の声が体育館に響いた。
ミニゲームの途中で笛が鳴り、全員の動きが止まる。
「矢城」
「はい」
「今の、何で高石に出した?」
「え?」
俺はさっきの場面を思い返す。
「右に二人寄ってたんで、左が空くと思って」
「高石が空くのは最初から見えてた?」
「最初からっていうか……成瀬が右に動いた時に相手が一人ついて、その後ろもそっち見たんで、多分空くかなって」
説明すると、芹沢先生は少し黙った。
「お前、自分がボール持ってない時もずっと周り見てるな」
「そうですか?」
「自覚ないのか?」
「ないです」
「厄介だな」
「何で褒められてる感じしないんですか」
何人かが笑う。
芹沢先生は気にせず、コートの位置を指差した。
「もう一回やるぞ。矢城、お前は点取ろうとしなくていい。誰がどこに動いて、どこが空くかだけ考えろ」
「はい」
「高石」
「はい」
「こいつが変なところにパス出しても走れ」
「俺だけ仕事増えてません?」
「嫌なら取るな」
「取ります!」
再びゲームが始まる。
言われた通り、自分で点を取ることより周囲を見る。
誰がどこへ動くのか。
誰が何を見ているのか。
一人が動けば、別の場所が空く。
相手がそちらを警戒すれば、今度は反対側に隙ができる。
不思議だった。
考えようとすると難しいのに、実際に人が動き始めると何となく分かる。
火事の時とはまったく違う。
でも、どこか似ている気もした。
状況を見て、次に何が起こるのかを考える。
その中で、自分にできることを選ぶ。
「矢城!」
声が聞こえるより先に、俺はボールを出していた。
成瀬が受け、そのままレイアップを決める。
笛が鳴った。
「今のだ」
芹沢先生が言う。
「お前、やっぱりそっち伸ばせ」
「そっち?」
「周りを見る力だよ。自分が点を取ることしか考えてない奴より、よっぽど使える」
「褒めてます?」
「かなりな」
「先生、褒め方下手ですね」
「もう一本走るか?」
「すみませんでした」
高石が横で笑っていた。
俺も笑いながら定位置へ戻る。
勝ち組になる。
最初は、そのために勉強も運動も全部できるようになろうと思っていた。
でも、全部で一番になる必要なんてないのかもしれない。
俺には俺の得意なことがある。
それを初めて、少しだけ認めてもいい気がした。
◇
練習が終わり、体育館を出る。
「矢城」
後ろから高石に呼ばれた。
「何?」
「今日結構よかったじゃん」
「そう?」
「パスはな」
「余計な一言いる?」
「シュートは普通」
「お前より入るよ」
「今度勝負する?」
「いいよ」
言い返しながら靴を履き替えていると、スマホが震えた。
画面を見る。
林からだった。
『今日、部活?』
『今終わった』
『もう普通にできるようになった?』
『一応。先生には調子乗るなって言われた』
少しして返事が来る。
『それは先生が正しいと思う』
「何でだよ」
思わず呟く。
「誰?」
高石が覗こうとする。
「見るな」
俺はすぐスマホを胸元へ寄せた。
その反応だけで、高石の顔が変わる。
「林?」
「何で分かるんだよ」
「お前、分かりやすすぎ」
「うるさい」
「昨日から付き合った?」
「付き合ってない」
「じゃあ告った?」
「してない」
「手は?」
「何でそこに戻るんだよ!」
高石が大笑いする。
近くにいた成瀬までこちらを見て笑っていた。
「お前ら絶対楽しんでるだろ」
「そりゃな」
「矢城がこういう話するの珍しいし」
成瀬にまで言われ、俺はため息をついた。
でも、嫌ではなかった。
前の人生なら、自分の恋愛を友達にからかわれるなんて想像もしなかった。
そもそも、からかってくれる友達もいなかった。
今は、それすら少し楽しいと思える。
◇
その日の夕方。
家へ帰る途中で、林からもう一度連絡が来た。
『今度、暇な日ある?』
足が止まる。
俺から「またどっか行こう」と送った。
でも、具体的に誘ってきたのは林の方だった。
『あるよ』
『どこか行く?』
送ってから、返信を待つ。
『うん』
そのあと、少し間が空いた。
『今度は二人で』
「……」
思わず画面を見直した。
読み間違いじゃない。
『今度は二人で』
心臓が急に速くなる。
祭りでは途中から二人だった。
でも次は、最初から二人。
それって――。
そこまで考えて、俺は笑った。
前なら、すぐに「これはデートか?」と答えを探していたかもしれない。
でも今は、それより先に思うことがある。
林が俺と二人で出かけたいと思ってくれた。
それが嬉しい。
『行こう』
送信する。
すぐに既読がついた。
『楽しみにしてる』
俺もだ。
そう返そうとして、少しだけ迷った。
恥ずかしい。
でも、もう誤魔化さなくてもいい気がした。
『俺も楽しみにしてる』
送信。
スマホをポケットへ戻し、俺は再び歩き出した。
夏休みは、まだ半分も終わっていない。
去年までなら長すぎると思っていた休みが、今年は少しだけ短く感じ始めていた。




